ゆるやかに、そしてX

 弱火でふつふつと煮込まれる食材たちを木べらの先で所在なく弄んでいると、爆豪に横からひょいと取り上げられてしまった。「どけ」と必要最小限の声で言われて、右肘でキッチンの端に追いやられる。
 もの言いたげな赤い瞳に睨まれて初めて、自分の意識がフライパンの上ではなく、ここではないずっと遠くのどこかで揺蕩っていたことに気付いた。

「ボーッとしながら火ィ使うな」
「ごめん」
「ホラここ焦げとんだろーが」
「あーほんとだ」

 爆豪の言う通りでしかないのでただただ謝っていれば、彼の眉間には不快そうに皺が寄る。きつく結われた唇の奥で、なにかの言葉が押し殺されているのがわかる。それに気付いたけれど、私は頬をかきながら俯くことで精一杯だった。
 彼にも思っていることをすぐに言わない瞬間がある。しかもそれは意外にも少なくない。こうして大人になってまた関わってみると、高校の頃の彼からは随分変わったな、と思う。
 いま爆豪のなかに込み上げた言葉も、思案した結果、吐き出す意味がなかったか、そもそも吐き出す価値すらなかったものなのかもしれない。それならそれで助かるので、私は深く聞かなかった。
 戦力外通告をされてしまったくせに何もしないのも手持ち無沙汰で、私はもう一度爆豪の隣に立って、使い終わった食器を洗い始めた。しばらくの無言のあと、すこしの躊躇いを孕んだ声で彼は言った。

「……いつお前が俺に『出てけ』っつうのか考えてた」

 私は泡にまみれていた手を止める。脈絡もないそのせりふに「え?」と間抜けに聞き返したけれど、爆豪は自分の手元から目線を上げなかった。
 もしかしたら、これがさっき飲みこもうとした言葉なのだろうか。

「すぐ出て行けるなら、爆豪は最初からこんなとこには来てないと思ってたから」
「あ?」
「違うの?」
「そーゆー話ィしてんじゃねえ」

 それは私だってわかっていた。

「あと、アイツに知られたらテメーがどんな後ろめたそうなカオすんのか考えてた」

 爆豪が「ずっとな」と付け足したその声のせいで、すこし苛立っているのがわかってしまった。確かに今に始まったことではなさそうだ。飲み込もうとしたのに結局零れてしまった不満は、面と向かってぶつけられるストレートなそれよりも、いくらか重く頭上にのしかかる。
 ひどく忌々しい記憶を思い起こしたみたいに、爆豪の眉間には皺が寄った。

「想像以上にヒデェ顔だったわ」
「……もしかして今日のこと?」

 彼は返事をしなかったが、否定をせずに黙々と手元を動かす彼の態度が、何より肯定していた。
 ――一体、私はどんな顔を晒していたのだろうか。
 でも、軽蔑されたって無理はない。私の気持ちを知っていてかつ一番近くにいる人間が、他の誰でもなく爆豪なのだから。焦凍くんに嫌われたくないと思っているくせに救いようのないくらい矛盾した生活を送る私を見て、爆豪が嫌悪感を抱いたってなにもおかしくない。

「……私はいつ爆豪が出て行っちゃうんだろうって考えてたけど」
「テメー、その言い方――」
「あ、今のだと私が爆豪に出て行ってほしくないみたいに聞こえるけど、そうじゃなくて。でも出て行ってもらわなきゃ困ると言われたらそうでもなくて」
「……あ゛?」

 爆豪は怪訝そうに顔を顰めながら木べらをフライパンに置き、コンロのスイッチまで切ってしまう。今度は私が爆豪の視線から逃げる番だった。

「ハッキリしろや」

 怒鳴りつけるでもなく、どちらかと言うと呆れるような爆豪の声だ。まどろっこしいことを言うなと怒鳴りつけられるかと思ったので意外だった。けれど、ふたつの視線だけは逃がさまいとまっすぐに私の横顔を射ている。
 あいまいな言葉尻をはっきりさせたがりそうな彼に、わざわざこんなあいまいな言葉を言うつもりはないが――つまり爆豪といるとき私は、何をしてもいいし、反対に何もしなくてもいいような気がして、いっとう呼吸がしやすいのだ。
 ふと、今日の昼間に焦凍くんから零れた同じ言葉が頭を過る。あのとき抱いたおぼろげな既視感は紛れもなく自分自身も誰かに感じていたものなんだと、今になって腑に落ちた。

「……私も、爆豪に助けられてるところはあって」

 爆豪は何も言わないまま、私の瞳の奥を覗こうとしていた。

「だから爆豪も、ここにいるほうが楽ならここにいればいいんじゃないかなと思ってる」
「……口先だけでやり過ごそうとすんな」
「そこはお互い様でしょ。私も爆豪のこと深く聞かないし、聞こうとも思ってないもん」
「聞きゃいいだろうが」

 予想外の返しに思わず怯んでしまった。何でもないことかのようにそう言われてしまえば、こちらが打つ手はない。目の前にいる男がとたんに何枚も上手にいるように感じて、私はそろそろと目を逸らす。
 爆豪勝己という男に踏み込むことがこんなに怖いことだと知らなかった。今わかった。一歩踏み込めば、あっという間に彼という存在に搦め取られて流されてしまいそうな――そんな感じだ。

「聞かない。聞きたくないよ」

 目を逸らしたまま子どもみたいにそう言えば、爆豪の大きな舌打ちが聞こえた。

「……ットに腹立つなテメー。なんだかんだメシのリクエストしてくるクセしてその言い草ァ」

 それは爆豪がなんだかんだリクエストを聞いてくれるからだ、とは言わなかった。
 私は素人のレベルを超えたおいしい手料理が定期的に食べられることを指して「助けられている」と言ったのではなかったが、そういうことにしておいたほうが丸く収まりそうだ。

「つーかテメー、楽ならいればいいとかそーゆーコッスい言い方してねェで、もっと可愛げのある言い方しろよ」
「何それ。どんな?」
「『行くな』」

 迫真の演技だ。たしかにそれは可愛げがある。一切取り繕わないその言葉を、真面目な表情のしたで爆豪がどういう感情で吐いているのかわからずに、私は思わず顔を顰めた。

「……何言ってんの。誰?」
「ハ?」爆豪はこめかみを引き攣らせた。
「普通にそれは駄目だよ」

 笑いが零れるのを堪えながら、私は軽い気持ちでそう言った。文字通り浅はかな、上滑りする声。

「……何がだよ」
「え?」
「だから何が。何が駄目っつってんのか言ってみろ」

 押し黙っている爆豪は私の続きの文字を待っているらしかった。けれど、これ以上の言葉を見つけられる気はしていない。戦意喪失した私の表情を察して、彼は舌打ちをした。私の後頭部を軽くはたくと、コンロの火を点け直す。

「……なまえ」
「え?」
「隠し事ばっかすんな」

 諭すようにも脅すようにも聞こえる声色だった。硬直する私に対して悠々と作業を続ける爆豪の横顔は、やっぱり私よりも何枚も上手だった。
 まるで、私がいくつも隠し事をしているような口ぶりだ。「誰に?」「何を?」――そう聞き返してやりたいのに、なぜだか喉元で言葉が詰まる。何も言えないのは図星だからだろうか。だって、私が何年も腹の奥に抱えているあの人への重苦しい恋情だって、隠し事と言えば隠し事になってしまう。

「隠し事なんか……もしあったとしても、爆豪には迷惑かけないから」

 ちょっと突き放すみたいな言い草が、爆豪の言う通りずるいと思う。鈍い赤の瞳が私を見る。この赤に睨まれていると、どんどん自分のいやな部分が暴かれる心地がするのだ。
 無言のまましばらく視線を通わせていた。彼の顔に不機嫌さはひとつも滲んでいなかった。不機嫌じゃないときの爆豪の気持ちが、私にはまだわからない。だからどこか傷付いたように見えるのもたぶん気のせいで、冷静になって考えてみればそんなわけがない。
 しばらくのあと、するりと視線を解いたのは爆豪のほうだった。
 私の言葉なんかろくに聞かないくせに深いところまで見透かしているような態度が、昔からすこしだけ気に食わない。いや、怖い。私は爆豪に適わない。終わらせようなんて言えない。きっとそのことを爆豪も知っている。
 だから、取り繕う必要も息継ぎをする必要もない。いつかなくなる酸素だし、私のための酸素でもないことをわかっているからこそ、今は吸うのをやめられない。
 フライパンの上からふつふつと煮立つ音がまた聞こえ始めても、視線を解く間際の「そうだな」とやけに聞き分けのいい彼の返事が、ずっと胸に引っかかって取れなかった。



 ふと目が覚めたら、かすかに電子音が鳴っていた。私がアラームに設定している音ではないから、たぶん爆豪のだ。まだ朦朧とした意識のなかで、こんな小さい音でいつも起きてるのか、と感心した。私なら聞こえもしないだろう。
 もぞもぞと蠢く、私よりも温度の高い四肢。いつもより早く起きたらさすがの爆豪にも気を遣わせるかと思って、なんとなくまだ眠っているふりをしてしまう。電子音が止まって、はあと鬱陶しそうな息を吐くのが聞こえると、ベッドが揺れて、一人分の質量が移動する。ふと頬に固い指先が触れたかと思えば、そのままそこにもたらされる、すこし固い髪先の触りと、それよりずっとやわらかな感触。
 ――何、今の。
 答えが出ないうちに、ひたひたとつめたい足音が遠ざかっていく。まるで洋画のワンシーンで、恋人や家族に愛おしそう落とす目覚めのキスと、爆豪勝己という人物が、どうしたってうまく結びつかない。
 あまりの驚きに眠気なんて吹っ飛んでしまった私は、彼が出かけていくまでの間、まぶたを固く瞑り、規則正しく吐息を漏らすことに集中した。
 そして結局、彼がいなくなった部屋には、何度も作らなくていいと言ったのに、焼きたてのパンケーキのバターと砂糖の甘やかなにおいが満ち満ちているのだった。



 呼び出し音に急かされて、ワンコールで電話を取る。事務所名を告げれば、「ああ」と合点したようなトーン。どこか気だるげな低い声は、電話口でも誰のものかすぐにわかった。

「あの、もしかして、相澤先生?」
「その声は、みょうじか。久しぶりだな」
「ええ、ほんとに。今日はどうしたんですか?」
「……実は、今度プロで活躍してる卒業生を数名呼んでうちの三年向けのちょっとした講習会みたいなのをやるから、それを轟に頼みたくてな。あいつが特に多忙なのは承知のうえだが、あいつに憧れる生徒も同じだけ多いからな……ダメ元で当たってみてる」
「なるほど。轟くんならいま巡回に行ってます。何もなければ午後に戻る予定なので、伝えてみますね。ちなみに、日程は?」

 電話の向こうの先生はしばらく黙ったあとに、二か月あとの日付を告げる。手帳にしっかりと書きつけて、「わかりました」と返事をするけれど、相澤先生は会話を終えずに、すこしだけ声を淀ませながら、私の名を呼んだ。

「……みょうじ。お前、あれからずっと轟のところで働いてんのか」
「はい、そうですけど」
「……そうか。今だから言うが、お前は学生の頃から本当に、あいつの背中ばっかり見てるような感じだったからな」
「ええと……何と言えばいいのかわからないんですが、先生にまで言われるとは」
「まあ、当の本人は気付いちゃいないだろ。お前は、そのへん如才のないやつだった」

 すこし笑って懐かしむような口ぶり。先生には何を隠したって無駄なのだと、絶望にも似た感情を抱いていた学生時代を思い出す。
 思わず口ごもったままでいると、相澤先生はため息混じりに言う。

「……まあ、この先悩むようなことがあれば、遠慮なく連絡してくれていい。これでも昔、世話した生徒のことは気にかけてる」
「……いや、でも私は――」
「他のやつらより一年短いだけ、だろ。お前がどう思ってんのか知らねえが、少なくとも俺はお前のこと、ひとりの大事な生徒だと思ってるよ」

 先生の面倒くさそうな話し方の裏に深い深い優しさが滲んでいることは、昔から知っていた。「少なくとも俺はお前のこと、ひとりの大事な生徒だと思ってる」――現に、私は先生のこの言葉にひどく救われたような心地がした。押し付けるわけでもない、先生のただただ純粋な優しさがそこにあるという事実が嬉しかった。

「……ありがとうございます」

 相澤先生は頷いて、じゃあなと電話を切った。
 「他のやつらより一年短い、だけ」。相澤先生が心なしか最後の二文字を言い聞かせるように紡いだせいか、まだ鼓膜にじんわりとその響きが残っている。
 ほとんどのサイドキックが出払ってしまった事務所は静かだ。他の情報が入ってこないと、いやでも普段は考えないようにしている頭の中にあるいろいろなことが浮き彫りになる。
 相澤先生と爆豪が私と接するときに纏っているものは、どことなく似ていた。私自身よりも私の底を見透かしたような瞳とかも。

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