夜は眠らないU

 数週間ぶりに教室へやって来たあいつは、麗日の隣で、からりと乾いた笑顔を張り付けていた。
 怪我は大丈夫なのかとか、もうなんともないのかとか、芯の部分にだけ触れないやわらかい質問ばかりが飛び交って、みょうじはその一つ一つに対して、明るく受け答えた。

「……何も言わないまま長いこと休んじゃって、心配かけてごめん。みんなと同じような活動はできなくなっちゃったけど、他に私にできること探したいと思って、相澤先生がいろいろ考えてくれたの。もう普通科への編入の手続きも始めてるんだ。三年からだし単位は大変だけど、いつかみんなとも関われる仕事に就きたいなって前向きに考えてるし、そのときはよろしくね。……だから、そんな暗い顔しないでよ」

 やがて、先生に用があると言ってあいつが教室からいなくなったあと、蛙吹が顔を覆って「何も言えなかったの」と悔しそうに肩を揺らした。その背中に、麗日が俯きながら手を添えた。
 ここにいる誰よりも悲しんで悔しがっているはずの人間が、ここにいる誰よりも明るかった。たぶんあいつにはもう、今更零す弱音も涙も残っていないのだろう。あの張り付いたような笑顔もただの出がらしだ。そう思えば、あいつの姿が目も当てられないほどに痛々しく見えてくる。
 あいつが出ていったあとの扉を、轟はじっと見つめていた。

「……おい」

 机の上に開いて置かれただけの問題集をその腕の下から引き抜けば、「え」と間抜けた声とともに、轟は俺へと視線を移す。

「お前、なんでアイツになんも言わねえ」

 俺の言葉に、轟は目を丸くした。二年間もクラスメイトをやっていたって、こいつが何を考えているかをその表情から読み取ることは難しかった。今だって、驚いているようにも、図星を突かれて狼狽しているようにも見える。

「なんでアイツになんも言わねえんだよ」

 もう一度さっきと同じ言葉を繰り返す俺の前で、轟はしばらく呆けたように薄く唇を開いていた。言葉を探しているのか、迷うみたいに視線が泳いで、ひどく悠長なものだと思った。腹が立って思わず舌を打ってしまう。

「……なんか言えや」
「あいつってなまえのことだよな」
「……ッそれ以外に誰がいンだよ」

 ようやく開かれた口から、ますます悠長な言葉が零れ落ちる。いよいよ嫌気がさして、丁寧に結ばれた轟のネクタイを引っ掴んで、ぐんと引いた。轟は俺の行動を知っていたかのようにぴくりとも動じず、俺から視線も逸らさなかった。ゆるやかに吊り上がるその目付きが冷静なのが、何よりも腹立たしい。

「なんで爆豪が俺に怒るんだ」
「……ハァ? てめェ――」
「あいつ自身のことなんだから、あいつ決めたことが全てだろ。俺はそこに口出しなんかできねえし、したくもねえ」
「なんでだよ。てめェが言わなきゃ誰が――」
「じゃあ訊くが、俺やお前が何か言ったところで、あいつのことを直せんのか。今起きてることをなかったことになんかできんのか。できもしねえくせに、無責任なままあいつの人生を変えるかもしれねえこと言えるわけねえだろ」

 低く、それでいて日本刀のように鋭く光る声だった。
 わらわらと苦笑しながら集まってきた瀬呂たちに肘を掴まれたが、俺も轟も、互い以外を視界に入れなかった。

「そんな権利ねえんじゃねえのか。俺にもお前にも」

 尋ねるような口調に反して、轟の声色はささくれ立っていた。攻撃性をはらんだ語気が、少なからずこいつの腹の中にも燻っている感情の種があるのだと知らせてくれる。こいつとの会話でひとつだけ納得できたことがあったとしたら、それだけだ。

「ちょっとちょっと、わかるけどさぁ、お前らまでピリピリすんなって」
「……うるせえ」

 瀬呂の腕を払いのけて、ようやく轟のネクタイから手を離した。間抜けに皺の寄ったそれを、轟は直すようすもなかった。自分が正しいと信じて疑わないような目付きに、やっぱり腹が立った。
 轟は「権利がない」なんて抜かしたが、それが一番間違っていると思う。だって、ただ一人あいつに何かを言っていい、あいつの背中を押していい人間がいるとしたらそれは轟しかいないはずなのだ。



 立ちのぼる、濡れたコンクリートの匂い。ランニングをしている間に降ってきた雨で、シャツの肩口はべっとりと濡れていた。ただでさえ雨の日は思うように動けなくて苛立ってしまうのに、どこへ行っても同じ匂いに鼻腔をくすぐらて、嫌気がさしてきた。
 いったん部屋に戻ろうと寮の入口にやって来たところで、あいつは何やら蹲っていた。テーブルか何かの家具と思しき大荷物を運び出しながらよたよたと歩くさまがあまりに間抜けで、思わず「おい」と声をかける。ゴトンと音を立ててそれを地面に置く、その乱暴さときたら。呆れそうになる。

「爆豪。もしかしてトレーニングしてきたの? 雨、けっこうしっかり降ってるのに」
「こっちのセリフだろ。何しとんだこんなトコで」

 寮の階段の前でこいつと話し込むのはひどく久しぶりだった。毎週、朝っぱらから頼んでもいないのにそこに座って俺を待っていた女の背中は、今は淡泊なグレーのブレザーに包まれている。

「なにって、明日普通科の棟に引っ越すから、その準備。ちょっとずつ途中の空き部屋に下ろしてるんだ」

 明るい声でそう言い、なぜか満足気な視線をテーブルに落とした。

「……どう考えても手ェ怪我してたやつがすることじゃねえだろ」
「さすがに棚とかは厳しいけど、これぐらいなら腕だけで支えられるから大丈夫だよ。もう固定具も取れたし」
「そういう問題じゃねーだろ。麗日にでも浮かせてもらえや」
「重いものは明日、業者の人にやってもらうから。それに普通科の子たちも手伝ってくれるって。お茶子ちゃんに気遣わせるのも悪いしね」

 すこしぎこちなく引き上がる口角を見て分かる。おそらく黙ってこんなことをしている一番の理由は、「気を遣わせたくない」という部分なのだろう。
 学校でも寮でも、こいつと麗日は飽きずに話をしていた。くだらないことも、そうでないことも。今更そんなことで尻込みをするような間柄には見えなかったぶん、こいつの苦い表情が不思議だ。
 おそらく、全部ハリボテなのだろうと思う。「もう決めたことだ」「前向きに考えている」などと言って気丈に振舞うのも、上擦ったみたいに明るい声を出そうとするのも、何もかもが。
 まだ傷も少ないテーブルと、女の額に貼り付いた前髪が、糸のような雨に打たれていた。いつかの朝に、にわか雨に降られて、慌てて三分の一ほど来たコースを走って戻った日のことを思い出した。こんなことに感傷的になるなんて、どうかしている。
 足元に置かれたテーブルを抱えると、女は小さく「え」と母音を漏らした。

「……んでどこだよ。その空き部屋って」



 これ以上は明日運べばいいか、と言ったみょうじの部屋はすでに、ひどく殺風景な空間になっていた。コップが二つしか置かれていない折り畳みの簡素なテーブルに、スマホが繋がった充電ケーブル。ベッドの枠もさっき、俺がドライバーでバラした。土台を失った布団と枕が、居心地悪そうに部屋の隅に畳まれている。
 雨のせいで、窓の外はいつもよりも早く夜に染まっていた。濡れた鼠のような鈍い色が、カーテンを取っ払って薄いレースだけになった窓から、じんわりと滲むように入り込んでいる。外から響き続ける雨の音と相まって、この部屋はひどく暗い。

「結局、本格的に手伝ってもらっちゃってごめん。ありがとう」
「……別に。どうせこの雨じゃ外出れねえしな」
「トレーニング代わりにはなったって?」
「てめーが言うな」

 みょうじが零した笑い声が綻んでいて、なぜだか安堵した。あれ以来、この女の笑みはどこか引き攣っていたからだ。

「えっと、お茶でも飲む? この部屋に来るクラスメイトも結局爆豪が最初で最後だし、記念に」

 いらねえ、と答えようとしたが、テーブルのうえに残されたコップが二つである理由を考えて思い留まった。この部屋に充満する感傷的な空気が、俺を小さく頷かせてしまう。
 並々と注がれたペットボトルの麦茶は、さっきまであったはずの冷蔵庫の冷気をわずかに纏ったままだ。

「そういえば、爆豪の部屋も見ないままだったな。どんななの?」
「フツーだわ」
「その、爆豪の言う『フツー』がどんなのかを聞いたのに」

 地べたに座った女はすこし呆れたように言ったが、そういえば、こいつの興味が俺へ差し向けられるのはひどく新鮮なことだと気付いた。
 窓の外の雨の音が沈黙を埋める。居たたまれなさは微塵も感じなかった。何かを話すわけでもなく、ただ並んでコンクリートの上を走っていただけのいくつもの朝の記憶が呼び起こされる。なんとなく「こうしていることが正しい」という確証もない感覚に浸って、俺はただ雨の音を聞いていた。
 ふいに部屋の呼び出しチャイムが鳴る。「なまえちゃん、いる?」という麗日の声を聞くやいなや、みょうじは「ごめん、布団の中隠れて」と小声で部屋の隅を指さした。

「は? んでだよ」
「いいから。爆豪だって私の部屋にいるの見られたら、いろいろ面倒じゃん」

 ぶわりと頭上にかけられた布団から、かすかに甘やかな匂いがする。すぐに剥ぎ取ってしまいたくなったが、がちゃりと背後でドアを開けた音が聞こえたあとだったので、さすがに憚られた。

「……明日出ていくってほんと?」

 ドア先で躊躇いがちな麗日の声が聞こえる。

「なんで言ってくれなかったの、私――」
「ごめん、隠したかったわけじゃなかったんだ。引っ越す日を言ったらみんな忙しいのに引っ越し手伝ってくれようとしちゃうと思って」
「そんなの当たり前じゃん。みんななまえちゃんのこと心配して――」
「うん。助けてほしいことがあったら、いつでも言うね」

 麗日の言葉はやさしくも重くこの部屋に積もって、それに対して、見えないけれど明確な壁を作ったのはみょうじのほうだった。その声に棘はなかったが、有無を言わせないような雰囲気があった。今まで肩を並べてきた相手に「助けてほしい」なんて言葉を言うのは、ひどく屈辱的なことだろう。
 「ありがとう」という明るい声を聞いていると、思わず指先に力が籠る。
 ――それ、どんな顔して言ってんだ。
 あいつが無理をしていないわけがないと、きっと誰もが知っている。ただ、決して綻びを見せないよう固く結ばれたその結び目だけは、どんどんきつくきつく締められて雁字搦めになっているようで、誰かが解かなければもう二度と解けなくなってしまうように思えた。轟がやらないなら、じゃあ一体、誰がそれを解いてやれるというのか。
 やがて、「またね」という声とともに、部屋に一人分の気配が戻ってくる。
 布団を払い除けると、女は後ろ手でドアを閉めたままドア先に突っ立っていた。呆然とした、なんの色彩も持たない表情が、いつだってバカみたいに笑っていたあいつとは別人のようでぞっとする。

「……おい」

 一体どんな言葉ならこいつは解けるのか、いくら考えたって分からなかった。そもそも、俺にはできないことだともわかっていたが。
 やっと俺のほうに視線を戻したみょうじの口角が、ぎこちなく蠢く。

「ムリヤリ笑っとんじゃねえ」

 制するような俺の言葉に、みょうじは硬直したように動きを止める。

「……いつまで続けんだ、それ」
「……何が?」

 すでにその三文字が感情を帯びて震えていることには、たぶん本人だって気付いているだろう。

「何がじゃねえ。見てらんねえんだよクソが」
「だって――」
「だって、何だよ」
「……怖いよ」

 水滴が落ちるようなその声を、あとすこし雨足が強ければ聞き逃してしまっていたかもしれない。

「……何がだよ。言わなきゃわかんねえだろうが」

 何も言わずにその体を腕の中に閉じ込めることだってできた。それが一番こいつが傷付かないでいられる方法かとも思ったが、あいにくそうはできなかった。
 女はしばらくの沈黙を吸ったあと、諦めたような表情で俺を見やって、秘密を囁くよりも静かに吐露した。

「……爆豪、怖いよ。私、このまま誰にも必要とされなくなっちゃうのかな。本当はこんなこと、いやでいやでしかたないよ。現実が信じられなくて、悔しいし悲しいし、なんで私なのって思うし、みんなが羨ましくてしかたない」

 もう一度「爆豪」と縋るように名前を呼ばれたころには、その声から凛とした響きはすっかりと抜け落ちてしまっていた。不安定で、指でなぞろうものならば、砂のように崩れ落ちてしまいそうなほど脆い。

「やめたくなんかないよ。このままずっと、みんなと肩並べて歩きたかった。……こんなこと考えても、もうどうにもならないってわかってるのに」

 歪んだ瞳からは堰を切ったように透明の粒が零れ出す。女はよろよろと数歩進んだあと、その場に膝を折って、子どものように座り込んだ。いくつもの嗚咽が薄暗い部屋に転がって、みるみるうちに余白を埋めていく。
 俺はその嗚咽を一つずつ拾ってやることも、蹴り飛ばすこともできないまま、目の前の女が想像よりもはるかに脆く、儚かった事実にただ息を呑む。

「……私が泣いたこと、誰にも言わないで」

 すぐに自分を取り繕うことに思考が及ぶところが、あまりにも愚かだと思った。

「……言うかよンなこと」
「ありがとう。ここにいたのが爆豪でよかった。やさしくもないし、酷くもないから」

 その言葉で、どうすればその結び目を解けるのかがすこしだけ見えたような気がしたのだ。轟にできなくて、俺ができること。こいつが誰かに求めていること。
 差し出すのが同情でも純粋な親切心でも、きっとこいつは自分から隙間を閉ざしてしまうのだろうとわかった。さっき麗日にそうしたみたいに。その感情の隙間にまで入り込むには、たぶん、もっと気が遠くなるような時間が必要だ。

「泣くな。意味ねえから」
「……うん」

 言っているそばからはらはらと透明の粒が滑り落ちていく頬を、両手で引き掴む。視線が絡む。互いが何かを考えてしまう前に、その唇に自分のそれを強く重ね合わせた。泣いているこいつに「意味がない」と言ったくせに、それよりももっと無意味な行為を、自分自身がしている。
 何度か繰り返すうちに、みょうじが縋るみたいに俺のシャツの裾を掴むから、たまらない気持ちになった。こんなバカらしいことに手を貸すつもりなんかなかった。けれど、今目の前にいる女のことをどうにかしてやらなければ、今度こそ取返しのつかないことになりそうな気がしたのだ。
 唇が離れたあと、やっとみょうじの涙は止まっていた。

「……後悔なんかすんじゃねえぞ」

 自分に言っているのか、みょうじに言っているのか、もうわからなかった。ただ、こっくりと頷いたみょうじの前髪を払い除けて、潤んだ瞳を見た瞬間に、どんな躊躇も嫌悪もばかばかしさも音もなく消え失せしまった。そんなものは最初から存在しないかのようだった。
 まるで、俺とあいつだけが二人、雨の檻に閉じ込められたような心地だった。
 薄暗い、何もない部屋の中、やっと肌を晒せるようになったばかりのその両の手のひらを掬う。ひびのように走る傷跡は、親指の腹でも感じられた。そっとなぞるように滑らせながら、白い首筋に顔を埋めるみたいにキスをした。
 俺だって他のやつと同じように、お前に同情している。庇護欲に似たものをそそられるし、逆に、これでもかと未練に打ちひしがれる姿を見て愚かだとも思う。
 ――けれどそれ以上に単純で、簡単で、バカらしくて鼻で笑いたくなるような願いがただ一つあって、それが今の俺を動かしていた。ただ、口に出すには、この部屋は暗すぎる。
 何度もその唇から零れる名前が紛れもなく俺のものであるのを聞いて、その度に安堵した。震える声を奪うみたいに何度もキスをした。
 まるで、重く鈍い灰色の雨に隠れるみたいに、俺とあいつは過ちを犯した。

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