夜は眠らないT

 他の表情を思い浮かべてみろと言われても、すぐには難しい。それぐらい、よく笑う女だった。
 何か言葉を交わせばすぐにむっとして眉を寄せるくせに、次の瞬間にはひどくおかしそうに声を立てて笑っていた。俺が何を言おうとも言わずとも、勝手に。
 見るからに頭が悪そうなやつだ、というのが第一印象だった。けれど、どことなくいつもその表情の奥に何かをひた隠しにしているように見えていて、その「何か」が轟に対する並々ならぬ感情だとわかったのは、入学してしばらく経ってからだった。
 夏の走り。あいつが何かの拍子に、轟を下の名前で呼んだ。ひどく澄んだ音色だった。それを誰かが拾い上げ、「どういうことだ」「やけに仲がいい」と必要以上に騒ぎ立てた。そのときにあいつがわずかな動揺混じりにした弁解を聞いて、あいつと轟も同じ中学の出身だったことを初めて知った。
 それまでは、あいつらが特別親しげに関わっている印象もなかったし――まあ、そもそも入学当初の轟が誰かとまともに話しているところを見たことはなかったが――それは他の連中も同じだったようで、出久も目を見開いて驚いていた。

「同じ中学から二人も雄英なんてそうそうねーだろと思ってたけど、あるとこはあるモンなんだな。まーよく考えりゃ、爆豪と緑谷もそうだしな」
「雄英受けてる人みんなすごかったし、私は運に味方してもらえたただけだよ。でも焦凍くんが推薦で受かったって聞いて、うちの学校の人はみんな『やっぱり』って感じだったし、私もやっぱりすごいなって思ってた」
「俺も、お前も雄英だって聞かされたときは驚いた。それに、まさかまた同じクラスにまでなるとは思ってなかったしな」
「『また』だって。ここも腐れ縁かよ。なー? 折寺中出身のかっちゃんくん!」

 揶揄うように上鳴に背中を小突かれる。その鬱陶しさよりも、雄英進学者が俺一人ではなかったという忌々しい事実を蒸し返された苛立ちが勝って、「うるせーわクソが」とやり過ごす。
 なぜかそのあともしばらく、あいつが轟の名前を呼ぶ声が耳に残っていた。わざわざ俺の背後で繰り広げられるくだらない会話の中に混じるそれを聞いて、どことなく腑に落ちたような感じがした。
 あいつが轟を呼ぶときの、やけに起伏の少ない声。わざとらしいほどとりとめもないトーン。それに対して、じりじりと耐えるような表情はどうもちぐはぐに見えて、違和感で、このころからどうにも不快だった。
 ――ああこいつ、よりによって半分野郎なんかのこと。
 何か劇的な出来事があったわけでもない。ぬるりと泥に足を突っ込むみたいに、知りたくもないのに知ってしまった事実だった。飲み下すと胸焼けがして、趣味ワル、と呟きそうになったがやめた。

「そういえば入学したころから思ってたけど、爆豪くんのあだ名ってかわいいよね」
「……ア?」
「私も呼ぼうかな」
「ふざけんな死ねカス」

 間髪入れず放った暴言に対して、みょうじは待っていたと言わんばかりに軽やかに笑ってみせたので、余計に腹が立ったのを覚えている。



 寮に入った翌朝、まだうっすらと朝霧の立ち込める敷地内にランニングに出た。まだ夏だというのに、敷地内にたっぷりと生えた木々が熱を奪って、二の腕を撫でていく空気はひんやりとしていた。

「あれ? 爆豪、おはよう」

 まだ朝の五時を回ったところだったが、目の前には人影があった。その女は目の覚めるようなはっきりとした色のTシャツ近寄ってきて、「一緒に走る?」と森林地区方面まで伸びているランニングコースを指さす。

「んでてめーのペースに合わせなきゃなんねえんだよ。つーかいっつもこんな時間に起きとんか」
「ううん。いつもはもうちょっと遅いけど、昨日は部屋作ってる最中に漫画読み始めたらそのまま昼寝しちゃって、おかげで早く目が覚めたんだよね。私が寝てる間、みんなで部屋のお披露目したんでしょ?」
「くだんねーから寝てた」
「なんだ、爆豪もやってないんだ。見たかったな、みんなどんな部屋にしたんだろ」

 膝の裏を伸ばしながら白々しくそう言うが、どうせこいつは轟のことにしか興味がないのだ。
 指摘するのも面倒だったのでそのまま無視して走り出したら、女も同時にコンクリートを蹴り出した。

「付いてくんじゃねえ」
「たまたま同時だっただけだよ。一人で走りたいなら先行きなよ」

 チッと舌打ちをしてからしばらくが経っても、背後の足音はまだ一定の距離を保って背後から聞こえていた。演習で一緒になるたびに、俺はその基礎体力のなさを小馬鹿にしてきた記憶があったので、それはいささか意外なことだった。
 ためしにペースをぐっと上げてみれば、背後の足音はばらばらと乱れる。

「……いや、早っ! 無理!」とうとう背後から悲鳴に似た声が聞こえる。
「ウッゼェな! 付いてくんなっつっただろうが!」
「ごめん、爆豪相手にどれぐらい付いていけるかなと思って」

 息を切らしながら、途切れ途切れに女は笑った。見るからに無理をしている様子ではあるが、前はもっと――話にもならないレベルだったはずだ。

「いつも爆豪にスタミナないのどうにかしろって言われるから頑張ってたつもりだったんだけど、まだまだだったね」

 ――他の表情を思い浮かべてみろと言われても、すぐには難しい。それぐらい、よく笑う女だった。 
 腰に手を当ててぺースを落としながらも、その表情だけはまるで楽観的なものだった。ひょっとしたらこいつはただ息をしてるだけで幸せなんじゃないか、とさえ思えた。

「……てめー、マジで轟のあと追いかけて雄英入ったんかよ」
「え、なにそれ。誰が言ってたの?」
「別に。傍から見てっとそうにしか見えねえだけだ」

 轟を追いかけて雄英の入試まで突破して、それからも着実に力をつけて。そりゃ満足だろうな、と皮肉の一つでも言おうと思ったが、実際に視線をぶつけてみると、みるみるその気力を削がれてしまう。
 女はしばらくじっと俺を見つめたあと、ふいと視線を逃がす。

「……爆豪には関係ない」
「……あ?」

 今思えばこの台詞は、昔からこの女の常套句だった。
 俺を置き去りにしてランニングを再開した背中は、数メートル進んだところでやっぱり立ち止まる。今度こそ機嫌を損ねたかと思いきや、彼女は「あれ、行かないの?」と何食わぬ顔でこちらを振り返った。
 こいつを見ていると、なんだか全てが馬鹿らしくなる。
 果たして、この女は本当に「たかが好きな男のためだけ」にこんな場所にいるのだろうか。きっとそんな器用なたちではない。それほどバイタリティがあるわけでもない。もっと他の原動力が根付いているはずだ。でないと、常にこの女をすっぽりとくるんでいる、バカらしいほど前向きで、腹が立つほど幸福な空気との、辻褄が合わない。

「……てめーこっから半分は後ろ向きでも走れ。そのほうが均等に筋肉つく。あとダラダラ同じペースで走んな」
「えっ、後ろ向きってこういうこと? なんか、前見えないからコース外れて木に突っ込んじゃいそう」
「俺が見てりゃいいだろうが」

 おせっかいじみた言葉が、他の誰でもない自分の口から零れたのでぎょっとした。
 女が目を丸くしながら言った「ありがとう、爆豪」という響きが、ランニングコースの終わりまで頭の中に残っていた。轟を呼ぶときのやけに起伏の少ない声も、わざとらしいほどとりとめもないトーンも、それに対して、じりじりと耐えるような表情もそこにはなかった。けれど、その「爆豪」という響きを頭の中で繰り返しているうち、自分の名がそんな響きをしていたことすら、不思議と新鮮に感じてしまった。

 それから、別に約束をしたわけでもなんでもないのに、だいたい水曜と土曜の朝に寮を出ると、階段のうえにはあいつの目の覚めるようなはっきりとした色の背中が見えた。
 夏のある日には蝉の声のする方向を頼りに近くの木を覗いていたり(虫が苦手だと言っていたくせに)、冬のある日には首元にマフラーをぐるぐるを巻いたまま階段に座っていて、俺の顔を見るなり「寒い」と、だからどうしたとため息を吐きたくなる意味のない言葉だけを寄越したりした。
 会話らしい会話はなく、走り終わったあとのクールダウンの間に、次の日の朝には忘れているようなくだらないことをぽつりぽつりと交わすぐらいだった。そのあと寮に戻って、また教室で顔を合わせたあとも、俺とあいつが必要以上の言葉を交わすことはなかった。
 それは二年の終わりごろまで続いた。どちらの意思なのかとか、なんの意味があって続いたのかとかは今でも分からない。「なんとなく」というひどく曖昧な言葉が一番似つかわしかった。
 ある水曜の朝に初めてあいつの背中がそこにいなかったとき、わずかに胸のざわつくのを感じたのだ。慣れとは怖いものだ――と片付けていつものようにコンクリートを蹴ったが、結局、その日いっぱいあいつは教室に姿を現さなかった。翌日の木曜も、その翌日の金曜も、その翌週になっても。
 寮の中ですらその姿を見かけなかったので、とうとう麗日に「アイツは」とだけ尋ねてみたら、麗日は「昨日『大丈夫』って連絡は来たんだけど、部屋にもいないみたいなんだ」と不安げに眉を下げた。
 そのあと同じ質問を轟にすると、轟は

「俺も今朝連絡したけど、既読ついただけだな。電話も繋がんねえし」

とスマホに視線を落として、そのやけに冷静な様子に無性に腹が立った。
 あいつが来なくなって三週間が経とうとしたころ、いつも通りの時間に先生は教室へやってきた。扉が閉まった瞬間、先生の纏う空気が異様なのを肌で感じ取れた。やがて「お前らに言わなきゃならないことがある」と開かれた口元は、大量の水を含んだ雑巾みたいにずっしりと重かった。

「みょうじのことだ。体調不良でしばらく休んでいると伝えてきたが……実は、来期から普通科に編入することになった」

 それは後頭部を強く殴打されるに等しい、衝撃的な言葉だった。ほとんどの生徒が息を呑み閉口する一方で、麗日や上鳴が文字にならないいびつな声を漏らす。

「理由は怪我だ。命に別状はないが……個性≠ノ影響がある。そのため、今までと同じようにヒーロー科のカリキュラムを続けることは難しい状態のようだ」
「そんな」ちぎれたような麗日の声が教室の後ろのほうから聞こえる。
「……俺から言えることはこれ以上にない。言っておくが、いろんな方法を一緒に模索した中で、最終的に決断したのはあいつ自身だ。お前らも憶測でものを言ったり、無意味な干渉をしたりするな」

 先生は冷徹ともとれる事務的な物言いをしたが、その声の端々に痛々しさが滲んでいた。
 重苦しいほどの沈黙が、教室にのしかかる。先生の言葉の意味を、きっと全員が理解している。「普通科に転入する」という言い回しをしたが、それは「ヒーロー科をやめる」こと、つまり「その志を捨てる」ことと同義だ。カリキュラムが続けられる続けられないの話では、到底ないだろう。
 茫然としながら、三週間前から一つぽっかりと空いたままの席を見やる。
 いつもはそこに、すこし退屈そうに頬杖をついて、手持ち無沙汰のもう片方の手で記具をかちかちとノックしていた女がいたはずだ。集中できなくて鋭い一瞥を飛ばしたら、はっとしたあとに「ごめん」と口だけで謝って、へらへらと笑っていたはずだ。

「……つーか『干渉すんな』って言うけど、誰もアイツに口出ししねえのがホントに正解なんかよ」

 気付けば、その言葉を吐いていた。いくつかの視線が背中に集まるのを感じる。

「親切心を履き違えるなよ、爆豪。あいつが必死で考えて決めたことに正解も不正解もあるか」

 突っぱねるような物言いだった。ぴくりと眉間に亀裂が入るような心地がするが、次の言葉を返す前に、ほかの誰かの声がそれを遮る。

「先生」
「……なんだ、轟」
「みょうじは今どこにいるんですか。連絡がつかねえんだが」

 ちらりと見やるとその声の主と目が合う。俺に目をくれているひまなどないとでも言うかのようにそのオッドアイは一瞬で逃げていき、もう一度先生にその瞳孔を据えた。

「……昨日、退院してるよ。そうだな、お前らにはみょうじの様子を言わなさすぎたせいで、かえって心配かけた。すまない。ただ、今はもう言葉も思考もはっきりしてるから安心してくれていい。連絡がしづらいのは利き手を怪我してるからだ。それを除けば、来週からは登校もできそうな状態だ」

 まるで水面のほんのうわべだけを爪の先でなぞるような、なんの意味もない会話だった。聞いていると腹の奥のあたりがじんじんと熱を持って、今にも冷静さを手放してしまいそうになる。
 あいつが怪我を負ったのは手だと、先生は言った。「考えてみればさ、手を使うことぐらいしか私と爆豪の共通点ってないよね」――いつだかあいつがそう言っていた。次の日の朝にはすっかりと忘れていたはずのくだらない会話が、今になって思い起こされる。

「……笑わせんな」
「おい爆豪、どこ行く」

 俺は答えなかったし、先生もそれ以上聞いては来なかった。ましてや、追いかけてくることもなかった。

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