やさしい呪いをかけてあげる

 一時間ほど前に事務所を出た爆豪からメッセージが入ったのは、ちょうど自宅の最寄り駅で電車を降りたところだった。彼のメッセージはいつも簡潔で、メッセージアプリを開くまでもなく、通知画面で要件がわかる。
 そしてだいたい、言葉が足りない。
 「話がある」「待ってろ」、わざわざ二件に分けるほどでもない文字の量。私ははたと立ち止まって、だからどこで、と唇だけでひとりごちる。爆豪に歩み寄ることを諦めて駅の改札を出たところでぼうっと突っ立っていると、しばらくして帽子を深く被った彼の姿が目の前に現れた。

「……行くぞ。そのへんの座れるトコ」

 私に声をかけるやいなや、彼は立ち止まることなく私を追い抜いていく。慌てて追いかけるけれど、少し彼も急いているように見えた。
 時間も時間で、家の近所の飲食店なんかはどこもラストオーダーぎりぎりだった。わざわざ改まって「話がある」なんて言うからどこかに入るのかと思いきや、爆豪は誰もいない公園の自動販売機の前でやおら立ち止まると、「てめーなんか飲むか」と尋ねてきた。

「じゃあ、コーヒー」

 爆豪は返事の代わりに自動販売機に小銭を入れる。無言で差し出されたそれを受け取る。
 私と同じ缶コーヒーではなく、ゼロカロリーのコーラを買ったらしい爆豪は、公園の中の色褪せた青いベンチにどっかりと深く腰掛けた。やや劣化した白い街灯にぼんやりと照らされながら、爆豪は小気味いい音を立ててタブを引く。

「……なに、話って」
「いいからてめーも座れ。立ち聞きとかシツレイにも程があんだろ」
「ああ、ごめん」

 爆豪のとなりに腰かけると、ベンチはかすかに軋んだ。

「公園に座って話すのとか、なんか学生みたいで懐かしい」
「文句垂れんじゃねえ。店開いてねえし酒入れたくねえんだよ」

 文句を言ったつもりはなかったが、不機嫌そうに爆豪は答えた。
 ――今更、私たちが改まってしらふでする話ってなんだろう。この間「終わりにしよう」と言ったとき、爆豪はうまく私のことを丸め込んで、最後には「解散」なんて言って、半ば強引にシャッターを下ろしてしまったのに。

「最近ずっとどっかに行ってたのも、その話に関係あるの?」

 そう尋ねると、爆豪はポケットの中から白い紙を取り出す。三つ折りにされたそれをはらりと広げると、忌々しい記憶を噛み潰すような顔で彼は言った。

「……このナリだから本人確認に用意する書類がクソほどあって手間食ったンだよ。お固ェ連中に全然話通じねぇし」

 それは、私もしばらく前に目にしたことがあるフォーマットだ。その紙には「ヒーロー個人事務所設立届」と堅苦しい文字で記載されていた。凛とした筆跡で佇む彼の名前と、ヒーロー名。右下には今日の日付と、ヒーロー協会の角印が押してある。
 はっとして爆豪の顔を見たら、

「見た通りのモンなんだから間違ってもアホみてーにそのまま聞き返すんじゃねえぞ」

と釘を刺されてしまった。

「……フリーでやるの、やめるの?」

 何から聞けばいいかわからなかったが、まず気になったのはそれだった。

「あ? 別にいーだろ」
「そりゃいいんだけど、急にこんなの出されたら驚くよ。爆豪はずっとフリーでやってきたいのかと思ってたし」
「別にフリーに拘ってねえ。俺ァただ身動き取りづれえのが嫌なだけ。けど、俺が好きなように創っちまえばやるこた変わんねえだろ」
「まあ、たしかにそうだね。……でもそれって……なんで? 今までと変わらないならどうしてわざわざ事務所ってかたちにしたの」
「まだ俺の言ってっこと冗談で済ますつもりなんかよ」

 声色がぐるりと変わる。脅すみたいに足元低くを漂うその声を、私はもう茶化せない。

「今から言うこと、てめーに言うのはもう二回目だ」
「……もしかして、高校のときにも言ったこと?」

 彼が何も言わずに私を見つめるときは、大概肯定しているときだ。
 色褪せた髪と、まだグレーの制服に身を包んでいた爆豪の姿が脳裏に蘇る。
 ノートパソコンを叩く私に向かって、そしてお寿司を食べている最中にも、爆豪はその言葉を度々口にしていた。その度に私は冗談だと決めつけて、ちゃんと飲み込んでこなかった。
 ――だって、飲み込めない理由があった。

「……いや、爆豪だって、いま私がヒーローしてない理由なんてよく知ってるはずでしょ」
「……少なくとも轟よりかはな」
「いま焦凍くんは関係ない」
「関係あンだよ。俺にもあいつにも」
「……意味わかんないし、なんで今更そんなこと私に言うの」
「てめーにその気がねェんなら俺だってここまでやんねえわ。何が楽しくてヒーロー興味ねえヤツに事務所建ててやんなきゃなんねぇんだよ――」
「私、『まだヒーローになりたい』とか一度も言ったことないじゃん……!」

 ついさっきまでは冷静でいられたのに、にわかに語尾が揺らぐ。とめどなく溢れ出す感情が何かもわからないまま、必死に喉元をぎゅっと締めて涙をこらえる。
 爆豪は、真夜中の海のように凪いだ表情で私を見ていた。

「それがなんだっつうんだよ。言ってねえだけだろ。見てりゃわかる」
「……勝手に私のこと決めないでよ。いっつも私のことわかったみたいに話して――」

 爆豪に当たるのはお門違いもいいところだ。わかっているのに、いつものような私よりも私のことを見透かしたようなひとみに、ひどくみじめな気分になった。
 たまらなくなって、その分厚い胸板に拳をぶつけてしまう。この程度の衝撃では爆豪はびくともしなくて、そのまま私の手首を掴んだ。とうとう目尻に涙が滲んだ。

「まだ仮免返してねえくせに」

 その言葉にはっとして顔を上げる。誰にも言っていないはずのことだった。
 言葉を失っている私に、爆豪は畳みかけるみたいに言葉を続ける。

「もう二度とてめーが逃げらんねえようにもっかい言ってやるけどな、これは冗談でも中途半端な慰めでも何でもねえ。なまえ、俺んトコでもっかいヒーローやれ」

 彼本来の烈々とした声が、いまたしかに聞こえた。
 ぎり、と手首を握る指に力が籠る。けれど痛くはなかった。
 まるで薄暗いどこかから力尽くで引き上げてもらったような感覚がして、わけもわからないまま一筋だけ涙が零れる。

「一週間やる」

 爆豪はそう言って、濡れた私の頬を手の甲で静かに拭った。

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