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状況が一変したのは、次の日のことだった。

「お疲れさまーっ」
「しゅうごー…えっ」
「えっ!?」

澤村先輩の掛け声につられて顔を上げると、そこにいたのはいつもバレー部がお世話になっている坂ノ下商店のお兄さんだった。なぜ、こんなところに…。

「紹介します!今日からコーチをお願いする…烏養くんです!」
「「えええーっ!?」」

坂ノ下商店のお兄さんは、あの烏養監督のお孫さんだそうだ。烏養監督の練習を思い出して胃がキリキリと痛んだのは、きっと私だけじゃないだろう。ちょっと前にいる力がびくってなったの見てたからね。坂ノ下は母方の実家の苗字だそうで納得。

「さっさと準備しろ〜!」

どうやらこれから、烏野町内会チームとの練習試合が組まれているらしい。そんなの聞いてないよ!私と潔子さんは顔を見合わせてバタバタ準備を開始する。烏養さんは、そんな気張って準備しなくていいぞと言うけれど、一応先輩が来るのだからしっかりしなければ。慌てて椅子を並べてビブスを引っ張り出した。

「ウィース」
「うす!」

体育館にゾクゾクやってきたのはおじさん、というかお兄さんたち。あれ、あそこにいるのは島田マートのお兄さんだ。よくスポドリの粉とか買いに行くからちょっとだけ顔見知り。

「もうちょっとおじさんが来るのかと…」
「確かにね。でもちょっと失礼だよ」
「ハッ、すみません…」

潔子さんと得点板の横に立つ。どんな試合になるのかなと、ちょっとワクワクしている私がいた。


「アサヒさんだっ!!」

今のは、日向の声だ。窓枠に必死にしがみついて顔を出している日向。え、今アサヒさんって言った?もしかして、その視線の先に、東峰先輩がいるの…?

日向はすごい。すんなり人の懐に入っていけちゃうんだから。来るかな?来ないかな?とソワソワしているうちに烏養さんの怒鳴り声に近い声がして、渋々といった表情を浮かべた東峰先輩がやってきた。これで、町内会チームに西谷と東峰先輩が入ることになる。

「お前らの方から一人セッター貸してくれ!」

烏野のセッターは、菅原先輩と飛雄だけ。ということは、どちらかが烏野チームを外れて町内会チームに入ることになる。一拍の沈黙の後、一歩を先に踏み出したのは菅原先輩だった。

「す、」
「俺に譲るとかじゃないですよね。菅原さんが退いて繰り上げみたいなの……ゴメンですよ」

勝手に口から空気が漏れて、慌てて両手で口を塞いだ。今私が声をかけてできることは何もない。ピリリとした空気の中、ことの成り行きをただ見守ることしかできない。

「…俺は、影山が入ってきて、正セッター争いしてやるって思う反面どっかで……ほっとしてた気がする」

「俺は、トスを上げることにビビってた」
「圧倒的な実力の影山の陰に隠れて……安心、してたんだ」

菅原先輩の、握り締めた拳が震えていた。こんな時でも、その手を握って撫でてあげられたらいいのにと思ってしまう自分が嫌になる。菅原先輩じゃなくて、飛雄が町内会チームに行けばと思ってしまう自分がすごくすごく嫌だ。それでも、彼が選んだのだ。

真剣な表情を浮かべた菅原先輩の言葉を聞いて、ヒュ、と息を呑んだのは誰だったのだろうか。飛雄?菅原先輩?それとも、私?

「スパイクがブロックに捕まる瞬間考えると、今も恐い」

恐い。怖い、こわい。 そうだ、恐いんだ。
私も、大好きな烏野高校男子バレー部がバラバラになってしまうのが恐い。大切なみんながいなくなってしまうのが恐い。菅原先輩が、そうやって痛そうな顔をするのが恐い。

「けど、もう一回俺にトスあげさせてくれ。旭」

でも、ネットを挟んで反対側に移動した菅原先輩は、しっかり飛雄を見ていた。まあるい目で、しっかりと。くるりとこちらに背中を向けて西谷と東峰先輩に視線をやった菅原先輩は、いつもみたいにふわりと笑っているのだろうか。こちらからその表情は全く見えないけれど、それでも……笑っていたら、いいな。

ピー、と鳴ったのは、潔子さんが咥えていた笛。きっとこの試合は、私にとっても大事な試合になる。そんな予感がした。


試合は、町内会チームのリード。菅原先輩のトスを、久しぶりに見た気がした。
菅原先輩と町内会のお兄さんの速攻は、気持ちよく決まった。なんだか、泣きそう。敵のはずの澤村先輩が、得意気に菅原先輩の話をするのを見て、やっと息ができた気がしたんだ。…戻ってきた、かも。

ふと、まとっていた空気が変わったのは、菅原先輩だけじゃなかった。何かを思案する東峰先輩が、西谷に向けて呟いたのだ。

「何回ブロックにぶつかっても、もう一回、打ちたいと思うよ」
「…それが聞ければ十分です」

この場にいる何人が気づいたんだろうか。澤村先輩と、もしかしたら力と、潔子さんは気づいていたのかな。菅原先輩に続いて、東峰先輩と西谷の纏う空気が確実に変わったこと。何度も何度も味わった、ピリッとした空気。それがあまりにも心地よくて、視界が歪んでいくのを止められない。

町内会のお兄さんが受けた乱れたレシーブを打った東峰先輩は、ドシャットを喰らってしまう。でもそれを、間一髪西谷が拾った。
知ってるよ、謹慎中も練習してたんでしょ。膝にも肘にも、新しめの痣があった。これを、練習してたんでしょ?

「もう一回、トスを呼んでくれ!エース!!」

西谷がギリギリで上げたボールを、菅原先輩が追いかけた。誰にあげる?今ドシャットを食らった東峰先輩にあげたら、またあの時の二の舞になる?…いや、違う。今の相手は伊達工業でもないし、公式試合をしているわけでもない。あの時とは、違う。

「菅原先輩…っ」
「菅原さん!もう一回!決まるまで!」

お願い、東峰先輩にトスを上げて。
祈るように握りしめた両手の先で、東峰先輩の声が響いた。

「スガァーーーッ!」
「もう一本!」

…ダメだ、もう。
溢れた涙はそのままにした。だって拭っている間見えないのが勿体無い。瞬きをする時間すら惜しい。この瞬間をずっとずっと待っていたのだ、1秒すら見逃したくない。この瞬間を、目に焼き付けないといけない。

菅原先輩のトスは、東峰先輩に向かって伸びた。何度も見た、フワッとした山なりのちょっと高めのトス。菅原先輩と東峰先輩だからできる、安心感すら感じる一本。ぐわっと跳んだ東峰先輩が放ったスパイクは、重い音を立てて相手のブロックを弾き飛ばした。


「ナイス旭!西谷も!」
「ナイストス…スガ。西谷も、ナイスレシーブ」

柔らかい風が、吹いた気がしたんだ。
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