夏休みを無事に迎えるためには、明日からの期末テストを無事に乗り切らなければならないのだが。廊下に目をやると、澤村くんと一緒に連れ立って歩いている菅原の姿を見つけた。きっと次は移動教室なのだろう、教科書を小脇に抱えている。あれから、菅原とはマトモに会話を交わしていない。
気にしないふりをして、私は相当気にしていると思う。あんなに頻繁に話しかけられていたものがぱったりなくなってしまえば、きっと誰でも気になるだろう。たとえ、相手が菅原じゃなかったとしても。
「みょうじさんって近藤くんと付き合ってるんだよね?」
「え?」
「え、違うの?」
今週に入ってその質問は5回目だ。グループワークの授業で机を合わせた女子生徒が私の顔を覗き込むようにして問いかけてきた。昨日は他のクラスの委員会が同じ生徒に聞かれた。その前は確か、知らない後輩。どうしてみんな揃ってそんな質問をしてくるんだろうと首を傾けると、違うならいいやとにこやかな表情を向けられた。
その表情に見覚えがあって、嫌な予感がする。
この顔は、入学当初「菅原くんと付き合ってるの?」という質問に対してただの幼馴染だと弁解した時の女の子たちの表情と同じだ。
「違うよ、そんなつもりない」
もう一度相手に言い聞かせるようにまっすぐ見つめながら言うと、女の子は少しびっくりした表情をした後に安堵の表情を浮かべた。きっとこの子は、マッチくんのことが好きなのかもしれない。
火のないところに煙は立たない。
まさしくその通りで、この噂が立ったのはきっと彼が私のバイト終わりに送り迎えをしてくれていることが原因だろう。そんなことを想像するのは容易で、こんな勘違いをされてしまうのであればそれを断ち切るほかないだろう。私に対して、何故そんなに良くしてくれているのかはわからないけど、マッチくんだって毎回遠回りになってしまって大変なはずだ。習慣のようになってしまって、なかなか辞めると切り出せないのかもしれない。これは、きっといい機会だ。
「あのさ、近藤くん」
「どうしたの、みょうじさん」
放課後、教室を出て行こうとする彼を呼び止める。部活やらバイトやら遊びやらで大体の人はチャイムと同時に飛び出してしまうので、もうすでにこの場所には人はまばら。
「もう、送ってくれたりとかしなくていいよ」
「え、どうして?」
「どうしてって…私たち、付き合ってもないのに」
マッチくんがあまりにも驚いた表情をするので、こちらも驚いてしまう。どうして驚いているんだろうと思ったのも束の間、マッチくんは今までに見たこともないような、まるでゴミでも見つけたような目で私のことを見下ろした。
「もしかして、全くその気なかった?」
「…その気、とは?」
「俺と付き合う気、ってことだよ」
ヒヤリとした視線に背筋が凍りそうになる。ジリジリと距離を詰められて、私は自然と後退りをした。
「全部、思わせぶりだったってこと?」
踵が壁にぶつかって、これ以上は下がれないことを教えてくれる。目を逸らしたら何をされるかわからなくて、じっと彼のことを見つめたままだった。ただならぬ空気を感じるのに、逃げ出してはいけないと脳が警笛を鳴らす。
「よくできるね、そんなこと」
マッチくんは軽蔑の目で私を見下ろして、馬鹿にするように笑った。何その自分勝手な言葉。好きともなんとも言われてないし、君がそうしたいって言ってくれただけじゃん。頭にカッと血が上るけど、言い返せない。頭の中をぐるぐると言葉が回るけど、それが音になって発されることはない。目に力を入れて見つめ返すと、マッチくんは壁に腕をついて私のことを逃げられないように捕まえた。
「…好きだよ、みょうじさん」
逃げようと思っていたのに。マッチくんの顔が近づいてきて、ごくあっさりと唇が触れた。
「ッ、最低」
「は…?その気がないなら態度改めたほうがいいんじゃない?クソビッチ」
私がマッチくんの身体を引き離したのと、唇が離れたのはどちらが先だったのかわからない。それほどまでに一瞬なのに、その全てに私の心は揺らいでいた。嫌だ、やだ。
走って走って、バイト先まで向かう。店のドアから別のアルバイトの子の姿が見えて、今日自分は休みだったことに気がついた。
どうしよう、私、好きでもない人とキスしてしまった。思わせぶりって何?ビッチって何?なんのこと言ってるの、誰のこと言ってるの。頭が真っ白になって、涙すら浮かんでこなかった。強めの西日を浴びながら、いつも通っている道で立ち尽くす。あんなに煩わしいと思っていた長袖も、今はありがたいほどに身体が震えて指先が冷たかった。