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目を覚ますと春水さんはもういなかった。
すっかり冷たくなった布団に「今日は早めに帰る」と達筆に書かれた手紙がひとつあるだけ。1人きりの布団と障子から差し込む眩しい日差しから、寝過ごしてしまったのだとやや遅れて理解した。
布団から這い出て障子を開き、冬の匂いが薄まった空気を吸い込んだ。体は気だるかったけど、異常に清々しい気持ちだった。
お腹が空いた。何か作って、食べて、そうして春水さんの帰りを待とう。

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手紙にあったとおり、春水さんは夕方少し前に帰ってきた。筑前煮やお吸い物やらを作っていた手を止めて出迎えると、玄関の框に腰掛けて草鞋を脱ぐ背中に違和感を覚えた。
刻まれた黒い「一」の文字。
本来ならば見えるはずのない文字に、掠れた声を上げた。


「春水さん……?」
「うん?」
「…………着物を…」
「ああ、置いてきたんだよ」


よく見ると着物だけではなく、紙紐に挿した簪もない。さっぱりとした姿にただただ驚いて目を剥くばかりだった。あっけらかんと笑う春水さんは私を抱きしめ、手を洗ってくるねと洗面台の方へ足を向けた。
次第に、胸にどっと心苦しさが押し寄せ、冷や汗に全身がびっしょりと濡れた。
こんなことをさせたのは私だ、私が我儘を言ったから春水さんは大切なものを離してしまった。
私が、望んでしまったから。大切なものを捨ててほしいとお願いしたから。


「ごめんなさい……、ごめんなさいっ………」
「どうしてさ。僕が好きでしたんだよ」
「私がお願いしたから」
「違うってば。僕がそうしたかったんだ」
「春水さん、ごめんなさい…」
「なまえ。こっち見てよ。…ね、泣かないで」
「だって……あなたの大切なものまで愛してあげられなくて………本当にごめんなさい…………」
「なまえは僕だけを愛してくれたらいいんだよ」
「………でも…私のせいで…、だって春水さんのお兄様やその奥様の………大切な……」


不思議なもので、目に映ると忌々しく憎たらしいものでも見えなくなるとどうしてあんなに嫌だったのか分からなくなってしまった。
冷静になればなるほど、自分がどれだけ残酷なお願いをしたのか自覚し、指先から冷えていく思いがした。
春水さんは手を拭って、慰めるには長い抱擁をくれた。大きな顔が頬に寄せられて熱い息が顔にかかる。春水さんが話すたびに揺れる頬の髭が、さりさりと擦れた。


「君の器に収まるのは僕だけって最高じゃない。嬉しいなあ、長いこと夫婦だってのに今やっと分かり合えた気がする。不甲斐ない男で悪かったね」
「ごめんなさい……ごめんなさい………私もう大丈夫です、大丈夫ですから…………取りに行きましょう、お着物も簪も…、ね、お願いします」
「いいの?他の女の着物を、なまえの前で着ても」
「………大丈夫だから」
「嘘ばっかり。無理しなさんな」
「ごめんなさい…でも大丈夫、私……」
「素直ななまえは可愛いね。もっといじめたくなるけど、さすがにやめとこう。ね、お腹が空いてきちゃったよ」
「………はい」
「こんなことしかできない男だけど、僕のこと好きでいてくれる?」
「好き………私には、春水さんだけ」
「ああ、その言葉だけで充分生きていけるよ」


拗ねてそっぽを向いていた気持ちが正面を向く。
随分長い間機嫌を損ねていた私の胸の奥が、きらきらと煌めき始めた気がした。

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