ゆるやかに、そしてU

 藺草の香りで目が覚めて、ここが自分の家ではないことを認識する。
 眠っている焦凍くんに付き添っている途中、いつの間にか眠ってしまったみたいだ。目の前の布団はもぬけの殻になっていて、代わりに私の頭の下は枕が敷かれ、体の上には毛布がかけられていた。

「なまえ、起きたか」

 はっとして振り向いたら、扉の前に焦凍くんが立っていた。

「あ……ごめん、寝ちゃってた。具合はどう?」
「平熱に戻ってた。おかしいとこもねぇよ」

 私がまた疑うと思ったのか、焦凍くんは「嘘じゃねえ」と念を押した。
 彼の昨晩の言葉どおり、その顔色はすっかりと血色を取り戻している。

「……お前のおかげだ。ありがとな。あと、迷惑かけてわりい。もう無理しねぇから」

 彼がすこし眉を下げて言う。そんな申し訳なさそうにしなくたって、もう私には彼を責める気など微塵も残っていない。
 シャワーを浴びたあとなのだろうか、その毛先にまだ水滴をたずさえたままの焦凍くんが、「お前もシャワー使うだろ」と私にタオルを差し出す。
 事務所で一緒に仕事をしているだけでは絶対に発生しないやり取りだ。わずかにうろたえそうになるのを必死に律して、私はタオルを受け取った。
 焦凍くんの具合がよくなってほっとすれば、彼の家にいて、彼の家で目を覚ましたという嘘のような現実がにわかに伸し掛かってくる。まるで頭上からたらいを落とされたような感覚だった。

「そういやお前、体とか痛くねえのか」

 今更ばくばくとうるさくなる心臓を落ち着けようとしていた私に、背後から声をかけられた。

「え、どうして?」
「いや、予備の布団なかっただろ。固ぇとこで眠らせて悪かったと思って。お前が逆に風邪引いたりしなきゃいいんだが……」
「大丈夫だよ。畳で寝るの好きだし」
「……そうか。ならよかった。今度お前の布団も買っとくか」

 焦凍くんのその衝撃的なせりふは半分ひとりごとのように聞こえたので、私は聞き返すことができなかった。
 ――「こんなこと」でもなければ、私はもうここには来ないのに。今朝までが非日常だっただけだ。今日からはまた日常に戻る。
 雑念を飛ばすように熱めのシャワーを浴びてリビングに戻ると、焦凍くんが冷蔵庫の中を見て感嘆していた。

「これ、お前が作っといてくれたのか」

 そしてごはんと味噌汁、焼き魚におひたし。ありきたりな朝食のメニューが並んだ机を、目を丸くして彼は見つめていた。

「すげぇな。こんなちゃんとしたのいつぶりだ」
「病み上がりだから、無理しないで食べられるだけ食べてね」
「病み上がりこそいっぱい食うべきなんじゃねぇのか。いただきます」
「いただきます」

 箸がお碗とぶつかる音が心地よい。
 味噌汁をすすった焦凍くんが湯気の向こうで「うめぇ」と漏らすように呟いてくれるのがなんだかこそばゆかった。
 食べ進めている最中に焦凍くんが箸を置いたかと思えば、やけにまっすぐに私を見るものだから、私もつられて茶碗を置いてしまう。

「なあなまえ」
「ん?」
「昨日は本当にありがとな。お前も今日仕事なのに、ずっとそばについててくれて」
「……ううん。魘されてたから心配だっただけ」
「いや、ここにいてくれってのは俺が言ったことだろ」

 もうすこしここにいてほしいという掠れた声が、熱に浮かされた譫言ではなかったことを知って、とたんに顔が熱くなる。
 交わっていた視線を途切れさせたのは、彼のほうだった。

「……それに、昨日の俺は、すげえ情けねえことばっか言って。なんつうか――」

 何やら逡巡する彼の眉間が、すこしだけ強張っていた。

「情けなくなんかないよ」
「……ああ。そう言ってくれてたよな」
「それに嬉しかったよ。焦凍くんがあんなふうに弱音みたいなの吐くのはじめてだったし。ちょっとは頼りにされてるのかな、とか思った」
「……かな、じゃねえよ。俺はお前のこと頼りにしてる」

 そう言ってあいまいに微笑む焦凍くんのことを、この世界で知っているのが私だけだったらいいのに。
 「ありがとう」と言う声に必要以上の切実さが滲んでいませんようにと祈りながら、茶碗に視線を落とした。
 沈黙が鎮座する。それは、あの小さい部屋のなか、私と爆豪のあいだにある沈黙とは色も、密度すらもちがう。
 あれよりも息苦しくて、それなのに泣きそうに愛おしい。終わらなければいいのにと、焦凍くんの瞬きや私に送る視線、ひとつひとつの仕草を噛み締めていると、それだけでお腹いっぱいになってしまう。

「それにしてもお前、こんなにいろんなもん作れるんだな」
「ネットで調べたとおりにやってるだけだよ。このぐらい誰でもできる」
「そんなもんなのか。でも、何作るかはお前が決めたんだろ」
「そうだけど」
「だよな。俺が好きなものばっかだ」

 彼はたまに私がどきりとするようなことを言う。
 もしかしたらぜんぶ見透かされているんじゃないかと思うけれど、恐る恐る盗み見た焦凍くんの表情は私を微塵も疑っていない。

「ひとりだと時間なくて蕎麦以外のもの食べてないんだろうと思って」
「否めねえ」
「これに懲りて、ちゃんと食べなきゃだめだよ」
「姉さんが増えた気分だ」

 苦々しい彼の言葉に笑う。
 体を心配しすぎたり、つい料理を張り切りすぎたり、そういうおせっかいを軽く流してもらえるのは、曲がりなりにも友達として重ねてきた年数のおかげかもしれない。
 一番近くて、一番遠い。勝手に選んだ居場所なのだから、勝手につらくなってやめたりしない。
 私にとっては、彼の傍にいられなくなることが一番こわいのだから。

「たぶん、お前が作ってくれるからだ」
「え?」
「お前が作ったから、余計うまく感じるんだと思う」

 そんなこそばゆいせりふを、いたって真面目な顔で彼が言うものだから、一周回って笑みが零れてしまう。

「そんなこと言っても何も出ないよ」
「別に強請ってるわけじゃねえよ。昨日もそうだけど、お前がいるとなんかすげぇほっとするってことがわかった。完全に俺の都合なんだが……だから、たまにでいいからまた、こうやってお前と飯を食いたい。……つうか、これじゃ結局強請ってるよな。駄目か?」

 焦凍くんは困ったように笑っていた。
 まだ水分の飛んでいない前髪からまっすぐな瞳が、伺うようにこちらを覗いている。そういうところが、ずるい。
 私が焦凍くんのお願いを断れるわけなんかないのに、それを知らないところが、もっとずるいのだ。

「……いいよ。知ってると思うけど、私、いつも暇だし」

 そう言うと、焦凍くんはほっとしたように瞳をさんざめかせる。
 それと見て「好きだ」という言葉が口を突いて出てしまいそうになるのを、私は必死に麦茶で流し込んだ。



 車窓から見える見慣れない風景を、なんとなしに眺めていた。
 事務所に向かうことには変わりないのに、出発地点が焦凍くんの家だというだけで、街はいつもとちがうよそ行きの表情をしている。
 車のドアを開けて待機していた運転手の人は、焦凍くんと一緒に私がポーチに現れると「おや」と片眉を上げて見せた。焦凍くんは「風邪を引いて面倒見てもらってた」「同じ事務所まで行く」と説明をしてくれたけど、運転手はゆるい笑みを口角に携えていて、一体どんなふうに思われたのだろうか、と気が気じゃない。いつか一緒に乗った一期一会のタクシーの運転手とはわけが違う。
 ふと焦凍くんのほうを見やると、ほぼ同じタイミングでその顔がこちらに向けられた。

「なんか妙な感じだな。お前と一緒に事務所行くの」
「同じこと考えてた。いつもこんな道通ってるんだね」
「お前んちの近くとは違ってオフィス街だし、おもしろくねえ景色だろ」
「でも、近いからいいね。ぎりぎりまで寝れる」
「たしかに、お前も毎朝眠そうだよな」

 一旦、途切れる言葉。その空白で、ふと自分の住む部屋を思い出す。
 窓から見える川、色褪せたミルクティーみたいな色の髪。たいして広くない部屋のお気に入りのソファはこのところいつも、大きい図体に占領されているから、私はいつも隅っこに座っていた。
 昨晩、スマホが震えていたことを思い出してバッグの中から取り出してみるけれど、画面は暗いままだった。

「あ」
「充電なかったのか? 俺んちのやつ使ってくれてよかったのに」焦凍くんはふと私の手元を覗き込む。

「ありがと。でも今の今まで気付かなかったよ」

 ――そういえば、爆豪は今どこにいるんだろう。昨日の着信も爆豪からだったのだろうか。
 もう合鍵を渡してしまったから、もしかしたら昨晩は家主がいないのをいいことに、どっかりとソファに座って手足を伸ばし、ひとりで広々と寝たのだろうか。
 私がいないとき、彼はどういう風に眠るのだろう。
 眠るときは背中合わせだったはずなのに、朝起きるとだいたいその腕は蛇のように私を閉じ込めている。最初はその体温の高い手足にぎょっとした。
 同時に、他人と密着しながら寝るのなんてうっとうしいと言いそうな彼の、意外にも子どもじみた寝相にもびっくりした。
 ――ああ、また、恋人でもなんでもない男の生活が、いつの間にか脳裏に縫い付けられていることを実感してしまう。
 爆豪にも、ふとした瞬間に私の顔が過ぎることはあるのだろうか。くだらない問答にはまだ答えがない。



 事務所に入れば、嗅ぎ慣れたにおいがスイッチを切り替えてくれる。

「なまえ、今日も頼むな」

 焦凍くんが私の肩に手を置く。彼がくれる最上の親愛を、私は今日も大切に受け取っては、それ以上を望んでしまう傲慢と一緒に、箱にしまっておく。
 スマホを充電しようと思い立ったところで、事務所に備え付けの電話が鳴った。至急の応援要請だと言うので、焦凍くんが入っていったばかりの更衣室をノックして伝える。
 焦凍くんはすぐさま事務所を飛び出して行って、その背中を見送るひまもなく、また電話が鳴った。
 たまに、何かのドッキリではないかと思うぐらい、いろんなことが起きすぎる日がある。
 電話の応対と、焦凍くんやサイドキックの子たちへの連絡や、次に向かう現場の情報の下調べをするのに精いっぱいで、食事をする暇もなければ、スマホを充電する暇すらも、結局なかった。
 事務所を出て電車に座ったら、頭のてっぺんからつま先までどっと疲れが落ちてくる。一日中気を張っていたから無意識に押し留めていたのだろう。
 私の手の中には紙袋がひとつあった。水色と白のシンプルなデザインのそれは、帰りがけに私を呼び止めた焦凍くんがくれたものだ。

「今日は本当に助かった。昨日もろくに眠れてねえのに、ごめんな。……これ、差し入れでもらったやつのおすそ分けだけど、すげえうまいらしいから、良かったら食べてくれ」

 わけもわからずにこの紙袋を差し出すなんて、焦凍くんらしいと思った。並ばないと買えないお菓子だよ、と教えたら「そうなのか」と大して興味もなさそうに言っていた。

「ならなおさら、お前が食べてくれ」

 焦凍くんが私の指を開いてそれを持たせるので、私は黙って頷いておいた。
 触れた指先が、昨晩の焦凍くんの弱々しくも素直な吐露をも思い起こさせてちょっと照れてしまったのは内緒だ。
 電車の中では、焦凍くんの言葉を何度も反芻する以外にはやることがなく手持ち無沙汰だ。スマホがないと、普段どれだけスマホばかり見ているかということを痛感する。
 最寄り駅のひとつ手前の駅で、そういえば、とまた白茶けた髪のことを思い出した。



「あ、爆豪」

 駅を出てすぐのカフェの前でそう声を漏らした。
 ガラスの向こうの店内にいた彼は私に気づいて、ぎゅうと細くなった目で私を睨み上げる。
 おもむろに立ち上がった爆豪が私を見てぱくぱくと口を動かす。「ちょっと待ってろ」と言われたように思えたのでしばらく店の前で立ち尽くしていると、彼はすぐに店から出て来た。

「ン」
「え」

 爆豪にずいとプラスチックの容器を差し出される。なみなみと容器のなかで揺蕩っている液体は、どことなく爆豪の髪の色と似ている。

「コーヒー? くれるの? ありがとう」

 爆豪は返事をしなかったので勝手にストローに口をつけてしまった。正直喉が渇いていたのでラッキーだと思った。
 もしかして、私がガラスの向こうで物干しそうな顔をしていたからだろうか。だったらちょっと恥ずかしい。
 ただの冷たいカフェオレではなく、すこしはちみつが混ざっているらしい。ちょうどいい甘みは、疲れた体にすうと馴染んでいった。生き返る心地だ。

「……つーかオメー、何かあったンかよ。連絡ぐらい寄越せや」

 爆豪はすこし声を抑えていた。怒っているというよりは、どちらかといえば怪訝そうな面持ちだった。

「あ、ごめん。忙しいし充電は切れるしでスマホ見れてなくて」
「ア?」
「今日、うちの事務所めちゃくちゃ忙しくてさ。ショートくんもみんなも事務所行ったり来たりで」
「……ハ、あいつの仕事ぶりなんざ知るか。クソどーでもいい」
「じゃあ、爆豪は今日どうだった?」
「フツー。つまんねー一日だわ」

 味気のない回答だけれど、ヒーローである彼が「フツー」「つまんねー」と評するような一日は、恐らく世間にとってはいいことだ。
 誰が言っていたかは思い出せないが、「ヒーローが暇を弄ぶ世の中にしたい」と言うせりふをテレビで観たこともある。
 工場のレーンの合流地点みたいに自然に私の隣に並んで歩き出す爆豪のことを、よく考えればやっぱり変だなと心の中で思いながらも、二日ぶりの自宅に向かった。
 そろそろと家までの道を歩く途中で、爆豪がはたと立ち止まる。

「スーパー寄るか」
「何買うの?」
「メシの材料に決まってんだろ」
「え? うちで食べるやつ?」
「それ以外に何があンだよ。そのへんの犬にでも食わせる気かよ」

 正直もうヘトヘトに疲れている私は、とてもじゃないがふたりぶんの食事を作る気になれないでいた。
 まともに食事を取れなかったせいで、一周回って空腹かどうかもわからないし。
 判断力をこれ以上ないまで低下させたまま店の前で立ち止まっていたら、痺れを切らした爆豪がぐるりと私を振り返った。

「早よ食いてぇモン言え。三秒以内」
「……そんなすぐに言われても出てこない」
「ンじゃあ俺の独断と偏見で作ってもゼッテー文句言うなよ。テメーは帰ったらすぐ風呂にでも浸かっとけ」
「え、爆豪が作るつもりなの? いいよ、いっつも朝ごはん用意してくれてるし私が――」
「疲れてんだろ。歩くのいつもより遅ェし。俺より体力ゲージ雑魚のくせに見栄張んな」

 手あたり次第に怒ってくるのとは違う、有無を言わせない低いトーンだ。たぶんだけど、気を遣わせてしまったらしい。
 ほとんど事務しかやってない私よりもヒーローである彼らのほうが幾倍も疲れているはずなのに。そう口ごたえをしたところできっと「なめんな」と一蹴されるのだろうけど。
 爆豪にスーパーの買い物かごは恐ろしく似合わない。ぼうっとしている間にすたすたとスーパーの中に進んでいってしまった彼に慌てて追い付いた。

「……ロールキャベツ」
「ア゛?」
「食べたい」
「さっきリクエストは三秒以内つったろバァカ! つーかこの時期のキャベツは煮込みに向いてねェっつうから却下。次!」

 ――あ、一応リクエストを聞こうとはしてくれるんだ。
 横暴なのか義理堅いのかわからない爆豪とああだこうだと言いながらスーパーを回っているうちに、すこしだけ疲れが紛れた気がする。 
 もはや慣れた様子で私の部屋のドアを開ける爆豪は、部屋に入るなり私を顎ひとつでソファに促した。有無を言わせない態度に結局甘えることにした。
 風呂場で着替えながら、小気味のいい包丁の音とか、フライパンが熱をたくわえていく音を聴く。その手際の良さが音だけでもわかってしまうのがなんとも悔しい。

「爆豪」

 ドア越しに呼べば、ぶっきらぼうな母音が返ってくる。

「着替え取ってくるの忘れちゃった。ここに置いてある服借りてもいい?」
「勝手にしろ」

 袖を通せば二の腕の部分が有り余る。自分のものではない、すなわち爆豪のにおいが鼻腔を掠めたせいで、彼と寝ているときの映像がふと脳裏を通り過ぎてしまった。

 ものの数十分程度しか経っていないのに、テーブルには一汁三菜がきっちりと並んでいた。
 高校のときに爆豪が包丁を握る姿は何度か目にしたことはあったので薄々気付いてはいたが、たぶんはるかに私よりも手際がいい。今まで自分が作ったものにたいして文句を言われなかったのは奇跡かもしれない、と実感してごくりと唾を呑みこんだ。
 いそいそとテーブルに寄れば、同じく腰を下ろした爆豪に「ア? なんでコッチ着てんだよ。もう一枚あっただろうが」とシャツの袖をつままれて怒られた。

「どっちも一緒じゃん」
「違ェわクソが」

 そこまで言わなくても、と私が仕方なく立ち上がって着替えに行こうとすると、結局爆豪は「もういいから食え」と手を引っ張りおろすのだった。

「……いただきます」
「ン」

 行儀が悪いと思いながらも、さっき電車に乗っていたとき以上の手持ち無沙汰感を覚えて、私はテレビのスイッチを入れる。
 テレビの奥ではちょうどエンデヴァーがインタビューを受けていたので、私も彼も無言で、画面の中の赤を眺めた。
 箸が食器にぶつかる微かな音。今朝、焦凍くんと食事をしているときに感じた、すこし張り詰めたような空気はここにはなかった。爆豪と一緒にいる空間には、なんというか――何を言ってもいいし、何も言わなくてもいいような、弛んだ空気が流れる。それはけっして不快じゃない。

「あ、そういえば昨日の夜どうしてたの?」
「は?」

 疲れでちゃんと回っていない頭でぼそぼそと爆豪に話しかければ、あからさまに不快そうに顔を顰められた。

「昨日の夜。私いなかったから、どうしたのかなって」
「……ソレ知らねーわ。昨日は帰ってねーってことか」
「爆豪も?」
「俺ァ遅くなっから事務所の仮眠室で寝る、つってオメーに連絡もした」
「……あ、私まだ携帯見てないままだった」

 ベッドのうえで充電ケーブルに繋いでいたスマホに目をやれば、その画面は輝きを取り戻していた。

「さすがに丸一日連絡ねーからヘンだとは思ってたが、そーゆーことかよ」
「そういうことって」
「テメーに限ってひとつしかねえだろ。アイツんとこだろ、どうせ」

 爆豪の声は水面に潜ったようにワントーン低くなる。
 分かりにくいと思うもの。「焦凍くんが笑っているかどうか」というのがひとつで、もうひとつは「爆豪がほんとうに不機嫌かどうか」だ。口も態度も悪いせいで四六時中怒っているような爆豪が「ほんとうに不機嫌」かどうかは、最近になってやっと分かるようになった。
 なにせ、ほとんど同居に等しい生活を送っているのだから。

「そんな言い方しなくてもいいでしょ。不良娘じゃあるまいし……焦凍くんが風邪引いて熱出してたから、家のことちょっと手伝ってきただけだよ」
「んなこと誰も聞いてねー」
「黙ったまま嫌味っぽく変なふうに言われるの、いやだもん」
「どーでもいいっつってんだろ、お前のこともアイツのことも」
「……なんで怒ってんの」
「怒ってねーだろ」

 ぎろ、と赤い瞳が私を一瞥してすぐに去っていく。これ以上しゃべることを言外に拒んでいるのか、大きく開いた口のなかに、次々に晩ごはんのおかずが放り込まれる。
 たぶん今日の爆豪は「ほんとうに機嫌が悪い」。理不尽に怒鳴り散らす爆豪より、そうじゃないときの爆豪のほうを警戒すべきだと知っている。炎が燃えるとき、その温度が高いほど青くなるのと同じだ。
 ――嫉妬、とはまったくの別物だけれど、ちょっとだけ似ているなにか。
 友人と呼ぶには近すぎて、でも到底恋人とは呼べないいびつな関係性は、お互いへの独特な執着を生み出してしまうのかもしれない。
 ボタンをひとつ掛け違えたら次の瞬間にはもう他人に戻れる私たちが、未来なんかないのに無駄に居心地のよさを感じてしまうのは不毛だ。なんとなくお互いの幸せを望んでしまったりだとか、相手の生活や人生に一丁前に影響しているような気になったりだとか、そういうのもぜんぶ、世界一、不毛だ。



 なにがスイッチになっているのか未だにわからない。最近、爆豪が私に触れるその手つきがすこし変わった。
 性急さは押し込めて、焦らすみたいにゆっくりと触れるくせに、私が乱れた呼吸を整えるのも待ってはくれなくなった。鈍い赤の瞳だって、どこか軽蔑するように私を見る。
 私が声を漏らすのを堪えていることを爆豪はすぐに見抜いて、口に当てていた手のひらはすぐに取り払われる。
 それなのに、私が嬌声を零すと「ちょっとは静かにできねえのかよ」と唇をふさぐ。
 意味がわかんない、と反論する余裕がないのを見越してのことだとしたら、かなり腹立たしい。

「……ッハ、情けねェ顔……ッ」

 そう言って見下ろしてくる爆豪だって、律動を続けながら項垂れるような荒い吐息をしきりに漏らしていた。
 取り返しのつかないぐらいに肌と肌が馴染んでしまったような気がして、泣きたくなる。
 頭の中がかんたんなことだけになるこの時間から逃げられない私のことを、爆豪は軽蔑しているのだろうか。

「こんなとこ、誰にも見せらんねーなァ」

 赤い瞳が鈍くぎらつく。爆豪が私の両の手首をひとつに束ねたあとは、もう加減されないということがわかった。そうなれば最後、回らない頭で覚悟する。
 何度か、彼の唇から漏れる自分の名前を、まるで他人のものみたいに聞きながら。

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