2.1 奇妙な訪問者
しばらくして男はアウロラが彼の手を握りそうにないと察したのだろう、ハッジェを見やり、右手を無言で紺色の上着の中にひっこめた。
「……座って。お茶を出すわ」
ハッジェは無視して茶葉を用意し始めた。ポッターは「ありがとう。では僕は……このあたりで待たせていただきます」と会釈し、もう一度アウロラを見てぎこちなくはにかんだ。嘘くさい仕草だ。アウロラはじっと男を見たままじりじりとハッジェに近づき、鞄を背中からおろして「誰?」と聞いた。
ハッジェはアウロラと視線を合わせようとせず、冷蔵庫からチャイを出してコップに注いでいる。
――ハッジェは”ポッター”を知っているの?
アウロラは困惑してハッジェの傍から離れ、リビングのテーブル前に座る”ポッター”を凝視した。”ポッター”は何をしにきたといったっけ。”手紙を届けに来た”……手紙?わざわざ手渡しで?
柄にもなく緊張している。ポッターはわかりやすい脅威をぶら下げているわけでもなく、街でたまに見かける態度の悪いゴロツキでもなく、偉そうに威張っているわけでもない。体格だけならむしろなよっちい部類に入る白人男だ。背も低いし、丸眼鏡だし。
アウロラは鞄を壁に引っ掛けると、どこに居れば一番落ち着くかと少し迷ったが仕方なく男と同じテーブルについた。ポッターはアウロラの右の方を――いつもアウロラが宿題をする小さなローテーブルを見ている。すぐに母の写真を見ているのだと気が付いた。
ハッジェがコップを持ってきて無言で並べた。男はいつの間にかあのへんなマントを脱いでいて「ありがとうございます」とにこやかに挨拶して一口含んだ。マントの下はブルーの襟付きシャツを着ている……普通の服ですこしほっとした。男は一気に半分ほどチャイを飲んで「僕は仕事柄海外にも行くけど、この辺にはあまり来たことがないんだ。思ったより熱くて喉が渇いてたみたいで……ありがたいです。服装間違えたみたい」とぎこちなく笑った。
ハッジェは何も答えずにいつもの鬱陶しそうな様子でテーブルについた。
「……じゃあ、とりあえず自己紹介から。先程も申し上げた通り、僕はハリー・ポッター。イギリスの魔法省――役所のようなところで働いています。まずは突然の訪問をお許しください。この手紙は本来、今年度の入学対象者に郵便やフクロウ便を通して自動的に郵送され、本当なら二週間前に既に届くはずのものでした。ちょっとした手違いと……あとはまあ、超法規的措置を交わすにあたってトルコと英国の政府間で…色々な事情があって、結果的に僕が直接届けに来ることになってしまって」
「………?」
何か聞き逃せない単語がいくつか通り過ぎて行った。アウロラは英語が第一言語ではないので自分の聞き間違いだろうと思った。
「どうぞ、アウロラ。開けて読んで、返事を聞きたい」
男は右腕にかけたマントから封筒を取り出すと、優しげな眼差しでそれを一瞥してアウロラに差し出した。怪訝な気持ちでゆっくりと受け取る。
トルコ共和国
イスタンブール県 ユスキュダル群 イナチュリク
コル通り 5番地 12−104
『コリー・ラムジー』二階 窓際のベッド
アウロラ・アウリュム=シャーフィク様
少し黄ばんだ厚手の封筒の表紙にはトルコ語で住所が――なぜかベッドの位置まで書かれていた。封筒をうらっ返すと深紅の蝋に【H】の判が押されてて、蝋で固められた蓋を開けると中から二つ折りの手紙が出てきた。
「……ホグ……? すみません、英語が読めなくて…」
「ああ、そうか。それなら、」
男はどこからか木の棒を取り出して、封筒をトントン、と二回たたいた。「できるかな。僕はこういう方面の魔法がからっきしダメなんだ」と言って、その言葉の意味を理解する前にアウロラの目は紙の上に釘付けになった。紙の上にのたくっていた英語がグネグネと動き回って――文字が動き回った?――瞬きしたときには、まるで最初からそうだったようにトルコ語になっていた。
「え?……iPad?アプリかなにか?」
慌てて紙を持ち上げたが、アウロラの知らないうちに最新式超薄型デバイスが出回っていたということはなさそうだ。それならプロジェクターで映像が転写されているとか?どこかにプロジェクターマッピング用カメラが仕込まれているんだ。しかし首を見上げたところでいつもの我が家と同じ水色の壁と白い天井、カーテンと花柄のソファカバーが見えるだけでなにも変化はない。
「これでどうかな。読める?トルコ語になっているはず」
「スペルが違うようだけど?」
ハッジェが初めて(忌々しげに)口を出した。口を出すのはそこじゃない。アウロラはようやく一行目を読み始めた。
<ホグワーツ魔法魔術学校>
校長 ミネルバ・マクゴナガル
マーリン勲章、勲一等、変身術学会副会長、魔法法執行部特別職員、国際魔法使い連盟会員
親愛なるシャーフィク殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な……
「教材のリストをどうふ……」
その後は何かのリストがつらつらと並んでいる。「魔法魔術学校」で「必要な」「教科書並びに教材」リストらしい。
「その通り。アウロラ、君は魔法使いなんだよ。魔女ともいう。どうやら最近は魔女と魔法使いを呼び分けないのが流行っているようで、僕もたまに訂正されることがある」
男の声色は妙に意気込んでおり、はじけるように微笑む目尻に皺が寄った。アウロラは茫然としてポッターと名乗る男を見つめ返した。
魔法使いなんて、そんなの映画や童話の世界の存在のはずだ。この人は騙そうとしているのだろうか?オカルトマニア?病気の人?麻薬中毒者だってこんな風に堂々と幻覚を説明しない。しかしアウロラは、彼が何か嘘をついているという予感がする反面、”自分を騙そうとはしていない”ようにも感じられた。
ポッターはふと、「お茶請けを用意しよう。チャイにあうかはわからないけど……」といってマントの中から木の棒を取り出した。”木の棒”だ。棒の先端んで円を描くように動かすと、金色の鱗粉のようなものが何かの輪郭を取り始め、テーブルの上にパイが出現した。
「……うそだ、ありえない!」
ポッターは更に木の棒をチョイと振り、空中から皿と食器を三セット引き出す。
「ホログラムだ!」
「”ホグワーツ”」ポッターは訂正した。
「違う!そっちじゃなくて……だって…」
「わかる、気持ちはわかるよ……僕もそうだったから…僕の時なんていきなり従弟がブタになったし、半巨人が扉を吹っ飛ばして手紙を持ってきた。それと比べたらささやかで十分礼儀正しいはずだ」
従弟がブタに?巨人が……巨人もいるの?子どもだからって盛ってない?
皿の上に切り分けられたパイは浮遊して、審議を判定中のアウロラの目の前にコトリと落ちた。
そこでふと、アウロラは反射的にハッジェを見た。ハッジェは驚いた様子がない。チャイのコップについた水滴を指で触って、ただじっと黙って聞いている。
「……知ってたの?」
ハッジェは表情の抜け落ちた顔でアウロラを見た。
「わたしが魔法使いって知ってたの?」
「知っちゃいないさ。……ただあの子もそうだったからね」
「それ、つまり……アウリュムが?お母さんが?!お母さんが魔法使いだからわたしもそうなの?」
「知らないよ、詳しいことは」
「アウリュム・シャフィクは間違いなくホグワーツを卒業した魔女です。お会いしたことはないですが優秀だったそうです」
しん、となった。優秀だった……つまり母はやはり死んでいるんだ。
アウロラはなおもハッジェを見た。頭の中で疑問が次から次へと湧いて出て、片っ端からポッターに聞きたかった。だがそれよりもハッジェが今までそれを知っていたということを受け入れるのに時間がかかった。
「ハッジェは魔法使いじゃないの……?わたしだけ、」ハッジェは大きく息を吸い、はぁぁと忌々しそうにため息をつく。「そう見える?あたしが」
見えるも何も、ハッジェもポッターもわたしも同じ人間に見える。アウロラはいよいよ気が遠くなった。ハッジェは違う。わたしは魔法使い……。
アウロラはポッターを見た。
「母は死んでるんですか?」
「……残念ながら。ホグワーツに行けば色々と記録も残っていると思うよ。君の母について色々知ってる人もいるだろうし……」
「どうやって、」
ハッジェが何かを言いかけた。だがすぐに、「……いや、なんでもない。いいよ続けて」と促しチャイを飲み、ポッターが出したパイを食べ始める。まるで自棄のように見えた。ハッジェは空中から出てきたパイを食べるような人じゃなかったはずだ。
「アウリュムがどのように亡くなったのか……」ポッターは気遣うようにそっとアウロラを見て、またハッジェを見た。
「分かっていることはあまり多くありません。彼女は、魔法省の闇祓いという……つまりマグル界における警察のような、悪い魔法使いと戦う仕事をしていました。マグルというのは魔法を使えない人の呼び名で、僕たちの世界ではそう呼ばれています。十数年前に魔法界で大きな……悪い魔法使いが引き起こした戦いが起きて、彼女はその魔法使いたちを探し、いい魔法使いを守るために……戦っていました。その最中に亡くなったと聞いています。非常に多くの犠牲者が出て、とても痛ましい戦いでした」
アウロラは、そうだったのか、と思った。ポッターはアウロラの為というよりもハッジェの為に話したような口ぶりで、気づかわしげにハッジェを見て、またアウロラを見た。そのとき前髪の隙間から覗いた額に、細い傷跡があるのが見えた。それもその、悪い魔法使いといい魔法使いの戦いでできた傷だろうか。
「そんなことかと思った」
ハッジェは唇を舐めてポケットからマルボロを取り出した。
「そんなことかと思ったよ。いい子ちゃんだったからねぇ、美人で頭が良くて、家柄もよくて……」
いつものように厭味ったらしくグチグチ言いながら、ハッジェはずず、と鼻をすすった。アウロラはショックを受けた。あのハッジェが泣いている……。顔を覆う指は震え、指輪をつけた中指と人差し指の間から見える皮膚は赤く染まり、酒に酔ったときにように瞼が腫れている。黒く長い睫毛の隙間に黒いアイラインが滲んでいるのに、その上から容赦なく目をぬぐったせいで、元々隈のある目元がさらにどんよりと憂鬱に仕上がっている。
マルボロを加えてライターをまさぐっているハッジェに、ポッターは「火をつけます?」と言って手を差し出そうとしたが、クモかハエを追っ払うようなしぐさで追い払われて素直に引き下がった。
「それで、その、魔法学校って何をするんですか?」
「ホグワーツは素晴らしいよ。色々なことができるんだ……魔法薬学では大鍋で変な薬をつくるし、呪文学で鼠をマグカップにしたり……勿論マグルの勉強と同じようにいささか退屈なものもある。退屈の概念はひとそれぞれだけど、まあ、魔法史とか占い学は、僕にとって殆ど睡眠時間になったね」
ポッターはニヤリと悪っぽく口元をゆがめた。その仕草が苛立つのだ。アウロラは少々辟易したが、彼の興味深い話を阻害するほどのものではなかった。
「ホグワーツには大きな森と広い湖もあって、そこにはいろいろな生き物がいる。クィディッチとよばれる魔法界のスポーツもあるよ。ホグワーツは美しくて、神秘的で、とても遊び心にあふれた素敵な場所だ。君もきっと気に入る」
アウロラの脳裏には、既にめくるめくホグワーツの生活が広がっていた。ポッターの話すホグワーツは、それが本当ならどんな遊園地や映画館、遠足の遺跡めぐりを全部足してもお釣りがくるくらい魅力的で素敵な場所のように聞こえる。大きな森と広い湖がある学校?そんなの、近くの私立小学校にも観光地にもないし、映画やテレビで見る海外の暮らしにも引けを取らない豪華さだ。
「行きたい!わたし、あの、そこに行くにはどうすれば……この手紙が来たってことはわたしは行けるのよね?」
「そうだよ。勿論ハッジェ伯母さんが許せば、だけど……」
アウロラはそこで一気に苛々した。ハッジェが許すわけない。
「まあここはもっと魔法界に理解のない僕の親の場合もなんとかなったし、大丈夫さ」
「……貴方の親も魔法使いじゃなかったんですか?」
「うーん、いや僕も君と状況が似てて、両親が亡くなっていたから親戚のおばさん夫婦に育てられたんだ。コテコテのアンチ・魔法族一家で、そりゃーもう大変だったよ」
「両親共に……」
似てるというか全く同じだ。アウロラは眉をひそめた。魔法界はそんなに孤児が多い世界なのか?トルコなんかよりもっと治安が悪いのかしら。だがそんなに人が死ぬような戦い……戦争が起きたらわたしたちも気が付くはずでしょ?まさかイランイラク戦争もクリミア紛争も魔法使いの仕業なのだろうか。
「魔法界って今も戦争中なんですか?」
「まさか!戦争っていうほど規模は大きくないし、十数年前のそれが終わってからずっと平和だよ」
「そう……でも普通、戦ってたら気づきますよね?テレビやネットで見たことないんですけど、マグルってみんな魔法使いのこと知ってるの?それとも知らないのが普通なんですか?魔法使いは――」
「魔法使いは、マグルに見つからないような魔法をかけて巧妙に”隠ぺい”しているんだよ。魔法使いのマグル避けは見事なものだ、僕も初めて知った時は”そんなまさか”って思った。警察の目の前で麻薬の密輸をしてても気が付かないくらいの強力でへんてこりんな魔法がたっくさん!あるんだから」
ポッターは、まるで自分が今それを見たばかりであるかのように心底驚嘆したといった口調でそう言った。
その抑揚がなんだか妙に子供っぽくて恥ずかしい。耳が真っ赤になっている気がする。恥ずかしいし苛々する。君のことは何でもお見通しだよ、と言わんばかりの素振りをされるのは屈辱的だった。
「すみません」
「いいよ、僕もそうだった」ポッターはにっこりと笑った。「アウロラ、君を見てると懐かしくなるよ」……その言い方もピリッとくる。
しかし、そこでポッターの緑色の目から笑みが消えた。
「ただ、この手紙の返事を聞く前に一つ話しておかなければならないことがある。まず君に責任は全くない。当たり前のことだけど念押ししておきたくて……しかも大した話じゃないし、ホグワーツ入学にはなんの支障もない些細なことなんだけど……ちょっと厄介なことなんだ」
彼の緑の瞳が二、三回瞬きしてアウロラを見透かすようにまっすぐ見た。少しドキッとして反射的に目を反らした。
「何が厄介なんですか?」
「感情かな……人間の持つ情は、ときどき制御が効かないことがある。それはときに命よりも長くその場に留まり、理<ことわり>を曲げる。魔法界だと特に顕著にあらわれるかもしれない」
ポッターはパイから手を離しふきんで指の油をふき取ると、両手を指遊びのように手持無沙汰に動かし、テーブルの上にぺたりと伏せて載せた。そこではじめてアウロラから視線を逸らした。彼はテーブルの真ん中あたりを見つめている。ハッジェはようやくマルボロに火をつけることに成功し、沈黙の隙間を長い吐息が吹き抜ける。
しばらくしてポッターは指をあげ、真剣な顔でアウロラを見た。
「アウロラ、君の父親についてだ。これを伝えるべきかどうか……僕は悩んだ。でも、どうしようもないことなら先に伝えるのがフェアだと思ったんだ。これはある意味大したことじゃないけど、ある意味で君の人生に大きな影響を及ぼす事実になる。君がどう考え、どう判断するかは君次第だよ」
何の話かわからない。アウロラは怪訝に眉をひそめた。ある意味大したことじゃないけど、ある意味大きな影響を及ぼす事実……?何の話かわからないが、間違いなくいい話しじゃない。
「簡潔に言うと、アウロラ、君の父親は犯罪者だった」
ハッジェの、超スローテンポなメトロノームのようなタバコの吐息が止まった。
「それも、魔法界では最も悪名をとどろかせた魔法使いの1人でもある。そう、さっき話した戦いで”悪い魔法使い”だったひとりだ。名前は、トム・マールヴォロ・リドル」