3.1 青の洞窟
さて、約束卯通りクリーニング屋に来た。当たり前だが水色の扉の前には『クローズ』の札がかかっており、『開店準備中。10:00~21:00』との文字が後から付け足したように殴り書きされている。扉にはめられたガラス窓にはカーテンがしまっていて中の様子は伺えない。アウロラはすこし声を張って「もしもし」と叫んだ。
「あの、すみません!」
声をあげながらふと、自分はなんてまぬけに見えるんだろうと思った。するとカーテンがシャッと開き、灰色の口髭が汚らしい男が顔を出すと鬱陶しそうに「まだ閉店中だよ」と言った。
「あの!わたし、ここで待ち合わせをしてます。イギリスに買い物に行かないといけなくて……話がついてることになっているんですが、何か知りませんか?」
男は怪訝な顔をしてまたカーテンをシャッと引っ張って引っ込んだ。しばらくして、アウロラの右手から人が歩いてきた。はじめはその人を、観光客かこの辺の住民だと思い、アウロラは目を合わせずにさりげなく道の脇にどいた。しかしその人物はアウロラの前で立ち止まり、「やあ、待たせた?」と言って膝を折った。
「はじめまして。僕はエドワード・ルーピン。ハリーおじさんから案内を頼まれて来たよ」
ああ、なんて幻想的な人なんだろう!
男は――青年はふしぎなみなりをしていた。朝日に照らされたラベンダーのような髪は耳を覆うくらいふんわりと長くて、瞳は優しげなアーモンド形をしてる。笑った口元から小さくみえる八重歯がどことなく子ども向けキャラクター……ポケモンみたいなやつ――を思わせるが、鼠色のマントは妙に埃っぽくて湿ったにおいがする。
「あなたのおなまえは?」
11歳のアウロラにとって、目線に合わせて膝をついて礼儀正しく名前を尋ねてくれる人は多くない。アウロラはすこしドキドキして「アウロラ・シャーヒンです。よろしくお願いします」と言った。
「よかった、人違いじゃなくて。アウロラ、僕のことはどうぞ気軽にテッドって呼んで!みんなそう呼ぶんだ。かしこまらないで」
「えー、はい」
さっき、自分の挨拶の声が幾分小さかった気がする。アウロラはうやむやに頷いた。
「じゃあ行こうか。忘れ物はない?向こうについてから戻ると時間が無駄になっちゃうからね」
「ありません。何回も確認したから」
アウロラは鞄の中身をもう一度思い返しながら、”そもそも戻るなんてできないよ。トルコからイギリスまで飛行機使って片道5時間くらいかかるんだから……”と頭の隅で考えた。
「ここ、いいところだね。こんなに早朝じゃなければ僕も色々観光したかったな。ほら、いろんな国の人がいるし、なんといってもイスラム圏には他にはない独特な魔法がいくつもあるんだ。ブラックボックスと言ってもいいくらい解明されてないことが沢山!ホグワーツの授業に宗教学はないけど、宗教と魔術は切っても切り離せない深い関係があるって聞いたことあるよ」
「遺跡とかは多いです。……でもイスラムに関しては、うーん、わたしの家はあんまり”熱心”じゃないので…」アウロラはハッジェの様子を思い浮かべて言った。「――ハッジェはトルコの人だけど豚肉も食べるしヒジャブも着ない。十字も切らないし坊主にもならない」
「ああ、そうなんだ。でもそれなら……考えようによっては良かったかも。ホグワーツも生徒に応じてハラールフードが提供されるけど、厨房でコンタミネーションがないとは言い切れないし……百パーセントのイベントや催しを楽しめるかといったら正直、うん、微妙なところがある。あ、これちょっと配慮が足りなかったかな」
「いいえ、全然」
テッドは軽快に話ながら店の周りをぐるりと裏手にまわりこみ、従業員出口とおぼしきドアの前に来た。よくある一般的な勝手口に見えるがなぜかドアノブがなく、鮮やかなブルーと白で目のような模様が描かれている。
「この模様、土産物屋でみたことある」
アウロラは突然思い出した。
「観光客向けの……お守りみたいな石についてるやつです!客がぼったくられてるの見ました」
「そうだね……トルコ独自の護符らしい。たしか”ナザール”とかいう……詳しく分からないけど、防衛魔術と……闇の魔術が組み合わさってるように見える。わあ、面白いな……」
テッドは扉に興味をひかれたようだった。しげしげと観察したいのを堪えるかのようにドアの前でかしこまると、右手をドアの前にかざした。すると濃いブルーの模様がまるで本物の目のように一度だけ瞬きして、次にニョキッとドアノブが生えた。
それを右手で掴んで中に入ると、中はボロっちいコインランドリーだった。そこをさらに通り抜けた先には、想像の三倍は広いガランとした空間に出た。
ホテルのフロントみたいな長い受付に、赤いとんがり帽子を目深くかぶった女性(少し肌が象牙色だがたぶんそう)が微動だにせず立っている。その後ろの壁には四つの入り口があり、群青やエメラルド、夕日色の鮮やかなトルコタイルで縁取られている。アーチ型の上には小さく金属看板がついていたが、文字が小さくて読めない。
「どちらまで?」
不気味な声で女が尋ねた。
「ダイアゴン横丁」
「おひとり様、越境料金5ガリオン」
テッドは受付に金を置いた。金――アウロラはそこで、ガリオンが金の単位だと気づいた。
「お金!」
「気にしないで」テッドはにっこり笑った。「魔法界での移動手段はたいして金がかからないんだ」
「でもわたし、持っています。ちゃんと稼いで貯めたんだから、借りたりしないわ」
アウロラはリュックから素早く財布を出して、「ガリオンって……リラにすると幾ら?」と聞いた。だがテッドは赤帽子の女からチケットを二枚受け取ると、アウロラの手をぐいっと強く引いて走り出した。
「後で教える。ほら、トンネルを抜けてロンドン行きの船に乗ろう!」
船? トルコからイギリスまで飛行機だって4時間なんだけど?いったい船で何時間かけていくつもりなんだろう……ハッジェは今日中に帰ってくると思ってるしわたしもそう思っている。
アウロラの疑問をよそに、テッドは駆け足で一番右端のアーチ型の通路をくぐった。一瞬真っ暗になったあとパッと光が飛び込んできてアウロラは「あ!」と感嘆の声を上げた。
そこは石造りの船着き場だった。目の前には霧深い海が広がっていて、崖の一角を削ってつくったような風情の船着き場が開けている。周囲は岩肌がごつごつとむき出しになっており、そこをイスラム建築風の建物が補強しているようなつくりだ。ドーム型の屋根は海に向かってコの字型に開かれており、5つの桟橋にそれぞれ二艘ずつ小舟が結んである。左右にそびえる二つの太い支柱は真っ白で、上を見上げるとまるでブルーモスクのような、この世の青と名の付くすべての青をかき集めたような美しいモザイクタイルがドームの内側を彩っている。
「すごい、海が………ドームが……」
言葉は途中で途切れた。すぐそばを誰かが通り過ぎていき、勢いで少し突き飛ばされた。
まだ早朝だというのに、まるで漁港の朝市のように大勢の人が行き来している。明らかに”ふつうではない人たち”が白やら深緑やらのぴらぴらしたマントを引きずっている。深緑のマントの下にてろてろの白いタンクトップをきた壮年の男は、灰色の袋に入った大荷物を小舟にドスンと置くと、水中に向けてなにやら一言二言話しかけ、どっこらしょと乗り込んだ。すると不思議なことに、オールもエンジンも帆もない舟がスーッとひとりでに動き出し、船着き場をでてやがて霧の向こうに消えていった。