ゆるやかに、そしてV

 焦凍くんの事務所には、近所のいくつかの店の出前メニューが常備されている。みんなそれぞれ自分の食べたいものに忠実にばらばらと出前を頼んでしまうので、よく配達員が事務所の前で鉢合わせしている。配達員の人には申し訳ないが、その光景を見るたびに「なんだかうちの事務所らしいなあ」と思う。
 お昼どきをすこし過ぎたころ、焦凍くんが市内の巡回から事務所に帰ってきた。彼はメニューが置いてある棚の前でしばらく立ち尽くしたあと、私の名前を呼んだ。

「なまえ」
「ん?」
「飯、まだだったら外に食いに行かねえか」
「珍しいね。出前取らないの?」
「たまにはな。お前もいつも気遣って人に合わせるだろ。同じのばっかで飽きねえのか」
「そんなことないよ。でも、今日はせっかくだし外で食べよう。いつもとちがう店の蕎麦とか」
「いや。今日はお前の好きなのにする」

 焦凍くんは私が支度をするのをデスクにもたれて待っていてくれた。一緒に事務所を出て歩き出すと、近ごろうっすらと感じていたことを改めて実感する。
 ――最近、なんとなく焦凍くんとの間にあった「一線」が薄くなったような気がする。
 以前は「お昼は?」と聞けば「適当に食うから大丈夫だ」と、私も他のサイドキックの子たちも寄せ付けないような空気を纏っていた。
 彼はたぶん無意識にそうしていたように見えていたので、最近の小さな変化は私にとって嬉しいことだった。
 心配されないように、一人で勝手に無茶できるように――本人にはそんなつもりはないかもしれないが、以前の彼は、そんなふうに見えていたのだ。
 昼どきを少し回った街はピークタイムより人通りが少ないものの、このあたりは彼のお膝元なだけあって、手を振ってくる人や挨拶をする人たちと次から次へとすれ違う。
 律儀に一言ずつ返していく彼が、路地を曲がるとやっと一息つく。
 「気が休まらない?」と問いかけたけれど、彼は「いや、別にいい。抑止力にもなってんなら」と涼しい顔で言った。こういうとき、彼の広い背中が余計に広く見える。

「そう言えば今朝、上鳴からメッセージが来たんだよね」
「上鳴? なんか用でもあったのか」
「うん。一緒に飲みに行った先輩たちからショートくんの連絡先しつこく聞かれてるらしいんだけど、もういい加減教えてもいいかなって」
「……駄目だろ。第一な、んで俺じゃなくてお前に聞くんだ」
「本人に聞いても絶対教えてくれないと思ったんじゃないかな。もちろん私も教えないよって言ったけど」
「……わかんねぇけど、あいつも大変なんだな」

 焦凍くんと同時に苦笑をして、事務所から歩いて数分のところにあるお寿司屋さんに入った。お手頃な値段でおいしいランチを提供していると、この間サイドキックの子に教えてもらったのだ。
 店に入るやいなや、店主に「ショートくんじゃないか」と声をかけられる彼の隣で、会釈をしつつも借り物の猫のように肩をすくめていた。

「……やっぱ焦凍くんと昼間に外出歩くの緊張するな」
「なんでだ。堂々としてればいいだろ」
「そうなんだけど、自分が注目浴びてるわけじゃないのになんか落ち着かないんだよね。こういうの、慣れてないし」

 メニューに滑らせていた視線を私へと移動させて、焦凍くんは私に言った。

「たしかに、ゆっくり会話できねえよな。なまえって、オフの日は何してるんだ」
「うーん……これといって特別なことはしてないな。普通に家でドラマ観たり、買い物したりだけど」
「……やっぱ、どっか行ったりすんのは疲れんのか。あんま休み取らせてやれてねぇし」
「ううん。気分転換になるし、けっこう一人でも出かけたりするよ」

 焦凍くんは「そうか」と言ったあと、何やら思案するように瞼を伏せた。
 ――この様子、もしかして。どこか一人じゃ行きづらい場所でもあるのだろうか。それで、私に声をかけようとしているのだろうか。
 考えてみれば、私は焦凍くんがどんなふうに休日を過ごしているのか知らない。きっと焦凍くんは羽目を外すようなことが苦手だ。昔なんて、クラブのことを「バカ騒ぎするやつ」だとかなんとか言っていたし――。

「もしかして、どこか行きたいところでもある?」
「行きたいところというか、お前ともっとゆっくり話してえなと思って。言っとくけど、仕事仲間としてじゃなくて、お前の知ってる俺として。……息抜きがしたい」

 お前が嫌じゃなければだけど、と彼は付け足した。てっきり目当ての場所がすでにあって、そこに付いて来てくれという話が来るのかと身構えていたが、逆だったらしい。ゆっくり話したい、息抜きがしたい――から、どこかに行かないか。なんて、まるでデートみたいだ。
 脳内で彼の言葉を整理している間に、焦凍くんは店主に向かって片手を挙げる。
 まだメニューも決めてないのに、と焦る私のかたわら、焦凍くんは一番高くて量の多いセットをふたつ注文する。そのあと「あ」と気付いたように私を見て「……食えるか?」と不安げに尋ねるけれど、私は胃袋の心配をしていられる精神状態ではなかった。

「た、食べられると思う」
「よかった。わりい、勝手に注文して」

 湯呑からお茶をすする彼は、はあと息を吐き出すと、心なしか表情を和らげた。

「で、さっきの話だけど」

 狼狽する私をよそに、彼は話を戻す。
 焦凍くんはきっとそこまでちゃんと意識してないかもしれないけれど、一般的には彼の言う息抜きはやっぱり「デート」に値するんじゃないだろうか。
 というか、デートに誘う合間にお寿司の注文を挟むなんて、こんなに器用なことをするひとだったのだろうか。
 ――いや、すべてが無意識だから、焦凍くんはたちが悪いのだ。

「なんか、デートみたいだよね」

 強いて冗談めかして明るくそう言えば、まったく冗談めいていないまっすぐな視線が返される。

「そうなったら都合、悪いか」
「……悪いわけないよ! 行こう、好きなとこ!」

 ならよかった、と彼が目を伏せる。戸惑いを隠そうとして声の調子が外れてしまった私とは正反対に、落ち着き払っている焦凍くんをずるいと思う。
 ――デートで合っていたみたいだ。でも、こんなのって。
 すこしでも油断すれば、自分は彼の柔い部分に触れられる存在なんじゃないかと思い上がってしまう。彼にとってなんの深い意味を持たない言葉も行為も、私にとっては何度も噛み締めて、枕元に置いたまま眠りたくなるようなものに違いないのだ。
 いつも頑張っている彼のために、私にできることならなんでもしたい。
 友愛と呼ぶには引き摺ってしまうくらいに重い感情の先端は、もうぼろぼろになって、元の色もわからない。

「たぶん、プライベートとして外に出るなら帽子とか被ってたほうがいいんだよな」
「そうだね。焦凍くんは髪と顔隠さないとすぐ見つかっちゃうんじゃないかな」
「……一年のとき使ったやつ、まだ事務所にしまっといた気がすんな」
「……そんなこともあったね」

 焦凍くんのひとりごとのような言葉で懐かしい高校時代のことを思い出したけれど、同調する自分の声が思ったよりも乾いていて驚いた。
 焦凍くんが何かを言おうと唇を開いたと同時に、目の前に大皿が運ばれてくる。「応援の気持ちを込めてサービスしといたよ」と店主が得意気に笑うけれど、行儀よく並ぶつややかな鮮魚の数に私は目を丸くしてしまった。
 焦凍くんも同じ顔をしていたので、つい噴き出してしまう。

「……メニューに載ってた写真よりもすごく多いね」
「ああ、俺もびっくりした。ありがてえけど……お前は食えなかったら無理しねえで言えよ」
「ありがとう」

 箸を割って、無言でお寿司を着々と減らしていく。半分くらい食べたところで、焦凍くんはふいに「再来週の火曜――」と私に言いかける。

「空けといてくれ」

 私はゆっくりと頷く。どんな言葉よりも噎せ返りそうに甘やかに、私の中には響いた。
 思い出したように彼が誘ってくれる仕事帰りの食事とも、昼休みにたまに一緒に行く食事とも、すこし違う。「ヒーローの俺じゃなくて、お前の知ってる俺として」。焦凍くんのさっきの言葉を思い出す。
 彼の柔い部分。昔から私が知っている轟焦凍としての部分を、彼が曝け出してくれているような気がして。
 「楽しみにしてる」と小さい声で呟けば、軽い咳払いのあと「ああ、俺も」と低い返事が返ってきた。



 聞こえるか聞こえないかの小さなアラーム音が薄暗い部屋の中に響く。乳白色のシーツが蠢いて、その下からしなやかに隆起する筋肉が見えた。
 私は冷蔵庫からミルクを取り出して、少しだけアイスコーヒーに足した。不機嫌そうな呻き声とともに起き上がった爆豪は、腕で乱暴に横髪を掻き上げてから私を見た。

「ア? んでテメーのくせに俺より先に起きとんだ」
「私だって用事があれば起きるよ。ていうかなんか鼻声じゃない?」
「寝起きだからだろ」

 爆豪はテーブルの上のスマホを確認して、臓物まで出てしまいそうな深いため息を吐く。面倒な連絡でも入っていたのだろうか。

「おい。テメー今日オフか」
「うん。爆豪は仕事入ってるでしょ」
「俺は……つーかお前、もう出かけんのかよ」
「夜には帰って来るよ」
「……クソが」

 私の返事を聞いて、爆豪は心底煩わしそうに顔を歪める。そして、まだ眠そうにあくびをしながら洗面台へと消えていった。シャワーやドライヤーの音がしたあと、さっきまで着ていたものと何が変わったかぱっと見ではわからないような黒いTシャツに着替えて、爆豪は戻ってきた。
 その様子を、私はアイスコーヒーがなくなるまでぼんやりと眺めていた。

「……んだよ、こっちばっか見ンな暇人が」
「ごめん。なんか新鮮で」

 思い返せば、たしかに私は彼が目を覚ますところをまともに見たことがなかったことに気付く。出勤時間の都合で、爆豪のほうが一時間ぐらい早く起きるパターンがほとんどだった。
 爆豪は相も変わらず不機嫌そうな顔でこちらへ歩み寄ってきては、普通に「どけ」と言えばわかるのに、彼は私の肩を掴んで、冷蔵庫の扉にもたれていた私の背中を引き剥がす。
 彼は扉の中から取り出した麦茶をごくごくと遠慮なく飲むけれど、この麦茶ですらももはや爆豪が準備したものなので、気にも障らない。
 上下する喉。「いい飲みっぷりだね、CM来るんじゃない」と揶揄うように言ってみたけれど、爆豪は「うるせー」の一言すらも返してくれずに濡れた唇を拭う。

「……今日アイツと会うんか」
「え?」
 ふいに寄越されたその質問に、私は目を丸くする。
「こんなん、わかんだろフツー」

 爆豪は言葉で説明するかわりだとでも言うのか、私の首元に流れる髪に指先を絡めた。いつもとは違うセットをした髪が根本から先にかけて、眠くなりそうなほどゆっくりと爆豪の指先で梳かれていく。
 こちらを見下ろす赤い視線はどこか侮蔑的にも見えて、とたんに羞恥心が込み上げる。何もかもを見透かされているみたいなみじめさも。

「……変かな。気合入りすぎとか?」
「……まあどうせアイツが気付くわけねーんだから、お前が何しようと一緒だけどな」

 いつもに増して低いところを漂うような声色。おまけにばっさりと切り捨てるような言い方をされれば、ぴりりと紙で皮膚が切れたように心臓が締め付けられる。
 私を傷付けようとする明確な意志を持って言っているのが、瞳の鋭さから伝わってくる。意地が悪いと思う。
 けれどあいにく、こんなことぐらいじゃ傷付いてやらない。ましてや爆豪が投げる鋭利な言葉には慣れている。

「爆豪には――」
「関係ねえ、だろ。テメーの言うとおりだ」

 返す言葉すら爆豪には簡単に見透かされていたらしく、余計に心に靄が溜まった。
 ――どうやら今朝の爆豪は、本当に機嫌が悪いらしい。
 まだ約束の時間までは余裕があるけれど、今の爆豪とこれ以上同じ空間にいるのはなんだかよくない気がして、私は早々にバッグを持った。

「……じゃあ行ってくるね。朝ごはん作っといたから、よかったら食べて」
「ア? 余計なことしなくていいっつっただろ」
「いつも作ってもらってるお礼だから」

 がんばってね、と付け足して玄関を出るけれど、爆豪からの返事はなかった。
 最後に横目で見た、彼のなんとなく苦々しい表情だけが脳裏に数秒間だけ残っていた。

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