ゆるやかに、そしてW
まだ柔らかいであろうつややかな青葉が、初夏の日の光を反射する。
スマホの画面に目をやると、約束の時間までもう五分ほどだ。
――それにしても、かなり人通りが多い。焦凍くんは大丈夫だろうか。熱狂的なファンの人たちに見つかって騒ぎになったりしていないだろうか。
きょろきょろとその姿を探している最中、左肩をぽんと叩かれる。振り返ると、目の前にいた焦凍くんは申し訳なさそうにゆるく笑んでいた。
「悪い、待ったか」
「ううん。ほんとにちょうど来たところ。ちょうど今。たった今」
漫画やドラマの中で聞く陳腐なせりふを無意識になぞってしまった。なんだか無性に照れくさくて俯くと、かすかに空気を漏らしたような笑い声が聞こえる。
「わかった。次は待たせねえようにする」
じゃあ行くか、と彼が首を傾げる。紛れもなく私だけに向けられた視線が、私だけを待つ足が、にわかには信じられなかった。
たぶん私は今「幸せで仕方がない」という顔をしていて、それと同時に、何年も抱えてきたこの感情の気配にすら気付かない焦凍くんの鈍さに心底安堵していた。
まるで砂の上に描かれたせまい円のなかにいるようだ。私がここから出なければ、出たいと思いさえしなければ、きっとずっと彼の傍にいられる。
一番近くて一番遠い存在でいるには、ただひとつ、高望みをしなければいいのだ。
「本当に俺の好きなところでいいのか」
「いいよ。めったに休みも取れないんだから、むしろ好きなことしないともったいないよ」
「好きなこと、か」
難しい問題を突き付けられたようにしばらく思案したあとに彼が呟いたのは、「ゆっくり歩くか」だった。せっかく時間もあるのだから、どこへでも喜んで付き合う気ではいたけれど、予想外の答えに目を丸くする。
「散歩ってこと?」
「そうだな。……変か?」
彼の声色がわずかに弱々しくなる。ふるふると首を横に振ると、安心したように表情を和らげる彼に愛おしさのようなものが込み上げた。
きっと、手近なところで過ごすゆったりとした時間こそが恐らく彼にとっては簡単には手に入らないものなのだ。そう気付いて、私は立ち止まっていた彼を追い越した。「行こう。いいところ知ってるんだ」
◇
「街中に急にこんなでけえ庭園があんのか。異空間だな」
「車の音とかぜんぜん聞こえないのがすごいよね」
「木が多いからだろうな」
とりとめもない足取りで近所の公園の中を歩いた。目的もなかった私たちの足取りはいつからか遠くに見えるベンチを目指していた。
ベンチに座ると、焦凍くんは「飲むか」と私に麦茶を差し出してくれた。売店で売っている普通の麦茶よりもきんと冷えたそれは、なんとも心地よく喉を落ちていく。
「おいしい。冷やした?」
「ああ。今日暑いしな」
「やっぱり。高校の頃思い出すね。誰かがアイスとか買ったときとか、よく冷やしてたもんね」
「頼んでくるのは大体、切島とか上鳴とかな」
思い出し笑いをしていると、なんとなく沈黙がやって来る。何を話そうかとあれこれ考えを巡らせている頃合いに、焦凍くんがなんの躊躇も音もなくこちらに視線を向けるので、私のあらゆる考えはぱちんと弾けて消えてしまった。
「……なまえ?」
「うん」
「お前、今楽しいか」撫でるような声で彼は言った。
「もちろん楽しいよ」
「……そうか。お前にはわかってると思うけど、俺も楽しい。お前といると何をしてもいいし、何もしなくてもいいような気がして、楽だ。もちろんいい意味でだ」
今もそうだが、彼はよく、自分の中で感じているものを整理しながら話すような口ぶりをする。
「せっかくの休みにお前の時間までもらってんだから、どっか賑やかなとこに遠出でもいいかと思ってたんだが、今朝お前の顔見たら、このままゆっくり話せたほうがよっぽど息抜きになると思った。……完全に俺の勝手で悪かった。付き合わせたな」
足先を見つめるようにふっと伏せられた彼の瞳のなかに、日の光が一粒だけが射し込んでから出ていく。あまりにも綺麗で、思わずじいっと見入ってしまいそうになる。
「謝らないで。私も楽しかったし、そう言ってもらえて嬉しいよ。だてに付き合い長いわけじゃないしね」
「……ああ、そうだな」
「うん、これが息抜きになるなら、いつでも付き合うし」
焦凍くんは数秒黙ったまま、私の瞳を見つめ返していた。もはや怖さは感じない。だてに焦凍くんとの付き合いが長いわけじゃない上に、だてに本当の気持ちを隠してきた私じゃない。
こんなに近くで瞳を覗かれても、きっと彼には永遠に読めない。私の本当の気持ちなんて。ただ表紙だけをさっと撫ぜて終わる。今までの何年間もそうだったのだ。
「やっぱりお前、優しいな」
案の定、焦凍くんはまた的外れなことを言う。その背中を冗談めかしてかるく叩けばうっすらと笑うことも知っている。その顔を見れば、締め付けられるような心臓のすこしの痛みにも耐えられる気がする。
――けれど今日は、なんだか一粒の違和感があった。さっきの焦凍くんの言葉になんとなく聞き覚えがあった。それがなぜだか思い出せないまま、私はまだ冷たいままの麦茶を飲み下す。
別れ際、明日も事務所に行けば見られるはずの彼の姿なのに、なんだか無性に名残惜しかった。焦凍くんはふだん、こんなに肩の力が抜けた服装は事務所にはしてこないし、地面の砂利をつま先で弄びながらするくだらない会話も、事務所ではしないからだ。
何をするわけでもない時間が焦凍くんにとって特別だったように、私にとって今日の彼との時間は特別だった。
「ありがとな」
焦凍くんは私を見送るために、わざわざタクシーから降りた。
「こちらこそ、結局最寄まで送ってもらっちゃって、ありがとう。明日からもよろしくね」
「ああ。また、付き合ってくれ」
彼が言い終える途中で私よりも奥のほうに視線を泳がせるから、無意識に私も振り返ってその視線の先を追った。
「どうしたの?」
「あれ、爆豪じゃねえか?」
背後から焦凍くんがそう言うのと同時に、自分の目でも見つけてしまった。駅ビルから流れ出てくる人の波に、色褪せた髪が混じっている。
心臓が跳ねるような心地だ。よそ見をしたあとそろりと上がってきた鋭い視線が、私たちのところで止まる。爆豪がしばらくたじろいだあと、ちっと舌打ちをするのが遠くからでもわかった。
「そういや前に、爆豪もなまえんちの近所に住んでるって言ってたよな」
「……ああうん、そう」
目を合わせてしまった以上知らないふりをして通り過ぎるわけにもいかないのだろう、爆豪は胸ぐらを掴まれていやいや連れて来られるみたいな顔で、方向は変えずにこちらへ歩んできた。
「爆豪、久しぶりだな」
片手を挙げる焦凍くんに、爆豪はあからさまに顔を歪めた。もう逃げ場がないと悟った彼は、ハアと乾いたため息を肩口に向かって吐いた。
「……クソ。ンだよ、テメーら」
「今日はオフだったから、ちょっとなまえと出かけてた帰りだ」
「アッソ」
爆豪は興味なんてさらさらない、という態度で返事をする。彼にとってはどうでもいいこの話を聞かされるのは二回目なのに、大人しく相槌を打ってくれたことに無意識に安堵する。
「爆豪は仕事の帰りか?」
「まァな」
ただこの場をやり過ごすためだけに低く返事をする爆豪。そして、その逞しやかに伸びる腕にぶら下がるレジ袋を、焦凍くんはぼんやりと見て目を丸くした。
「お前、自炊とかすんだな」
「ハァ? ……ンなの俺の勝手だろ」
「そうだけど、俺は全然しねえから、ただすげえなって思っただけだ」
「テメーなんかと一緒くたにされちゃ困んだよ。忘れねーからな俺はテメーの地獄みてぇな料理スキルのこと」
つい思い出話をしている気分になってハハと笑い声を零すと、ぎろりと爆豪のもの言いたげな目に睨まれるので、慌てて視線を逸らす。爆豪の持っている買い物袋の中に、卵やトマト缶が見え隠れしているのが見える。もしかして、いや十中八九、私の家にそのまま持ち帰るつもりだった食材だろう。
――今朝もあんなに冷たい態度を取っておいたくせに、それでも爆豪が家に帰ってくるわけが、私にはわからない。きっと私のところ以外にも行くところはあるだろうに。
爆豪にとって私がなんなのか、私にとって爆豪がなんなのか――友達と呼ぶにも恋人と呼ぶにも相応しくない。「体だけで繋がっている」だなんて、低俗な言葉が一番私たちには合ってしまう。他の誰かに、ましてや焦凍くんに説明できない関係でいることがひどく後ろめたい。
それなのに、薄暗闇のなか、汗の滲んだ彼の肌――爆豪と体を重ねているとき、私は決まって焦凍くんのことを考えてしまう。きっと、一番知られたくないことを知られやしないか、恐れていたことが起きやしないか、それが恐ろしくてたまらないのだと思う。
気付けば私の足は竦んでいた。
「なまえ、どうかしたか」焦凍くんがぼうっとする私の顔を覗き込んだので、はっとする。
「……ごめん、なんでもない。じゃあ……私はそろそろ帰ろうかな」
「もう暗いし、やっぱ家まで送ってくぞ」
「ううん。帰りにコンビニ寄りたいし――」
言い終わらないうちに、ぐんと手を引かれる。
「ンな心配なんだったら俺がこいつ送っきゃいいだろ。どうせ通り道だ」
爆豪に引かれて傾いた視界のなか、焦凍くんがすこし目を丸くする。
「……ああ、わかった。じゃあ、なまえのこと頼む」
私の意思なんて関係なしに話にけりがついてしまった。とは言え、何も言えない私も私だ。ほんとうははやくこの場を離れたかった。爆豪がちょっとやそっとじゃ振りほどけない強さで私の手首を握ることが、ある種の優しさにすら感じられた。
遠くなっていく焦凍くんの姿が人混みに紛れて見えなくなったとき、安心して全身の力が抜けた。