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「許可とらんで行ってもええんかぁ?」
「ええんや。隊舎おらんかった方が悪い」
「探しもせんでよう言うわ」


春を告げる強い風が2人の白い隊長羽織をはためかせている。平子と矢胴丸は瀞霊廷から少し離れた京楽の邸宅に向かっていた。気怠げに背中を丸めて歩く平子は先をゆく矢胴丸の足早にやれやれと呆れながらも静かについていった。
なまえが体調を崩しているという知らせは、随分と前から耳にしていた。
何度尋ねてもまだ伏せっているとばかり言う京楽に見舞いたいと言っても「リサちゃんにうつっちゃ大変でしょ」ときっぱり断られてばかりだったのだ。
痺れを切らした矢胴丸は、ちょうど暇をしていた平子を連れて邸宅へ向かうことにした。平子も同じようになまえを気にかけていたようで、渋る様子もなく応じた。
仰々しい門をくぐると、広々とした豪邸が見えた。見事な枯山水の庭に目をやって玄関へ向かおうとする矢胴丸の肩を、咄嗟に平子が制した。やや遅れて彼女も気が付いたらしく、顔を驚愕に染めて邸宅を見上げた。


「結界?なんで……」
「随分エグいやんけ、何やこの濃度」
「あたしやるわ」


薄く黄味がかった膜がぐるりと屋敷を囲う。
平子が手を触れると熱とともに弾き返されてしまい、次に矢胴丸が鬼道を唱えると膜は焦げ付き、じわじわと燃え広がってようやく穴が開いた。2人はその隙間に身を滑り込ませ、なまえの霊圧を探りつつ駆けていく。
結界を張るような何かがあったのか?
ただの鬼道ではない、異常なまでの濃度だ。
2人の胸中は穏やかでなく、呼び鈴を鳴らさずなまえの名前を叫んだわ


「なまえ!どこや!」
「リサ?平子隊長も……お久しぶりです、どうしてここに?」


ひょっこりと縁側から顔を覗かせるなまえは意外にも元気そうで、2人はほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女の様子は少し変わっていた。
きっちりとした襟元からのぞく白い肌には隠しきれない数々の鬱血痕が生々しく散らばっており、また首にはうっすら青い指の跡がぐるりと回っている。顔色は悪くないが、長いあいだ外に出ていないのか不気味なほど色が白い。ふくふくとした薔薇色の頬が強調されて人形を思わせる愛らしさがあるものの、ぞっとする怪しさがあった。


「どうぞ上がってください」
「………大丈夫なん、オマエ」
「え?なにがですか?」
「いや……京楽サン、風邪ひいたとか言っとったけど」
「ああ、そんなこと言ってました?いやだ、風邪だなんて」


平子は体から力を抜いて目を凝らす。
細く鋭い瞳には赤い無数の霊絡が映り───やはりかと奥歯を静かに噛み締めた。
ひとつの赤い霊絡がなまえの首から胴にかけてをしっかり巻きついている。霊絡はただ大気に浮遊する霊気であるにも関わらず、まるで人の手のような生々しさがあった。鳥肌が立つ思いがして平子は目元を強張らせた。同じものが矢胴丸にも見えたようで、彼女は隠しもせずに顔を歪め、鋭利な視線を平子に投げてよこした。


「真子」
「いやいや、どうしようもないやんけ」
「ええの、あれ」
「口出すんは野暮ってもんやろ。俺かて京楽サンにやいやい言いたかないで」
「いまお茶をお持ちしますね。誰かと話すのはすごく久しぶりだから、嬉しい」
「あんた今幸せなん」
「え?うん。とってもしあわせだよ」


今度ばかりは、ならええけど、とは言わなかった。
あの時に比べると悲壮感などどこにもなく、色の差した頬がうっとりと微笑んでいる。充足感、達成感、幸福感………息を飲むほどまでの美しい陶酔を感じた。にも関わらず矢胴丸にはこれが幸福とは思えず、しかし否定もできず、ただただ不気味だと言うように目を細めてなまえの肌のあちこちに目をやった。
平子はそんな矢胴丸の不満げな態度に苦笑を漏らしつつ、「顔見にきただけやから」と手を振る。しきりに腹を撫でるなまえは寂しそうな顔をするが、無理にとは言わなかった。


「急に来てすまんかったのォ。旦那サンには内緒にしとってや」
「あはは、分かりました」
「なあ、なんかあったら───……」


相応しい言葉を探して選んで、でも結局何を言っても意味はなさそうで、やめた。


「また遊びに来てくださいね。平子隊長、リサ」

 
矢胴丸はなまえから漂う生々しい霊圧の残滓がいつまでもいつまでも忘れられなかった。愛というには執拗で執着というには艶かしい歪な感情を表す言葉など、この世のどこにもなければいいと祈った。あんなものは愛ではない、愛でいいはずがない。胸糞の悪さにこめかみに青筋が走った。矢胴丸の心持ちとは裏腹に空は澄み、白梅香を運ぶ東風が吹いて瀞霊廷に春を予感させている。あらゆるものが彼女の気分を害した。


「なまえもどうかしとるわ」
「やめや。京楽サンの前で言わんとけよ」
「女をなんやと思うとるん」
「ちゃうねん。なまえが望んどるんや」
「そう思わされとるだけやないの」


平子は答えなかった。
矢胴丸にも分かっている。だからこそ腹立たしかった。


「綺麗やったなァ、なまえ」


病的な愛に溺れた女の、なんと艶かしいことか。
愛おしそうに腹を撫でていたなまえの姿が2人の瞼に焼き付いて離れない。これから目一杯幸せになるのだと言わんばかりの微笑からは、苦悩など一切見えなかった。
本当に本当に、幸福そうだった。

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