教室から体育館へ向かう途中で、同じく早足に昇降口に向かって歩く見慣れた背中を見つけた。肩より下で切り揃えられた少しクセのある黒髪。雰囲気は自信なさげなくせにシャンと伸びた背筋は、俺の幼馴染のそれだ。
後ろから声を掛けるか悩んだけど、その名前が紡がれることはなかった。一昨日、余計なことを言って困らせてしまったのを思い出したから。
なまえと俺は、別に特別仲の良い幼馴染というわけではない。一方的に俺が話しかけているだけだ。なんとなく昔から友達というよりは妹みたいな存在で、俺にとって護ってやらなければいけない対象だった。母親から「なまえちゃんのこと守るのは孝支なんだからね」とよく言われていたのもあるのかもしれない。
ずっと見ていたから、なまえがあまり人と関わるのが得意ではないことはなんとなく知っていたし、中学では浮いていたのもわかっていた。だからこそ、俺が傍にいなきゃという使命感みたいなものがあったように思う。高校に上がってからはそんな噂も聞かなくなったし、友達と一緒にいるところもよく見るから、もう俺が気にかけてやる必要なんてないのかもしれないけど、なんとなくその意識は消えないままだ。
なまえは多分、そんな俺をウザいと思っている。そう思う理由の一つが呼び方だ。昔はこうちゃん、と鈴が鳴るような声で俺の名前を呼んでくれていたのに。中学二年の頃、クラスが離れてもなお俺が意識して声を掛けるようになってから、なまえは俺のことを苗字で呼ぶようになった。それが寂しくて、あの当時は余計にしつこくしていたっけな。
中学生にもなれば男女ともにお互いのことを苗字で呼ぶことは当たり前だし、俺もそうだったくせに。なんとなくなまえにそうやって呼ばれるのは寂しかった。だからって、あんなこと直接言ったら困らせるに決まってるのにな。
「やっちゃったなー…」
「スガ、まさか小テスト悪かったのか?」
隣に大地がいることを忘れて、なまえの揺れる髪の毛をぼうっと見つめていた。いつの間にか彼女は視界からいなくなっていたし、俺たちはもうすぐ体育館だという外廊下のところまで歩いてきていた。大地は、ギョッとした表情で俺を見ながら珍しいなと呟く。
「いや、テストは90点。」
「…俺よりいいじゃんか」
「まぁ、俺にも色々あんのよ」
はぐらかすようにわざと眉尻を下げると、大地はそれ以上踏み込んでくることはしなかった。
足早に帰っていったなまえは、今日もバイトだろうか。そういえば、この間野球部の近藤と一緒に帰ってきてたんだっけ。たまたまだって言ってたけど、あれは絶対約束して帰ってきたところだったよなぁ…。気遣わせちゃったなって分かったけど、なんとなくあのまま二人にしておく理由が浮かばなくて意地悪いことした自覚があった。
もしかしてあの二人、もう付き合ってたりすんのかな。
「菅原さん」
「ん?どうした月島」
制服からジャージに着替えていると、珍しく口数が少ない後輩が声をかけて来た。月島は案外感情が顔に出やすいものの、こうやって俺に声をかけてくることはあまり多くはない。しかも、普段はズバズバものを言うくせに、言いずらそうに目線を左右に動かして俺の顔を覗き込んだ。
「駅前の本屋でバイトしてる女の人って、菅原さんの幼馴染ですよね」
「…え?うん、多分そう」
「ですよね」
確かになまえは、烏野の最寄り駅の近くにある本屋でバイトをしている。だけどそれを知っている人は同級生くらいで、そもそも俺となまえが幼馴染だと知っている人なんて一握り。なんで月島がなまえのこと知ってるんだ?
「何、なんかあったの」
自分が思っているより焦った声が出て、それに動揺した。何焦ってんだ、俺。
「なんかお兄さんに口説かれてましたよ」
「は!?」
「…まぁ心配になる感じじゃなかったですけど。菅原さんちゃんと見張ってたほうがいいんじゃないですか」
「はぁ……?」
意地の悪い笑みを浮かべた月島は、お先です〜と部室を出て行った。ぽかんとしたまま月島が出て行った部室のドアを見つめる。
なまえがお兄さんに口説かれてた?心配になる感じじゃない?どういうことだ。ていうか、お兄さんって誰だ。口説かれてるってなんだ。なまえは近藤と付き合ってるかもしれなくて、バイト先でお兄さんに口説かれてて、それで?俺が見張ったほうがいいってなんだ。なんだ!?
なまえが俺以外の男と仲睦まじく喋る光景が脳裏に浮かんで、なんとなくモヤモヤした影が立ち込める。そう言えば、近藤と並んでるなまえを見た時もモヤッとした。
「スガー?いくぞ?」
「…うん、」
モヤッとしたものを振り払うようにジャージを雑に被って大地に続く。そう言えば月島はなんでなまえが俺の幼馴染だって知ってたんだろうか。俺、そんなこと一年に話したっけ?考えたけど思い出せなくて、後で聞けばいいかと今日も部活に打ち込んだ。
俺たちは春高に行くんだ。俺だって、試合に出るんだ。今はそれだけを考えていたいのに、どうしても頭の中で近藤に笑いかけるなまえの姿がチラついてしまっていた。