A

Aの摂動

2.2 奇妙な訪問者

 ……なにそれ、ハリウッド映画みたい。
 わたしはギャングのボスの一人娘で、友だちには身分を隠して金持ちのいく学校に登校する。そこでわたしの身の上を狙う敵対ギャングと対決する!映画の最後に正体がバレるんだけど、わたしは伏し目がちに拳銃を懐に隠して「二人だけの秘密ね」って友だちに囁いてエンドロール。
 恋愛小説を読まない代わりにマフィア映画を好んで見るアウロラの頭の中には、不幸にも一瞬にしてそのようなストーリーが出来上がった。しかし、ポッターとハッジェの醸し出す空気から察するに、どうやら”今はそんな場合じゃない”ようだ。

「トム……マルボロ・リドル?」

 ちらっとハッジェの煙草<マルボロ>を見た。ポッターは全く笑わなかった。

「トムも昔は、ホグワーツを卒業した優秀な魔法使いだったらしい。しかし彼は魔法の中でもより扱いの難しい”闇の魔術”に傾倒し、歪んだ思想に浸りはじめ、しまいには愛情より力を信じるようになった。魔法族の持つ力だ。そして、純血主義を掲げて多くのマグルとマグル生まれの魔法使いを迫害しはじめた。勿論、マグル生まれかどうかに関わらず優秀な魔法使いは大勢いる。アウロラ、君は優秀そうだから知っているのかもしれないけど――そう、どんな種族、生き物においてもずっと純血のままではいられない。今や純血の魔法使いなんて数えるほど少なく、純血かマグル生まれかを優劣の為に区別するのはおろかな考え方だ。でも彼はそう思わなかった……多くの人が扇動され、やがて魔法界を二分する戦いへと発展した。それが十数年前に起きた戦争だ」

 ポッターは少しずつ間を開けて話し続けた。じわじわと現状が掴めてきてアウロラは何度か頷いた。
 わたしの父は犯罪者。魔法界の多くの人に嫌われている。マグル生まれを迫害して、純血だけで魔法界を仕切ろうとしたから。つまりわたしは優秀な魔女の娘だったけど、同時に悪い魔法使いの娘でもあったらしい。沢山のことを同時に聞いたからよくわからない。
 でもなんで二人は結婚したんだろう? なぜわたしは生まれたんだろう……。
 幸いにもアウロラはハーレクイン小説を読む趣味も、少女漫画を嗜む趣味もなく、彼女の頭に敵対勢力同士の禁断の恋という都合のいい産物は生まれなかった。

「それで……どういうこと?」
「想像してほしい。多くの魔法使いが犠牲になった戦いから数十年というのは、子どもの成長を見る分には長く幸せだけど、傷を癒やすのには短すぎるんだ。アウロラ、君にとっては本当に迷惑な話なんだけど、トムの持つ影響は未だ小さいとは言えない。もし君が魔法界で生きていきたいのなら――ホグワーツで、穏やかに、楽しい学生生活を謳歌したいのなら………、君の出生は隠さなければならない」

 そういうことなのね。
 アウロラは数回頷いた。「隠すかどうかはまた別の問題かも。少なくとも最初の内は、っていう話だ」とポッターは早口で付け足した。
 隠してほしそうな言い方だと思った。でも正直、ぽっと出の父親のことなんて今は結構どうでもいい。わたしにとっては、それこそ”死んだようなもん”と言われてきたクソ父が、本当にクソだったことが発覚しただけなんだから。隠せっていうなら隠そう、とアウロラは思った。
 ポッターは丸眼鏡の奥からアウロラをじっと見つめて、ことさらゆっくりと口を開いた。

「君には選ぶ権利がある。このまま、マグルの世界で生きていくのもいい。でも君は魔法使いだ。魔法使いがマグルになることはできない……その逆もしかり。適切な管理を得られなかった魔力は、ときに本人の意図しない形で暴走することもある。僕としてはやっぱり、ホグワーツ入学を勧めるよ」

 適切な管理を得られなかった魔力……アウロラはふと、今までの奇妙な経験を思い出した。スリのときに勝手に手の中に納まっていた財布、ハッジェの長細いタバコの灰殻、鮮明な夢を見た次の朝手の中で握っていた毒々しい花………あれはすべて、わたしの未熟な魔力が成したことだったの?

――もしかしてパン屋もそうなの?

「まあ好き勝手話してくれちゃって。アウロラ、そのホグワーツに行くつもりならあんたこの夏を最後にこの家から出ていくんだね」

 突然、今まで黙りこくっていたハッジェがやっと口を開いた。アウロラは目を丸くした。

「えーっと、ハティージェさん、まず彼女はまだ11歳ですし、ホグワーツは全寮制とはいえ夏季休暇に家に戻らなくてはいけません」
「だから、それが身勝手だっていうんだよ。今まで育ててやったのになにさ、いきなり全寮制の魔法学校に行くなんて……だいたいそれ幾らかかるんだ。貴族が行く学校だろう?」
「貴族……純血名家だけが対象とは限りません。先程もご説明したとおり僕も普通の魔法族の生まれでしたし、それにホグワーツには授業料はなくすべて魔法省がもっているんです。確かに多少所持品や教科書にお金が必要になりますが、普通に中学高校へと進学するのと比べたら少し少ないか同じくらいで、むしろ安いんですよ」

 ポッターはここにきて少し、わかりやすく動揺したがすぐにアウロラに向き直って「アウロラが決めることだ」とはっきりとした口調で言った。

「僕も、彼女と同じ年の子どもを持つ親なので……いろいろ苦労は解る。特にあなたは、血のつながりのない彼女をひきとって育てて……どれだけ大変なことなのか………、僕にも手に取るように、わかるんです」

 手に取るように、といいながらポッターは渋い顔をしている。

「でも、やっぱりここは子供の決断を……その、待ってみては?子どものが自分の道を、未来を決める初めての決断を、見守ってみてはいかがでしょうか?」

 アウロラはいたたまれなくなって眉間にぎゅっと力を入れて俯いた。ハッジェにそんなこと、ハッジェに向けてそんな言葉をかけてほしくない。ハッジェにそれを言って……それを言ったところでなんになるというんだろう。ハッジェがわたしにどう思っているのか、それが日の元に晒されるだけの、ああなんて惨めでやるせない一瞬が来るだけじゃないか。

「アウロラ、どうしたい?あ、そうだ、今すぐじゃなくてもいいんだ。返事は――」
「勝手にしなよ。あたしはもう店に戻る」

 ポッターの返事を遮ってハッジェは立ち上がった。アウロラはそこで、ポッターが”しまった!”というような顔をしたのが見え、ついで彼が右手に持っていたマントの中からもう一度杖を取り出して何かをしようとして、やがて諦めた一連の動きがすべて見えた。

「どうせこうなると思ってた」

 独り言のような捨て台詞。
 ハッジェはアウロラの方を見もせずに、バンバンバン!と音を立てて一階に降りて行った。 そこにはアウロラとポッターが残された。

「――行きたいです」

 アウロラは言った。

「わたし、ホグワーツに行きたい。行けますか?いつから入学できますか?」

 それは決別だった。寂しさと、なつかしさとほんの少しの塩辛いスパイスとの。わたしは違う人生を歩むんだ、と誰に言うでもなく心の中で強く唱えていた。
 わたしは特別で、優秀で、そのへんの凡百な人間たちとは違う……魔法使いなんだ。わたしはお金を盗む人や稼ぐ人ではなく、夢を空想したり憧れるだけではなく、欲望をまき散らしたり、心の中に閉じ込めておくだけではないんだ。強く、孤高で、なにものにも支配されない人になるんだわ。
 ポッターは唇を変な形に噛んでいたが、すぐアウロラを見て頷き「勿論だよ」と答えた。

「じゃあまず今後の流れだけど――あ、何か質問はある?」
「はい、」アウロラは頷いた。
「この近くにパン屋はありますか?」

 一階からハッジェが接客する声が聞こえる。窓の外は夕日が落ちて橙色が眩しい。
 ポッターは「パン屋ならほら、向かいに見えるじゃないか」と言った。そんなまさか、と思い窓に駆け寄ったが、やはり向かい側の建物には一階にクリーニング店があるだけで他はアパートが並んでいるだけだ。

「クリーニング屋しかない」

 アウロラは落胆した。

「そのクリーニング屋がパン屋なんだ」

 ポッターはなんてことないように言った。

「クリーニング屋が……?」
「アウロラ、君はあのクリーニングショップに行ったことある?」

 アウロラははっとなった。
 確かに、家の真ん前にクリーニング屋があるのにあの店に行ったことは一度もない。
 そもそもハッジェはわざわざクリーニングに出すような上等な服をそれほど持っていなかった。しかし冬と夏の変わり目にマットレスやコートをしまう前、さすがに家のドラム式洗濯機には入りきらないので毎年一本向こうのクリーニングショップに持っていく。アウロラは口に出したことはなかったけれど、目の前にクリーニング屋があるのにな、と思っていたのだ。

「毎朝いい匂いがして、クルドなまりのトルコ語でおじさんが挨拶をしてるのが聞こえるんです」
「それ、君が魔法使いだから聞こえるんだよ。そこのパン屋はたしかイスタンブールの主要土地への連絡通路だから……魔法使い専用のね……だからこの辺の魔法族が使ってて話し声が聞こえるんだろうね」
「なぜクリーニング屋のふりをするんですか?」

 むしろ、なぜパンを焼いてるの?と聞いた方がよかったかもしれない。どっちも謎だけど……ポッターはマントを羽織りながら「あー」と呻いた。

「見た目がパン屋だと……マグルが来すぎるからかな?すまない、ちょっとわからない。でもイスタンブールの移動手段は煙突か水路だから、きっと洗濯機が出入口なんだと思うな……それか地下水路が敷かれているのか…僕は今日煙突の方で来たから通ってないんだ。もしかしたら通勤客にパンでも売ってるのかもね」

 洗濯機が出入口?今日は煙突で来た?もう、耳も頭も追いつかない。こいつはサンタクロースなのか?
 アウロラは、ドラム式洗濯機にマントをつけた男が顔を突っ込んで、まるでトイレに流されるようにシュンッと吸い込まれるようすを想像した。マントの男は右手に油の染みた紙袋に入ったシミットを持っている……シミットは洗濯機の中を通るうちにずぶぬれだ。
 ポッターは先程までのじっくりとした語り口調とはうってかわって、せわしなく身支度を整えた。アウロラは「もう帰るんですか?」と聞いた。

「そうなんだ、ごめんね。仕事が忙しくて……実はここに来るのも同僚に無理言って、いや、無理を言ったわけじゃないけど――仕事を少々お願いしてここに来たんだ……せっかく来たんだからトルコ観光もしたかったし、もっと色々教えてあげたかったよ。でもあんまり知りすぎても面白みが薄れるでしょう?」

 ポッターはにやっと笑った。「まあ……」とアウロラは頷いた。正直なことを言うと、アウロラの胸のなかははち切れんばかりのドキドキとわくわくでいっぱいだった。

「それで、入学までの流れなんだけど、さっきの手紙にあるとおり入学前の準備が必要だ。魔法使いの必需品やら教科書や制服や……それらを一通り揃えるための買い物に行かないといけない。でも生憎僕は動けそうにないから、親戚を寄越すよ。7月15日早朝に、あの”パン屋”で待ってて」
「あの、はい!」
「いうまでもないけど、ハッジェ伯母さんにはちゃんとどこにいくか伝えてから家を出るように。僕も気持ちはわかるけど――保護者は心配するからね」

 ポッターは矢継ぎ早に、はきはきと”心配”の部分を強調して喋りテーブルに手紙を置き「それじゃあ、僕はいないけど7月15日に!」――と叫ぶやいなや、あっという間にいなくなってしまった。アウロラはポカンとして何度かまばたきした。本当に、今そこに立っていたはずなのに、瞬きした瞬間にいなくなっていたのだ。
 アウロラは大きく息を吸ってはいた。7月15日――あと二か月!
 一階からハッジェが注文を取る声が響いている。生まれたときから嗅ぎ慣れているひよこ豆のカレーの匂いが鼻についたが、いつもとは全然違う香辛料に感じられた。今まで想像すらしたことのない生活が始まるのだと思うとまるで羽根が生えて飛んで行ってしまいそうなくらい気持ちが軽い。アウロラは窓のさっしに両手をついて、向かい側の建物一階に小さく居を構えるクリーニング屋をじーっと眺めた。そして、少しずつ興奮が収まってくるととても大事なことに気が付いた。

――お金がない。

 ポッターは金の話をしなかった。授業料は無料といったが……じゃあそれ以外は?たしかハッジェには、「中等学校、高等学校に行くより安上がり」と言っていた。つまり、やはり最初にまとまった金が必要なのだ。
 アウロラは浮かれきった頭をひっぱたいて冷静に考えた。ハッジェは絶対に一文も出してくれないだろう。小学校の遠足ですら別途の出費を嫌うくらいだし、アウロラは”小遣いは自分で稼げ”のルールのもと旧市街まで赴いて釣りをしている。
 それに、ポッターはまず第一の……前提の話をないがしろにしている。
 ハッジェは本当に、わたしをホグワーツに行かせてくれるのだろうか?


 それから7月15日までの二か月弱、アウロラは手持ちの金を増やすためにあらゆることをした。まず普段よく釣り場にしているあたりの”元締め”に、所用で金が必要だから釣りの頻度を増やしたいことを願い出た。アウロラは人付き合いがあまり好きではなかったが、苦手でもなかったので、彼らは多少怪訝にしたり躊躇ったものの、最終的にはOKを出した。
 小学校の帰りにボスポラス海峡の方まで出て夕暮れ時の街を歩いたり、休日は旧市街、新市街にまで赴いていつもの釣りのグループの他にひとりでスリもした。普段ならやらない、声掛け役も買って出た。
 ハッジェはそんなアウロラをみて何か言いたげだった。しかしアウロラが必死の思いで溜めた貯金箱を盗んだり奪い取ったりはせず、「そんなんで溜まるわけない」と呟くだけだった。そしてアウロラがあれやこれやと金を稼いでいるとき、ハッジェはしょっちゅう家を空けた。何をしているのか、どこにいっているのかはわからなかったが、今までは年中無休で開いていた店を週に3日くらい閉めてどこかに行き、夜中に帰ってきた。
 7月になると、いよいよアウロラはハッジェの様子などまったく眼中にないくらい焦っていた。金が思ったように溜まらない。釣りと言っても所詮、子どもの買い食いやゲームセンターで遊ぶための小銭稼ぎ程度の規模でしかしたことがない。あまりに大々的な釣りは、それこそ地域のギャングやチンピラ集団に入らないとやらせてもらえないし、小学生で本格的にそんなことをするのは警察の目に留まるのでやらない。そうするとどうしても、そういう奴らの手伝いで仕事の一部を貰うくらいになるから、当然取り分も少ないのだ。

「ハッジェ、明日ホグワーツの持ち物を買いに行くから……朝6時に家をでるよ」

 とうとう7月14日の夜になり、アウロラは夕食の席でハッジェに伝えた。憂鬱半分、わくわく半分だ。一応無駄遣いせず、全力で稼いだものの、物価の高いイギリスではとても足りるように思えない。おまけにアウロラには、レートの知識もなかった。

「………」

 ハッジェは黙り込んだまま”ガシャン!”と皿をアウロラの前に置いた。ハッジェが何に苛々しているのか、実は、アウロラにはよくわからない。ただハッジェは元々憂鬱な雰囲気をよりうっそうとさせてここ二か月を過ごしていた。
 とにかく……アウロラは時計とカレンダーを見た。あした、買い物に行った先で金がないってことになったらどうすればいいんだろう。カレンダーの7月15日にはアウロラが赤ペンで書いたシルシがまるく点滅している。ふと数カ月前のほう……上の方に目をやると、四月にも赤い丸があった。誕生日プレゼントの約束をしてもらって書いたものだ。ポッターが来たことで有耶無耶になってしまった、丸いやつ。

「お金が足りないんだけど……貸してください」

 アウロラはフォークをぎゅっと握った。例え、見知らぬ誰かから奪い取ることになったとしても、こうやって人に面と向かって頼むことと比べたら百倍くらいマシだと思った。
 もっと上手に、人に頼めるようにならなきゃいけない……。
 だが、いくら待ってもハッジェはうんともすんとも言わず、水餃子のヨーグルトかけを食べ続けていた。アウロラは困り果てたが、もう当日が来てしまう。明日の服とリュック、大事に大事に溜めた金を枕元に置いて眠りについた。最悪足りないものは誰かに貸してもらうとか……服は家にもあるし、いらないだろう。今まで溜めた金で必要最低限の何かは買えるはずだ。


――その夜、アウロラは夢を見た。
 暗い家の中に根っこがはみだした大きな木が生えている。”君は魔法使いなんだよ”……ポッターの声が聞こえる。その木の根はからみあっていて、幹のなかが青白く光っている。木の棒のようなものが透けてみえて、青白い光が木から漏れている……その光が眩しくて目を細めると、頬を爽やかな風が撫でた。
 朝だ。マルボロの匂いはしなかった。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -