▽空を飛ぶ前に、渚真


地面から1センチでも離れたら、そこはもう空なのだと誰かが言った。俺たちはいつも空に包まれて生きている。そして今、俺は空を見下ろして、生きているのをやめようとしている。
屋上はいつも風が強くて春先のこの時期はまだ肌寒い。厚い布地のブレザーを物ともせずにすり抜ける、風を受けて丸めた背中に触れるフェンスの冷たさと硬さ。あと一歩、たった一歩で、たぶんなにもかもさようなら。
お別れの言葉を口の中で済ませ、乾いた空気を胸いっぱいに吸い込んで、さあ空を飛ぼうとした俺の背後から掛かる不躾な声。
「あれ、死んじゃうの」
あまりに楽しげで思わず振り向く。だって、明らかに死のうとしている人間に対してかけるような声色ではなかったから。
ふわふわの金髪を靡かせて、きらきらと目を輝かせて、無邪気で純粋でなのに不安になる、そんな笑顔を浮かべた渚。
渚は言った。空を飛びたい俺を引き止め、傲慢極まりない口調で。
「どうせ死ぬなら、その命僕に頂戴よ」
大事に消費してあげるから。幼い顔には似合わない、厭世的な表情を浮かべ、それでも口元だけは笑う金色の方に俺は、抗えぬ一歩を、踏み出し。



2014/06/24 23:46


▽きっとあなたは戻るでしょう、遙真


「ずっと一緒だったけど、いつまでも一緒にはいられないんだ」
俺の手を振り払った真琴は血を吐くようにそう言って、二度と振り返らなかった。取り残していく俺のことを忘れることなどできもしないくせに。
さようならという言葉が、こんなにも形骸的に聞こえるのは確信があるからだった。必ず真琴はこの町に戻ってくるだろうという確かな思い。俺も、真琴もここを離れては生きられない。誰もがそうだ。凛だって戻ってきた。真琴にだってすぐ分かる。この町にしか、俺の傍にしか、本当の世界は存在しないのだと。
今の俺にできることは、真琴が絶望と安堵を宿しながら、再びこの町に戻る日をただのべつまくなし待ち続ける、それだけだった。



2014/06/09 12:41


▽君のことを助けてあげる、渚真


渚の意外と大きな両手が俺の頬を隙間なく包んだ。真っ直ぐにこちらを見据えている金色の瞳が柔らかに耀く。
「僕に、助けて欲しいことは、ある?」
少しかさついた親指の腹がとめどなく零れる涙を堰き止め、行き場をなくした幾つもの雫が肌に滲んで染み込んでゆく。そのくせ乾いてうまく動かない喉をどうにか震わせて、掠れた声で問いに答えた。
「……わすれさせて」
「うん、いいよ」
唇を生ぬるい粘膜が覆った。嗚咽を全て飲み込むような深い口づけに目眩がした。その熱に、ただ溺れながら、頭の片隅の冷静な部分で自らの行為を顧みる。
渚の、無償の優しさに、甘える自分の身勝手さでどうしようもなく吐き気がした。



2014/05/27 13:18


▽陸に打ち上げられたイルカ、遙真


梅雨は嫌いだとハルが言うから、俺も、梅雨は嫌いだった。毎日のように降り注ぐ雨はプールの水を容赦無く濁らせ、その光景を写し取るようにハルの瞳も淀んでいく。
悲しそうなハルを見ていたくなかった。プールに入れない日は必ず、いつもよりも長い時間水風呂に沈んでいるけれど、ハルの瞳に輝きを取り戻すには足りない。地上のどこよりも自由で、手や足をいっぱいに伸ばしても水を割く感覚がいつまでも続く、広いプールでなければダメなのだ。
梅雨の時期のハルは陸に打ち上げられたイルカみたいに、かろうじて呼吸を繰り返しながら、再び波が自分を浚う瞬間をひたすら待っている。



2014/05/27 13:17


▽拒食の傾向があるまこちゃん、怜真


ものを食べるという行為。調理された食材を、咀嚼し、嚥下し、消化するということ。それら全てに俺はどうしようもない嫌悪を抱かずにはいられない。
「昼食はどうされたのですか」
「あんまりお腹空いてないんだ」
「……昨日もそう言って食べませんでしたよね」
訝しげな怜の視線が、いたたまれなくて顔を逸らした。まっすぐなその目を見ていられなかった。頑なに食事を避け続ける俺のことを問責するその声音。
だって、仕方ないじゃないか。怜の前では見せたくないのだ。無理矢理に噛んで飲み込んでも、結局どこかで吐き戻される胃液と唾液とが混じり合った吐瀉物を。そんな、いきものとして無様な姿を、どうしても。



2014/05/20 18:30


▽行きずりロマンス、未来怜真


目を覚ますと、とんでもなくきらきらした顔立ちの人がそこにいた。穏やかに、静かな寝息を立てて眠る彼の顔に見覚えは、…………無い。
ベッドサイドに手を伸ばし探ると指先に触れた硬質なフレーム。度の強い愛用のそれを掛けて、もう一度見つめ直してみてもやっぱり見覚えは欠片もなかった。この人は誰だ、そして、ここは何処だ。混乱しながら身を起こし、なんとなく強張った感触のあるシーツを抜け出そうとしたところで、さらなる驚愕の事実に気づき、思わず間抜けな声を上げる。
「なぜ、この人も僕も、全裸なんだ……!」
視線を滑らせれば床に散らばる二人分の衣服が目に入った。下着など、考えたくもないことだがまるでお互い待ちきれずに脱ぎ散らかしたかのような形跡で、ベッドの端に引っかかっている。
目の前の事実に、理解が追いつかない。頭がぐるぐると掻き乱される。昨晩の記憶を必死に探るが、傍らの彼に繋がるものは馬鹿みたいに何も出てこなかった。会社の飲み会で上司から勧められ、仕方なく飲んだのが運の尽き。こんなことなら正直に下戸だと言って断ればよかった。二次会にまで付き合うんじゃなかった。ああ、本当に、何てことだ、僕はまさか、まさかこの人と。
頭頂部からつま先まで、音を立てて血液が流れ落ち、後悔と自責に苛まれていたそのさなか、不意に自分ではないものがシーツを探り、身動きをした。息を飲む僕の目の前で、白く艶かしい肢体を惜しげもなく晒しながら、彼が、目を覚まして。
「……おはよう、怜」
僕に向かって微笑んだ。そのはにかんだ笑顔の輝きといったら!
目を奪われ、固まった僕を尻目に彼はそこらに散らばる衣服を集め、一糸纏わぬ裸体をちらとも隠そうとせずシャワールームへ消えていく。振り向きざまに「借りるね」などと言い残してから消えた彼は、こうしてみると随分背が高く、均整のとれた体つきをしていた。なにかスポーツでもやっていたのだろうか。いや、それよりも彼は僕の名前を知っていた。僕も彼の名前が知りたい。まるで何も覚えていないが、僕と彼がどうやって出会い、そして昨晩何があったのか。耳に優しいシャワーの音をBGMとして聞き流しながら、ただひたすら一夜をともにしたらしい彼のことについて考える。
自身の内の後悔と、自責の念とが綺麗さっぱり消えてしまっている事実にさえ気づかずに。



2014/05/19 19:26


▽嘘つきの恋人、凛真


凛はよく嘘をつく。すぐに嘘だとわかるぐらい他愛ないものから、うっかりすると信じてしまいそうな現実味溢れる嘘まで、様々に。
どうしてか、といったら。多分、そう、間違いなく、凛が赤いからだろう。真っ赤な嘘というように、嘘は赤いものと決まっている。それならば、逆説的に赤いものは嘘つきだとしても、おかしくはないのじゃないかと思う。特に、身近なところに赤い嘘つきがいる俺としては、どうしてもそうとしか思えない。
凛はよく嘘をつく。それを指摘するとあまり良くないことになるけれど。凛の嘘を、言葉を全て、俺は信じることにしていた。



2014/05/16 19:47


▽人でなしの恋人、凛真


「お前の望みを聞くとは言ったが、誰も叶えてやるなんて言ってない」
楽しげに唇を吊り上げて、凛がそう言った。絶望に満たされた俺の顔を見て紛れもなく喜んでいる。意地が悪い、とても、とても悪い。確かに凛は、望みを聞くと言っただけで、結果を保障したわけではないけれど、でも。
「ひ、どい」
「酷くねえよ、お前が馬鹿だったんだろ」
「ひどい、ひどいよ、凛の馬鹿」
「泣くなよ、うぜえな」
俺の涙は一蹴され、すっかり興味を失った凛が俺を残して帰ろうとする。ぐずぐず鼻を啜りながら必死に後を追いかけても、凛は振り返ることさえしない。
ひどい恋人だと思う。なのに、どうして俺はいつまでも、こんなやつに。
自己嫌悪と凛への恨み言で一杯になりながら、追いついた服の裾を引っ張った。途端に勢いよく振り払われて、宙に投げ出された俺の手を凛の冷たい手が強く掴む。指と指の間を埋める低い体温に血が巡る。
ああ、やっぱり、なんてひどい恋人なのだろう。



2014/05/16 19:46


▽なんだかとってもねむたくて、凛真


真っ赤な凛の頭に鼻先をくっつけて、背後からぎゅうぎゅうと抱きつくと、鬱陶しそうなため息が俺の手のひらに落とされる。柔らかい唇の温度。いつもは凛に抱きしめられているけれど、たまにはこういうのもいいだろう。
「りん」
「ねみい」
「俺もねむい」
「じゃあ寝ろよ」
「うんそうする」
「おい、そこで寝んな」
微かな皮脂と汗と凛の匂いに埋れたまま呼吸を深くする。ゆっくり心音と吐息を合わせて、さようならと同じ色をしたおやすみなさいを凛に差し出した。
俺の、荒れた指先を、凛が愛おしそうに引っ掻く。



2014/04/17 22:05


▽君のいない明日とそれから、遙真


明日からも明後日からも、真琴がいなくなるというのなら、そんな無意味で稀薄な日々など来ない方がましだった。空の果てが少しずつ白み始めた明け方近くの短い時間。干したばかりでふかふかの、布団に真琴と包まりながら、ぼんやりと目の前の寝顔を眺めている。
(ーーーーねえハル、大事な話があるんだ)
規則正しい呼吸に合わせて色素の薄い睫毛が揺れるのを、日に焼けていない白い喉が上下するのを、目に焼き付ける。二度と見られなくなるわけではない。ただもうすぐ俺の隣から真琴がいなくなるというだけで。
(ーーーーハル、俺ね)
夜明けが徐々に近づいている。目覚めの時間はもうすぐそこまできていて、感情の浮かばないその顔を空の果てから覗かせている。枕元の目覚まし時計。忌まわしいベルを打ち鳴らそうと、昨晩から静かに待ち続けているそれをせめて壊してしまおうか。



2014/04/14 21:45


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