どちらにせよ情けない朝Y

 仮眠室のドアをゆっくりと開けた。薄暗い部屋はしんとしていて、どこか寂しげな酸素に満ちている。ひとつだけ閉まったカーテンをそっと開けて、遠慮がちに「焦凍くん」と呼んだら、低くあいまいな声が返ってきた。

「……しっかり寝ちまってた」
「言っても、一時間半ぐらいしか経ってないよ」
「……一時間半『も』だ。悪い、大丈夫だったか」

 目を擦りながら上半身を起こす彼のそばに屈んで「うん。でもさっき病院から電話があって」と切り出すと、彼ははっとしたように顔を上げた。
 患者の目が覚めたこと、でも怪我の回復を待たなければならないこと、そして、もしかすると怪我が個性≠ノ影響しているかもしれないが、まだわからないこと――最後のことは彼に無駄な心配をかけるかもしれないと思ったので言うべきか迷ったが、焦凍くんは至極冷静に相槌を打っていた。

「わかった。伝えてくれてありがとな」
「うん。はやく無事に元に戻れるといいね」

 心からの言葉だった。ままならない体で活動に追われ、少しずつフラストレーションや疲弊を募らせていく二人を見ているのはつらかった。それなのに唯一事情を知っているはずの私が、なにもしてあげられずにいる。

「つうか、すげえよな」ふいに焦凍くんが零した声に、首を傾げる。
「――正直、誰も気付かねえとは思ってなかった」

 その声は、静かな部屋の中に自嘲気味に響いた。

「……だって、こんなことになってるなんて誰も考えないよ。周りにおかしいって思わせないぐらいちゃんとやれてる焦凍くんと爆豪がすごいんだよ」
「もちろん、これでいいんだってわかってはいるんだが……なんつうか、心のどっかで俺が俺じゃねえってこと、誰かにわかってもらいたかったのかもな。ガキみてえだろ」

 頭を抱えるように、焦凍くんは白茶けた髪をゆるく掴んだ。

「だからなまえ、お前が俺の名前を呼んでくれるたびに安心する。お前だけが本当の俺を知っててくれるなら、もうそれでいいかって思えるぐらい。なまえ、お前なら、あのとき病院に来たときに最初に会ったのがこの姿の俺でも、俺だってわかってくれたか」

 彼が彼のものじゃない声で、縋るように私の名前を呼んだ。その掠れた声は残酷にも、今この瞬間に一番思い出したくない光景を私に思い起こさせる。そのせいで、あらゆる言葉を忘れてしまった。その間に、タンクトップから伸びた彼の両腕が私の両腕を掴んだ。広い肩から、ブランケットがゆっくりと落ちる。

「……悪い、なまえ」

 固い指先が頬に触れて、私の顔をそっと擡げた。
 ふだんはおざなりに呼ぶだけの名前を、爆豪は薄暗い部屋のなかだけでは何度も、掠れた声で擦り切れるほど呼んだ。なにも考えたくないときに限って、爆豪はそれを見透かしたみたいに、頭のなかのことをぜんぶ攫っていくみたいなキスをする。
 ――頼むからその声で、私の名前を呼ばないでほしい。
 あまりにもひどすぎる願いが頭をよぎる。ちがうから思い出してしまう。声も顔も、肌の温度もおなじなのに、その奥にある絶対的な何かがちがっていた。焦凍くんと爆豪の境界があいまいになる。誰よりも焦凍くんに一番知られたくなかった私を知られてしまうような気がして、ぼんやりと気が遠くなっていく。
 泣きそうに揺らいでいる瞳に意識を奪われている間に、唇が重なった。自分がどんな表情をしているのか、想像するだけでおぞましかった。

「……なまえ」

 唇が離れたあと、焦凍くんの表情も歪んでいた。

「いま、俺とあいつ、どっちのこと考えてたんだ」

 その問いで、いくら取り繕ったってもう遅いのだと悟った。

「なんでそんなこと聞くの」

 付け焼刃だとしても否定をすればよかった。ぐらぐらと揺れるような脳内。出てくる言葉は逃げ道だけを探す、卑怯なものばかりだ。

「お前の表情が、俺には向けられてない気がして」
「だって、こんな――」
「こういうこと、爆豪ともしたことあんのか」

 赤いひとみはより一層、私の心の奥のほうまで抉りにくる。途切れ途切れになる呼吸を落ち着かせながら、私はほとんど俯くみたいに頷いた。
 焦凍くんは何も言わなかった。沈黙に染まった数秒がまるで永遠のように感じられる。この場所から消えていなくなれたらどんなに楽だっただろうか。なにもかも、ぜんぶ自分のせいなのに。

「こっち見てくれ」

 やがてぽつりと降ってきた彼の言葉に、私は顔を上げる。

「なまえ、俺を見てくれ」
「……うん」
「……お前のとなりにいるの、俺じゃだめか。俺じゃ埋められねえか。俺がお前にしてやれることがあるんだったら教えてくれ。なんでもいい」

 彼の手が私の右手を慈しむように掬った。たぶん、「そこ」に焦凍くんが触れたのは初めてのことだ。
 焦凍くんのまっすぐな目を見ると、いつも呼吸が詰まった。消化できる量以上のやさしさを与えられたみたいな気持ちになる。

「……そばにいさせてほしい。今までみたいに」

 絞り出すように答えれば、彼は目を丸くした。それが私を責めてはいないことだけはわかる。

「……え、それだけか」
「それだけ……? ううん、ぜんぜんそれだけじゃないよ」

 思わず否定する。こんなに重い願いはないと思っていたのに。

「お前はそれだけで満足だってことか」

 どこか不満そうに、彼は低い声で言う。そしてすこし躊躇うように視線を泳がせたあと、私に尋ねた。

「今でも爆豪のこと、なんとも思ってないって言えるか」

 喉元で言葉がつっかえる。そんな簡単な問いに即答できない自分がいるだなんて知りたくなかった。今まで爆豪が私にいかに丁重に触れていたのかも、知りたくなかった。同じ温度の肌を通したせいで、かえって知りたくなかったことを知ってしまった。
 爆豪のことを好きだとか愛しているとか、そういうふうに思ったことはないはずだ。けれど焦凍くんの言う通り、そこになんの感情もないと言えば、それは嘘になる。
 思ったままのことをそのままゆっくりと吐き出したとき、焦凍くんは「ああ」と納得したように頷いた。

「……なんとなくそんな気がしてた。べつに、お前のこととあいつのことを分かった気になってるわけじゃねえが」

 俯いたあと、何かが腹落ちしたようにこっくりと頷いた彼の表情がやけに脳裏に残った。

「……お前のこと困らせたいわけじゃねえんだ。――けど、だからって退いたりなんかしたくない。お前にちゃんと見てほしい」

 俺のこと、と彼は迷いのない声で付け足した。
 姿かたちの話ではなく、今まで見てきた彼と目の前にいる彼ははまったくの別人に見えた。
 焦凍くんに向けられるまっすぐな言葉を飲み込むには、私の感情は拗れすぎているらしい。今までろくに下も見ないでただ積み上げてきただけの感情がどんな色をしているか、私はよくわかっていない。今更確かめるだなんて、いくらなんでも怖すぎる。

「……うん」

 このままじゃここから動けない私を見透かしてか、焦凍くんはやんわりと私の背中を押した。

「このあとはもう大丈夫そうだし、お前は今日ぐらい早く帰って休んでくれ」
「なんで、私はなんにもしてないのに」
「人のこと言えねえけど、お前だってすぐに無茶しようとするだろ。何でもひとりでやろうとすんなよ」

 すこし眉を下げて笑う表情が、紛れもなく焦凍くんである証だった。いつだか彼が自分自身に向けて言っていた「ひとりで生きていけるわけねえのに」という言葉が脳内でこだました。



 いつも仕事を終えて家の近所の公園を通りかかると、そのころにはだいたい空は夜に染まっている。だからまだ夕暮れの気配を残したそこはひどく新鮮に見えて、無意味にブランコに座ってみたりした。
 仕事をしていない時間が苦手だった。何かをしていたほうが無駄なことを考えなくて済むからだ。目まぐるしく仕事をこなしている間は、誰かに必要にされていると思える。
 ブランコを揺するときい、と鳴るどこか物寂しい金属音に同情されているような気分になって、無意識にスマホを取り出した。
 ――私は今、誰からの連絡をほしがったんだろう。

 数時間のあと、爆豪から珍しく「先寝とけ」という連絡だけが入った。
 きっと遅くなるということだろうと思って先に布団に入ったものの、今日あったいろんなことがフラッシュバックして、いっこうに瞼の力が抜けなかった。
 水面を揺蕩うような浅い眠りと覚醒を繰り返しているうち、遠慮がちに玄関を開ける音で目が覚めた。うっすらと開いた瞼の隙間から、もう明け方であることがわかった。自分のせいで私が目を覚ましたと思われないように、いつかの朝みたいに、眠っているふりを続けた。
 そっと近付いてくる彼の気配。体が入れ替わってからはソファを寝床にしているはずの彼が、ぐっと片手をベッドに踏み込んでくるのがわかった。そっと髪が掻き分けられて、こめかみのあたりにやわらかな口付けが落とされる。何度か知らぬふりをしてきたその行為にとうとう耐えられなくなって、私は初めて瞼を開け、彼の手を掴んだ。

「……ねえ、それなに」

 薄暗闇の下、ふたつの色のひとみは変わらず私を見下ろしていた。そこに動揺はまったく滲んでいなくて、彼はただ低く掠れた声で答えるだけだった。

「……言ってわかんなら、最初からこんなトコにいねえ」

 爆豪はその日からしばらく、ほとんど眠るためだけに私の家に帰ってくるようになった。非番の日も、夜通しの任務が終わって朝方に事務所を出た日も、彼はどこかに立ち寄っているようで、まっすぐに私の家に帰ってくることはなかった。
 さすがに「何かあったの?」と尋ねてみたが、「てめーと違って忙しい」といつもの調子で躱されるだけだった。何かを隠したり、取り乱しているようすはなかったから、私はそれ以上何も言わなかったけれど、家に帰ったときにソファに図々しく横たわる図体が見えないのは、何かがぽっかりと抜け落ちたような感覚だった。

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