5歳 ユズリハB
Side::東雲・ユキノシタ

「てか前言ってたけどお姉ちゃんに彼氏とは?どこで聞いた?どこで見た?」
「別に聞いたわけでも見たわけでもない」
「は?」
「フンイキってやつかな、言ってみれば。……ま、無神経なサエにはわからなかったのかもね」
「は?!なんか煽られたんだけど」

 リビングから漏れるサエとコゼツのたのしげな会話を聞きながら、家事をする時間が好きだ。

 ユキは、夕食の皿にこびりついたハンバーグソースと肉汁を、洗剤の染みたスポンジで擦り落とした。
 普段夫は夜遅くまで建築現場で働いてから一人遅く夕食を取るのだが、今夜は夜通し作業が続くというので一度帰宅して、久々に家族五人揃っての夕食を囲むことができた。香ばしいハンバーグの香りと、まだ温もりが残る凹んだクッションが先程までの賑やかさを引きずるダイニングで、1人皿を洗うのは少し億劫にも感じる。でも、ゆっくりと家族団らんを楽しむこともなく急ぎ現場に引き返した夫のことを考えると文句も言いにくい。夜食のお弁当もしっかりつくってしまったことだし――ハンバーグにチーズをトッピングしてホウレン草の胡麻和えと牛蒡とコンニャクをピリ辛に煮たのを詰めた。スグリは子供舌で、下手するとまだ5歳のサエよりお子様メニューが好きだー―美味しく食べてくれるといいけれど。
 乳幼児の子どもの世話をするのは本当に大変で、例えそれが十年前に一度経験していたことであっても、辛さを受け流すことは難しい。まず、眠れない。常に子供の様子に気を配っていなければならなくて息つく暇がなくて、今までの生活と同じようにはいかない。連綿と続いていた人生がいきなり全く違う人間の人生に変わってしまったような、妙な喪失感と焦燥感が心を蝕む。
 初めてのことばかりで右往左往していたユズリハのときと比べて粗方先の見通しがたっているという点では少し楽だった。しかし、やはり“大変さ”にも種類がある。サエを産もうと思ったときから今日に至るまで――いや、一人目であるユズリハの時からずっと、ああどうして、育児は難しさの連続だった。



 ユズリハは、風の強い春の夜に産まれた。
 体重2102gの小さい子どもだった。三人姉妹の中で一番最初に子どもを産んだのがユキだったので、初めて我が子を抱いたとき想像以上の重さに驚いたことを覚えている。頭ばかり随分大きくて重いが、こんなものなのだろうかと不安になった。妊娠、出産、育児における不安は大抵誰もが抱くものだから気にしなくていいさね、と看護婦さんは言ったが、ユキの不安はまんまと的中した。
 ユズリハはなかなか意味のある言葉を話せるようにならなかった。一歳半になっても歩行がおぼつかず、二歳になっても母親にべったりでユキと一緒じゃないと泣いて眠ってくれない子どもだった。
 『まあこういうこともあるよ。五体満足で生まれてくれて親が二人とも生きている、それだけで十分だ』とスグリは言った。その言葉は殆ど意味をなさなかった。ユキは、自分の育て方が何かユズリハに悪影響を及ぼしてやいないかと心配で、楽観的なスグリの態度を忌々しく思った。里民センターの相談窓口に通って、幼児待機室で他の子どもと無理矢理遊ばせて、ユズリハがなるべく“普通の”子どもに近づくよう祈った。
 元々ユズリハの後に二人目が欲しいね、という話はスグリとの間でも出ていた。彼は元々里外の村で戦争に巻き込まれた孤児で、養父と二人小さな家庭に育ったので老若男女で構成された大きな家族に憧れがあったらしい。対して、たかが豆腐屋とはいえ一応由緒正しく続く東雲豆腐店の次女だったユキは、歴史のある大きな家族にはほとほとうんざりしていたし、自分の子育てが本当に"正しいのか"気になってナイーブな時期が続いていた。
 それでも、きょうだいに助けられた経験がユキにはある。

『話ってなに?改まって言われると緊張するんだけど……』
『この前の喧嘩はもう許したって言ったでしょ』
『だって……』

 ユキは、いつのまにかリビングで寝ていたユズリハの傍に屈んで洗濯物を畳みながら、つい先日少々大掛かりな夫婦喧嘩をしたばかりのスグリを呼んで座らせた。
 当時3歳だったユズリハは、やはり他の子より幾分発達が遅れていた。他の子ならもうある程度文脈のしっかりしたことを話して意思疎通ができるはずなのに、まだ「にんじゃ」「ほかげさま」など単語を並べるくらいしかできなくて、「鉛筆を使ったら元に戻す」「トイレに1人で行く」など運動機能の一部がおぼつかなかった。それでも近所の少し年上のお兄ちゃんお姉ちゃんと一緒に遊ぶのが好きで、裏の林で虫を捕ったり河原で砂遊びをするのが大好きだったので少し安心できた。
 ……今となっては、申し訳ないことをさせてしまったと思う。あの頃ユズリハが外に出て遊んだのは、そういう行為をとることで“母”、つまりユキが安心するからだ。15歳になった今、ユズリハは決して外で男の子のように遊ぶのが好きなタイプではないとわかる。結局、ユキやスグリがユズリハのことを想うように、ユズリハも親を想っていた。

『ユズに弟か妹をあげたいと思うの』

 疲れ切って熟睡するユズリハに毛布を被せて、その上からとん、とん、とお腹をたたいてやりながらそう呟くと、スグリはしばらく無言だったがしばらくして「うん」と頷いた。
 正直スグリが子どもをもう一人か二人欲しがっていることには気づいていたが、ユキはもう色々なことに疲れていてそれを言い出す気持ちになれなかった。言い出してこないスグリにも少し苛立っていて――言いにくいことを黙ったままというのは逆に相手に気を遣わせているということなのに、なぜそれにすら気づかず沈黙に甘んじているのか――しかしそれが彼なりの気遣いの形であることも分かっていたので、二人目のことは夫婦の中で曖昧に浮いたまま、立ち上った湯気が天井に阻まれて消えることもできない雲のようにフワフワしていた。

『二人目ができたら、お義母さんはどっちかを豆腐屋の跡目に……って言ってくると思うけど』

 スグリが口ごもるのは、かつて母がなかなか話せるようにならないユズリハの様子をみて「随分と色々ぼんやりした子だけど、スグリさんに似たのかしら」とぼやいたからだ。スグリは、“ユズリハの一部の発達がゆっくりなことの理由が自分の血にあるのではないか、と母が思っており、そのことにユキが心底怒っている”ということを知っている。

『そうねー。でもまあ、お姉ちゃんの子どももいるし、そうなったらそうなったでいいじゃない。選ぶのは子どもなんだし』

 ユキは敢えてあっけらかんとした風に(若しくはそう聞こえていることを祈って)答えた。
 スグリののほほんとして鈍感なところは、先程のように偶にユキを苛立たせたが、ユキの真に繊細な部分にはどうしてか敏感に気づいてしまう。スグリは、ユキが相も変わらずユズリハのお腹をとんとんと叩いているのを眺めながら『勿論ユズリハは……話し相手がいた方が楽しいよね。ぼくもそうだったし』と続けた。
 スグリの父は本当の父親ではなく、木ノ葉の里が里の内外から集めた孤児院の育ちだ。普通の孤児院ではなく所謂“産業孤児院”であり、とある専門技術を学ばせて将来里の役に立ってもらうことを前提に扶養者のいない子供を請け負って育てる施設の出身である。里を運営する幾つかの組合は孤児院を持っていて、スグリがいたのは『木ノ葉の里大工協会所属孤児院』だった。そこで幼くから大工の仕事を手伝い、やがて師匠役だった人のもとに養子として引き取られた。大工として一人前に育ち、里に恩を返しつつ働く今でも、スグリは養父を“父さん”と呼び慕っている。

『そうだよねぇ。わたしは上も下もいるからわかるけど、やっぱりいざってときに助けになってくれるようなそういうきょうだいがいるのは……色々助かるものよ。きょうだいじゃなくたっていいけどね、やっぱりそういう近しい人間になりやすいから』
『うん。……まあ、ぼくだって工児院のとき兄弟分が誰もいなかったわけじゃないけどね、なかなかそう……、気の置けない仲ってのになれるほどには』

 結局二人とも考えることは同じだと悟った。スグリは正座して、真摯な面持ちでユキに向き合った。

『ユズリハの発育がゆっくりだからいろいろと心配することはあると思う。でもユズリハにきょうだいをあげたい。ぼくも二人目がいたらもっと幸せだし、楽しいと思う。ぼくは仮にどんな子供が生まれたとしてもその子を愛するし、ユズリハのことも勿論愛してる』
『わたしは?』
『……愛してるよ。どんなことになっても、家族は一生この世の誰よりも大事だから。ずっとほしかった存在だから……ユズリハのときは色々足りない部分があって、随分苦労させてしまったけど、次は頑張りたい。勿論ユズリハにもこれからもっと関わりたい。ユキと子どもたちで、幸せな思い出をたくさん作りたい』

 わたしを愛してるという大前提をまず最初に話すべきだ、と思ったが、少し恥ずかし気に耳を赤くしてたじろいたスグリを見てため息をついた。うん、そうだね。全くその通りよ。

『だから……、二人目、産んでください』

――こうして、二人目を産むことになった。
 しかしその後戦争の状況が悪化、ユキの実家やスグリの養父の方でそれぞれ問題が起きた。忙しい合間にも何度か“試した”が、どうしてか全く授かった兆しがこなかった。
 幸い、それで夫婦仲が悪くなることはなく、むしろサエを授かるまでの十年という時間に色々なことを三人のペースでこなしていくことができた。早くに結婚したことによる反動で色々と思い通りにいかない現実へのすり合わせができて、少し他の子とは違う育児にも慣れていき、十年間は幸せに過ぎていった。
 二人目を授かることができないことで自責の念に駆られたり、一人っ子のユズリハは寂しい思いをしているだろうかと親の前で背伸びしがちな彼女の内心に想いを馳せたりすることもあった。それでも、『焦ってもしょうがないし、ユズリハは友だちがたくさんいるみたいだから大丈夫だよ』『いつ授かってもぼくは構わない。資金面では昔よりかなり頼りになったと思うけど』『結婚記念日だし、久しぶりに二人目チャレンジしちゃう?』などと笑ってくれるスグリを見ていたら、色々要らぬことを考え構えていた気持ちが解けていった。
 ユキもスグリも大人になった。
 昔のユキは、「大人とは、二十歳になったらもうずっと“大人”というレッテルのまま変わらない」のかと思っていた。だが三十六歳になった今「そんなことはない」と分かる。大人の中にも“大人なりたての大人”、“試行錯誤する大人”、“大人に慣れてきた大人”、“第二の人生を楽しむ大人”、“大人も頼れる大人”と沢山いる。
 ユズリハ一人に泣きながら苦労していた頃と比べて、自分たちは少し“たのもしい大人”になった。
 そう思った頃に――思い出したように授かった十年ぶりの子ども。それがサエだった。

 高齢になればなるほど出産には不安がつき纏う。
 忍里において31歳での妊娠はごく普通の年齢だ。一昔前なら、終わりの見えない忍界大戦の為に女は生涯を通してぽこぽこ子供を産まなければならなかったし、その頃産まれた母に聞いた話によると最高年齢で81歳の女性が子供を産んだそうだ。『あの人は燃えるような赤い髪をした、鬼神のような“くのいち”で……遠くから一度お見かけしたことはあるのだけど、還暦を過ぎてもとても美しい人だった』と話す母は、よく遠く蜃気楼を見るような眼差しで木ノ葉の里創設黎明期の思い出を語って聞かせた。
 しかし、ユキは一般人だ。特殊な訓練を受けた忍一族の女と何の力も持たない一介の豆腐屋とでは身体の作りからして違なる。ユキは、湖の上を軽やかに駆けて、モグラのように土の中を潜り、水中を泳ぐ魚のように自由に空を舞う彼らを、自分と同じ種類の人間とはとても思えなかった。実際、忍一族ではない人間が高齢で出産すると心身ともに“問題のある”子が産まれると言われていたし、生理さえあれば後は若ければ若い方が良いというのが常識だ。そうなると、やはり自分と同じような市井の民の平均出産年齢より五つばかり年上なだけでも不安は尽きなかった。
 なんせ、若くして産んだユズリハでさえ――。
 もう乗り越えたと思った葛藤やトラウマがぶり返して、再びユキを蝕もうとした。そのたびに心を奮い立たせた。
 こんな言い方はユズリハに失礼だ。あの子はあの子なりに頑張っている。現に負けず嫌いで優しくて、しっかりした女の子に育ってるじゃない。この世の誰よりも、親が子どもの背中を“お前は立派だ”と胸を張らせてやらなくてどうする?

 果たして、サエは無事に生まれた。
 真っ赤な手足を折り曲げた身体は小さくて、肌はしっとりと濡れていて、頭ばかり異様に重いところもユズリハのときとそっくりだった。サルのような皺くちゃの顔で、ぎゃぁぎゃぁ泣く声を聴けた。人差し指で頬をつつくと、ユズリハに似たこげ茶色の瞳でこちらを見てくれた。幸運にも五体満足で生まれたあの子は、0歳でも、1歳でも、2歳での定期健診でも『心身ともに健康、問題なし』という診断結果をお医者様から頂けた。



「ボクだって適当に言ってるんじゃないし〜。ちゃんと論拠がある」
「フーン、じゃあ述べてみよ」
「人間は他の動物のように男女で見た目の差異が少ない。例えば鳥はオスとメスで大きく外見が異なるものが多く、オスは美しい色どりの羽根を見せつけてメスに自分をアピールすると図鑑にある。よって、人間も異性に興味が出たとき外見に、自発的にしろなんにしろ何らかの変化が現れると考えられる」
「つまり……最近お姉ちゃんが可愛くなったってこと?」

 リビングからは相変わらずサエとコゼツの良く分からない会話が聞こえてくる。あの二人はいつも、子ども特有の独創的アイデアを爆発させた良く分からない話で盛り上がる。子どもってのは大体そうだから気にしないことにしているが、それでも偶に耳を疑ってしまう。――この前話していた『ミナトは多分二年以内に死ぬんだけど』ってなに?お母さんちょっとびっくりしちゃう……。
 皿を全て洗い終えて食器かごを上の方に乗せた。この後は一旦二人とユズリハをお風呂に入れて、明日の仕事の準備をして朝ごはんの準備をして、二人がお風呂から出たらわたしが入って――帰宅したスグリが洗濯物を出すから明日の朝それを回して、ああ、アサリの砂抜きだけしてからお風呂に入ろう。



 十歳も年が離れていることのメリットは、やはり子供の面倒をユズリハに任せられることだ。
 ユズリハは突然できた下の子――それもコゼツというおまけつき――にそれはもうはしゃいでいて、幼い頃発達の遅れで悩んでいたときとは見違えるほどに『お姉さん』になった。
 結局ユズリハの色々な“遅れ”がなんだったのかよくわからないままだし、「突然予定が狂うと混乱して不機嫌になったりべそをかく」とか「計算が苦手なことをやたら気にして、自室でこっそり算数の練習をしている」といった今の性格は幼児期の発達の延長なのだと思う。それもユズリハなのだと、“遅れ”とか“劣り”という一本の定規で定めていいような良し悪しではないのだと、今では認められるようになった。しかし、親であるユキやスグリ以上にユズリハ自身がコンプレックスとして気にしていた素振りがあったので、“彼女のコンプレックスは幼児期の我々の焦りや劣等感が植え付けてしまったのもなのではないか”という罪悪感があった。
 どうしてか、下の子が産まれてから、ユズリハのそれらの性格は少し落ち着いた。
 元々小さな子供を可愛がるところがあったが、サエが産まれてからというものの彼女の面倒見欲に火がついたかのようにサエにべったりだ。少し前まで、自分の発育に自覚的になってからはやたらと「わたしも他の同い年の子みたいにできる」アピールをしてきてはユキやスグリの罪悪感を煽ったものだが、そういう素振りも鳴りを潜め、話すことと言えば「サエちゃんて凄いんだよ、もう算数ができるの」「コゼツくんはサエちゃんのことお姉ちゃんみたいに慕ってるんだよね……ユズ思うんだけど、コゼツくんてサエちゃんのことちょっと特別に思ってると思う」と二人のことばかり。
 最初は、自分が守らなければいけない小さな子が近くにいることで、“自分の欠点”よりも“幼い妹弟をどう守るか”に注意が向いたからなのかと思った。だが、二人ともそんなに手がかからない。むしろ十歳のユズリハより大人なのではないかと思うほどの――そして親であるユキやスグリすら知らないことを知っている――教養を見せることすらある。

――ユズリハは、サエを見て悔しくなったり、更に劣等感を抱いたりしないだろうか?

 ユキもスグリも、そのことがふと頭を掠めるほどサエの発達は異様だった。親の二人はユズリハの経験を経て発育の状態に対してある程度の開き直りがある。だがユズリハは?ちゃんと安心させて、あなたはあなたの在りたいように在れば良いのだと、言ってあげた方がいいのだろうか。
 親のそんな不安は、しかし全く的外れだった。
 ユズリハはサエの様子を見て驚き褒めることはあれど、自分と比べることはしなかった。ただひたすらに、「サエちゃん、最近コゼツくんをビニール袋に入れて河原に放置してそれを眺めるのにハマってるんだよね」「蒸発した水分の量と、酸素?の量を測ってるんだって。わたしはお姉ちゃんとして、ちゃんと二人が危ないことしないか見てなきゃいけないけど、でも二人のやりたいことを妨げるのも良くないでしょ?だからちゃんと遠くから見てるだけにしたよ」なんて言って、二人が楽しそうにしているのをみて楽しそうにしている。
 ユキはそのとき、ユズリハの誠に優しい心根を垣間見た。
 ユズリハはただ、自分がそう在りたいように在ることの尊さと喜びを知っている。同時に、自分を支える周りの人たちを悲しませたくないし、幸せにしたい。ユズリハは、自分がどうもうまく“親”を安心させることができなかった分、サエとコゼツが楽しみながらもちゃんと“そう”できるように見守りたいのだろう、と。
 なんて優しい子なんだろう。
 ユキは、三人が寝静まった後スグリにそう打ち明けた。――なんて優しい子に育ったんだろうね、わたしたちの子は。
 涙が止まらなくなって、今までの十四年間を思い出して言葉が何も出てこなくて、ただ震えるユキに、スグリは『だから言っただろ、心配ないって……』といって俯いた。

『ユキが自分を、ユズリハと自分の育て方を……悪く思わなくなってくれれば、今はそれだけでいいよ。嬉しいよ』

 鼻声混じりで、相も変わらずどこか照れた様子でスグリは笑った。

 結果的に見て、十歳違いの姉妹というのは育てやすい。
 歳が近い子供を育てるのは、出産の心配などを除けばとても一筋縄ではいかぬ仕事あろうことはなんとなく知っていた。ユズリハが3歳だった頃、里民センターで育児仲間だった転寝さんには男の子2人と女の子1人がいて、上から8歳、6歳、4歳ときっちり二歳差だったのだが、それはもう大変そうだった。
 彼女は4歳の末っ子を連れてセンターに来ると、いつも礼儀正しく頭を下げた。転寝一族と言えば、木ノ葉創設初期に里に参画した由緒正しい忍族であることくらいただの里民でも知っている。うちは一族、日向一族、猿飛一族など……有名一族の人たちは、まあ色々と忍としての体面やら良しとされる素振りがあるのだろう、平民に対して威圧的とは言わずとも線引きした固い態度をとる人も少なくない。ユズリハの心の中に、“忍者というのは結局わたしたち一般人とは違う、別世界の住人で人種なのだ”という意識が染みついているのも、幼い頃から目の当たりにしてきたそういう常識が作り出したものだろう。
 だが、そんな中で彼女は、疲れが隠しきれない顔で『ユキノシタさん、こんにちは。ユズリハちゃん、こんにちは。うたたねおばさんですよ』と溌剌に笑って挨拶してくれたのが好印象だった。ユキよりも五つ年上で、だがユキよりもずっと若く第一子を産んだ経験がある彼女は酷く大人に見えたものだ。ユキは、想像以上に夫が頼りにならないことへの失望や初めての経験で塞ぎがちだった気持ちを払しょくするためにもよく里民センターに通って、子どもが勝手に遊んでくれる合間にやれこの年になっても夜泣きが終わらないとか、トイレがいつまでも一人でできないとか、諸々の相談に乗ってもらった。
 三人を産んだとは思えないほどきれいな人だった。
 わたしもこの人みたいに、子どもが欲しい幸せも、きれいでいたい幸せも、仕事をやり通したい気持ちも、全部ちゃんと大事にしたいと思った。転寝さんは今でも憧れの母親像の1人だ。
 三十路近い彼女の、白く綺麗な肌には昔任務で負ったという刀傷が残っていた。『最近はとんと任務に出てないからこんなに綺麗になっちゃって』と笑う横顔に色気があって、忍者ってかっこいい、と初めて思った。生来皮膚が薄いのか浅黒い隈が目立ってしまうことを気にしていたので、お気に入りの染み隠しを教えてあげた。転寝さんの一番上の子は今年で二十歳――生きていれば、成人だ。
 転寝一族は木ノ葉の里のなかでも指折りの大きな一族と聞くだが、確か初代火影様と同じ千手一族をはじめとしたあのあたりの……あまり詳しくないが、あのあたりの一族は皆混血が進んでいて、転寝性を名乗る人はそこまで多くないそうだ。そのほぼ全員が、続く忍界大戦で命を落としたと彼女は話した。彼女は長男を十一歳という若さで亡くしたので、もう一人産んだという。それは望んで産んだのか?それとも誰かに望まれて?……なんて聞けなかった。

『ちょっと疲れちゃったかな』

 ユズリハの育児にやっと慣れてきた頃に、久しぶりに会った転寝さんは以前より更にやつれていた。『うちは色々厳しくて、あの子にも随分窮屈な思いをさせちゃって……そのせいかこんなに小さなころから眉間に皺寄せる堅物になっちゃってたけど、あの子はね、こうして額を撫でてやるときだけはね……』そう言って、末っ子の男の子のおでこを撫でて嫌がられてはほんのりと笑った。『あはは……。……おでこを撫でられるのが好きだったんだぁ。あのときだけは眉間の皺がなくなって、穏やかに眠るの。どうせ短い命なら、もっと穏やかに過ごさせてやりたかったな』消え入りそうな声で、泡沫の向こう側の魂を追いかけるように遠くを見て笑う姿は痛々しくて、まるで別人のようだった。
 彼女も同じだったんだ。
 以前は助けられたあの溌剌とした笑みは彼女なりの強がりで、彼女もまた折れそうな心を奮い立たせてきた母親なのだと――同じ仲間なのだとそのときやっと理解した。
 今度はわたしが力になりたい。ユキはそこそこ大きくなったユズリハをスグリに任せて、転寝さんをなるべくお茶や美容室に誘って、子どもの面倒を見て、できることならなんでもしようと様々な手を使って彼女を元気づけようとした。一時期は本当に精神的に憔悴していてさしものユキも暗い結末も想像するほどだったが、彼女は今も三人の子どもを育てながらちゃんと生きている。

 忍一族に生まれるというのは、やはりどうしても業の深い人生を歩まざるを得ない。
 身体のつくりが違う可能性も捨てきれないが――ユキはやはり今でも人種が異なると思っていた――ただ、同じ悲しみや喜びを分かち合う、仲間であるのは間違いない。



「さて、と」

 随分昔のことまで思い出してしまった。
 昔話をするのはあまり好きではないので、ギュッと目をつむって気持ちを現実に引き戻す。そう、朝食の味噌汁の為にアサリの砂抜きをするのだ。

「サエ!コゼツ!風呂に入っちゃいなさい」

 リビングで話し込む二人に叫ぶと、しばらくして「はーい」とやる気のない声が返ってくる。全く信用ができないので「ユズ〜!二人とお風呂入っちゃって!」といつものように姉を呼んだ。
 あの二人はユズリハと違って目を離すとすぐどこかに行く。本当に、“一瞬で”、“予想だにしないところに”、消える。ちょっと前の“夜中脱走事件”だって、ユズリハが偶然気が付いてユキとスグリを起こしたからいいものの、本当に肝が冷えた。引き留めようとするユキを抑えて、スグリが遠くから尾行したので事なきを得たのだが……とにかくあの二人は危険だ。警戒心マックスの母親の眼を盗んで脱走など、覚悟を持って二人目の育児に臨む我々に喧嘩を売っているとしか思えない――上等だとも。買ってやろうじゃないこのクソガキども。

「下着?!?!」

 サエが叫んでいる。「さいてー!!!最低なんだけど?!」「え?なんで?」「ちょっ、なんでって当たり前でしょ!」……サエもコゼツも、なまじ発達が早いからなのか大人の庇護に入りたいという気持ちが弱くて、とにかく母親の言うことをきかない傾向がある。風呂に入れと言っているんだ。

「裸とか下着とか……あとは生理反応に関わることっていうのはね、みんなおおっぴらにしたがらないものなの。知られなくないことを知られるのって嫌でしょ?」
「ユズリハはボクに下着がヨソイキになったことを知られたくないってこと?」
「その通りです。二度と言っちゃだめだよ!ユズリハにも親にも!」
「ふ〜ん……動物は皆見せつけてるもんなのに、人間って不可解な生き物だ」

 聞こえている。
 それにユズがませてきていることは勿論母も父もお見通しだ。もうそんな歳かぁ、ちょっぴり寂しいけど微笑ましいね、と二人で話したばかりである。
 ユキはボウルに入れたアサリに水を満たして、まな板で光を隠したあと「お風呂にはいりなさいって言ってるのが聞こえないの?!」と声を張り上げた。ユズリハが「お風呂洗い終わったよ」と言って台所に入ってくる。全く本当にユズはいい子だ!
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