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平穏な烏野高校排球部に新しい風が吹いたのは、夏休みに入って暫くした頃のことだった。その日も、いつもと同じような日が来ると思っていたのだが。

「今日から、なんと!烏養監督に練習を見ていただけることになりました」

普段は滅多に体育館にやってこない顧問が扉を開けたかと思うと、明るい声でそう言い放った。

烏養監督。かつて烏野高校をバレーの甲子園と言われる春高まで導いたと言われている名将。彼の指導を受けるために烏野高校に進学する人も多かったと聞いたことがある。確か、先輩たちも…。
パッと見渡すと、先輩や田中たちの目はキラキラと輝いていた。指導者というのは、大事なのだ。みんな毎日一生懸命、楽しく部活をしていると思っていたけど、本当はきっと、もっと上を望んでいたのだ。入部して3ヶ月でそのことを知った。

これで、部員たちの欲しかった環境が手に入る。そう思うと嬉しかった。
私も一層頑張らないとと気を引き締めたのも束の間、監督の大きな声が響き渡った体育館は、ピシャリと冷たい空気に包まれた。そう、私は今日、現実は甘くないことを知る。


「次!100本サーブ!」
「「はい!!」」

ドリンクボトルを渡しているところに、監督の鋭い声が飛んでくる。もうやるの…?
彼らは今、きつい山を登って降りて、またさらに走り込みを何度も行ったあとだった。炎天下の下、ふらふらしている部員もちらほらいる。今までこんなにきつそうなみんなを見たことがなくて、ハラハラしながらその様子を見つめていた。

少しでも助けになりたくて、ドリンクをいつもより多めに作ったり、塩タブレット買ってきたり、タオルも多めに渡したり。それでも、私にはこれくらいしかできない。

「大変、ですね」
「そうだよね」
「なんか、こういう…なんというか、バレーやってて辛そうなのを見るのって初めてで」
「でもきっと、悪いことじゃないよね」

私はその呼吸のしづらさを、身体中が煮えたぎるほどの暑さを、一緒に感じることはできない。私が感じ取れるのは体育館中を包む熱気と、みんなの闘志だけ。それでもきっと、できることはあるのだろう。コートに入れない一人の人間として。マネージャーとして。それを探すしかないのだ。

「お疲れさま」
「おー!サンキューな」
「ありがと」

ドリンクもタオルも渡すのに二人掛けだ。潔子さんは2年生のところを回っているので、私は同級生に。マネージャーもキビキビ動かないと怒られる。
いつも練習で辛い顔を見せない西谷ですら表情を歪めているのを見て、相当きついんだと悟り何も口から出てこなくなってしまった。それでも私がドリンクとタオルを渡すとこちらを見て口元を緩ませる彼らにホッとする。

その後も信じられないほどの基礎トレ、初めて見るような練習メニュー。
それバレーに必要なのかな?というメニューもあって、思わず口から出てしまいそうな言葉たちを抑え込む。チラチラと様子を気にしつつも、いつもよりも量が多い仕事を片付けていく。なんだかいつもよりも長くて、遠く感じるような一日だったな、と陽が傾き始めた空を見て思った。

ふと、体育館の中からこちらを見る力と目が合った。どうかしたと首を傾けると、左右に首を振り返される。珍しい、余所見なんて。少しの違和感を感じたけれど、その考えは呼ばれて向こう側へ走っていく姿に掻き消された。


「ふぁー!つっかれた!」
「やばい、本気で」
「いや〜、これが烏養監督なんだな!」

口々にそんな声が上がる部活終わり。着替えが終わって外に出ると、田中が手を上げて私を呼んだ。複数人で連れ立って歩くのはもうお決まりで、私は流れるように力の隣に並ぶ。わらわらと私を囲むようにして歩くみんなに、ふと笑みが溢れる。

「すごいメニューだったね。」
「今までどんだけ生っちょろかったか、現実見せられたっつーか…」
「おう!燃えるぜ!」
「のやっさんはさすがだな…」

いつも通りの西谷と田中を見て、安心してしまった。ずっとみんなの歪んだ表情が焼き付いていたのが、はらりと剥がれ落ちていく。そうだよね、そう簡単にへこたれるような人たちじゃない。

「今日はみんなお風呂しっかり入って早く寝るんだよ!」
「お前は俺たちの母ちゃんかよ!」

明るい声が上がって、いつも通りが戻ってくる。いつも通りじゃなかったのは私の心だけだったんだと思うと、心が軽くなった。
辛そうにバレーをする人を見るのは、好きじゃない。


いつもの場所でみんなと別れて家までの道のりを歩いていると、スマホが震えた。電話かと思って取り出したが、画面に表示されていたのはメッセージだった。今時のチャットアプリではなく、ショートメッセージを利用して送られてきたメッセージぶっきらぼうなもの。

『今度、会って話せるか?』

ずっとこのままでいるわけにもいかない。今だってもしかしたら後ろから声を掛けられるかもしれない。それほどまでに、近い距離のこの人をスルーし続けることには限界がある。

『うん、できれば夏休み中がいいかな』
『わかった。及川には声掛けないから』
『そっか。じゃあまた今度!』

大丈夫だ。私はもう、一人ぼっちだとは思わない。だから、思っていることも全部、彼になら言える気がする。
大丈夫、大丈夫。ふぅと一つ溜息を吐くと、考えがお腹の中に落ちていく気がした。
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