どちらにせよ情けない朝X

 通話を終えて画面が暗くなった焦凍くんのスマホを返そうと、デスクに歩み寄る。「爆豪」と声をかける直前で、彼の瞼が軽く伏せられているのに気付いた。
 「焦凍くん」とひそめた声で呼びかけると彼は音もなく瞼を開いたあとはっとして、申し訳なさそうに「わりい」と謝る。

「電話ありがとう、返すね。それと、ちょっと仮眠してきたら?」
「……いや、大丈夫だ」
「疲れてるように見えるけど」
「……そうかもな。すこしだけ」

 焦凍くんは観念したように、ため息混じりで肯定する。それは珍しいことだった。
 焦凍くんと爆豪の体が入れ替わってからしばらくが経ったけれど、彼らはそれに慣れる間も与えられないまま任務に追われている。彼は事故に遭った翌日の朝も、私が事務所に着くとトレーニング室から焼け焦げたようなにおいを纏いながら出てきた。

「使い勝手があまりにかけ離れた個性≠カゃなくて助かった。もし八百万のとかだったらさすがにどうしていいかわかんなかったしな」

 涼しい顔でそう言っていたが、ある日突然に別人の体と個性≠与えられて普段通りに振る舞うだなんて、常人には想像もつかないほどに神経がすり減る行為だろう。
 私は、出動要請の数と内容を横目で確認して、小声で彼に言った。

「ちょっとでもいいから休んできなよ。何かあったら声かけに行くし。私もフォローするから、任せて」
「……ありがとな。それなら、お前の言葉に甘えさせてもらう」

 うんと頷いて焦凍くんの背中を見送っていたら、彼はくるりと思い出したように私を向き直った。

「……つうかお前、さっき俺の名前呼んだろ。呼ばねえ約束じゃなかったのか」
「そこは許してよ。ちゃんと誰にも聞こえないように呼んだんだから」

 事故のことを事務所のみんなにも隠している手前、本当は焦凍くんのことは「爆豪」と呼ばなければならない約束だったのだ。けれど焦凍くんは私の身勝手を咎めたりしないで、そっと目じりだけをやわめた。



 夕方を過ぎたころ、管轄からの要請で出ていったばかりの爆豪が早々と事務所に戻ってきた。
 「おかえり、早かったね」と声をかけると「ただの引ったくり」と気怠そうな声で彼は応えて、ソファにどっかりと座る。すかさずサイドキックの子が「ショートさん」と寄ってくるのに対し、彼は「なんだ」とぎりぎり不機嫌には聞こえない絶妙な響きの相槌を打っていた。
 いつもの焦凍くんなら、帰ってきたあとそこには座らない。いつもの焦凍くんなら「なんだ」じゃなくて「どうした」と答える。小姑みたいに間違い探しをすればたくさん些細なポイントは出てくるが、とにもかくにも器用な爆豪が、焦凍くんとして危うい動きをすることは今のところ一度もなかった。
 そういうところはさすがだな、と感心しながら画面と向き合っていれば、気付けば目の前に本人がいた。

「おいなまえ、アイツは」
「ちょっと奥で休憩してるよ」
「は? コッチはてめェのフリして引ったくり追っかけてきたっつーのに」

 爆豪はひそめた声にめいっぱい怒りを込めて言った。

「仕方ないよ。それに疲れてるのは爆豪だって同じでしょ。交代で休んだら」
「誰に指図しとんだ」
「疲れてないなら無理にとは言わないけど」

 爆豪がいつもよりもっと早く時間に家を出て行っているのは知っていた。何かあってもなるべくいつもどおり活動できるようにと、トレーニング室で焦凍くんと一緒に個性≠馴染ませようとしていることも。
 私にできることと言えば、きっと自分たちだけではなかなか休もうとしない彼らに「休め」と言ってあげることとか、いつも爆豪がそうしてくれていたように、ちょっとした食事を用意することぐらいだ。

「……そういや、メシうまかった」

 今朝、キッチンに置いていたのを食べてくれたのだろうか、爆豪は世界で私にしか聞こえないぐらいの声でそう言った。

「や、あんなことぐらいしかできないし」

 いつだか爆豪に朝ごはんのお礼を言ったら「よく呑気にそんなこと言えんな」と呆れられたことを思い出して、爆豪だって一緒じゃん、と笑いそうになる。今は周りに人の目もあるせいでそんな軽口を言うのすら憚られて、視線だけをすっと落とした。

「――ショートさん、なまえさん」

 隙間のような短い沈黙に、サイドキックの彼の明るい声が割り入ってくる。

「ふたりとも昼食取れてなかったですよね。いま人員潤ってるんで、よかったら遅昼行ってきちゃってくださいよ」



 できれば焦凍くんとはあまり馴染みがないお店に入りたかったのに、あの寿司屋の前を通りかかると、たまたまいつもの店主に見つかってしまって、半ば強引に引き入れられてしまった。
 さっき何を食べたいか聞いたら「辛ェの」と言っていた爆豪は、案の定不服そうな顔でカウンターを睨んでいる。

「すごくおいしいんだから、そんな失礼な顔しないでよ」

 爆豪の背中を小突くと、「元からこの顔で悪かったなァ」というひそめた声が返ってきた。ふと笑い声が聞こえるので顔を上げると、店主がカウンターの中で白身魚に刃を入れながら

「仲睦まじいね。アンタら、とうとうほんとにくっ付いたんかい」

と言うので、私は「ちがいます」と声を上げるしかなかった。

「そうかい? いつもより気心知れた感じに見えたんだけどな、調子っぱずれなこと言ったか」

 ハハハ、と軽やかな笑い声を立てる店主に合わせて笑おうとしたが、いまいちうまく笑えなかった。爆豪はなにも言わなかった。
 話題を変えようと、重たい湯呑を持ち上げる。空中を白く色付ける湯気をふっとかるく吹き飛ばした。

「……さっき、お茶子ちゃんと話したんだ」
「麗日ァ? ……で?」

 空中を白く色付ける、分厚い湯気が視界を覆った。

「……もしもの話なんだけど、ほんとに例えばの話なんだけど、爆豪は、もし私がもう一回ヒーロー目指してみたいとか言ったら、やっぱりバカにするのかな」

 その四文字は、何年も口にしていなかった単語のように思えた。例えばの話だ、と予防線を張りまくったくせに唇は強張って、うまく紡げたかどうかわからない。でもちゃんと爆豪には届いているようで、横目で見た彼のひとみはみるみる丸くなっていく。短く呑まれた息のあと、罵声を身構えながら待っていれば、思いのほか彼が表情を引き締めて、真面目な答えをくれようとするのがわかった。

「……今更なに言っとんだテメー」
「……まあ今更だよね」
「違え。なに今更アホなこと聞いとんだ、っつってんだよ。俺は何回もテメーにそうなればいいって言ってんだろうが」

 今度は私が目を丸くする番だった。爆豪はそれを見て煩わしそうに顔を顰める。
 私の記憶が正しければだけれど、「そうなればいい」なんて言われたのははじめてだ。だとしたら、爆豪の言葉はわかりにくすぎる。『俺んトコ来ればいいだろ』とか『あそこにいるてめェが気に入らねェ』とか、あの言葉たちもぜんぶ、そういう意味を孕んでいたのだろうか。

「……ッんで分かってねーカオなんだよ」
「申し訳ないけど、わかるわけないよ。あんな言い方じゃ」
「……は? やんのかてめェ」
「やんないよ。でも、ありがとう。私のことなんか考えてくれて」

 湯呑にたゆたう液体に視線を落とせば、爆豪の苛烈なそれもそろそろと戻っていくのがわかった。
 しばらく黙ったままでいると「お、もう喧嘩か?」と店主が笑いながらやってきて、私と爆豪の前にとんとんと小気味よいリズムで寿司下駄を置いた。「腹いっぱい食って仲直りしな」と店主が言うとおり、寿司下駄のうえには気後れしてしまいそうな量の寿司が所狭しと乗っていた。

「……てめェこれ食えんのかよ」
「夕方まで使い物にならないかも」

 爆豪はハ、と鼻で笑った。
 しずかに寿司を食べ進める最中、ふいに彼は「……逃げんなよ」と私に言った。

「テメーはいっぺん自分のことちゃんと考えろ。あとすぐ自分『なんか』とかこんなこと『しか』とか言うのもやめろ。ブン殴りたくなる」

 赤だしの味噌汁を見つめながらやけに神妙な声で彼が言うので、私は寿司を差し置いてその言葉を咀嚼しなければならなかった。
 今まで私が考えてきたことといえば一つだけだ。ぜんぶの根っこにあったのは、「どうすれば焦凍くんのそばにいられるか」という重たい感情だった。そういう意味で言えば、ろくに自分のことを考えてこなかったのかもしれない。私が本当はどうしたいのかとか、本当はどうしたかったのかとか、本当に今が幸せなのかどうかなんて、考えも疑いもしなかった。
 ――それもこれも爆豪が、何度も私に問うからだ。
 ずっと頭上にうっすらとかかっていた雲が晴れてしまう気がして、急に怖くなった。



 事務所に戻ってすぐに、爆豪は巡回に出て行った。きっと他人の事務所でじっとしているのも落ち着かないのだろう。
 それからしばらく経ったころ、聞き覚えのある名前の病院から電話がかかってきた。焦凍くんはまだ仮眠室で休んでいたので、電話の向こうの医者に事情を把握していることを説明すると、一本の光が射したような声で、医者は言った。

『今朝、意識が戻ったんですよ。お二人を入れ替えてしまった患者さんの』
「ということは、元に戻せるんですね」

 上擦りそうな声を必死に抑えて尋ねるが、医者は申し訳なさそうに言い澱んだ。

『ああ、いや。まだ意識も朦朧としていて怪我の固定具も取れないぐらいなので、すぐに状況を説明してハイ元に戻してあげてね、というわけにはいかないんですけどね。お二人には毎日病院に来てもらっているので、まず状況のご報告をと思いまして』
「……そういうことですか。わかりました。伝えておきます」

 お願いしますね、と柔い声で医者は頷いた。考えなしとはわかっていながらも、私は電話を切らずに「あの」と呼びかける。

「……その方が個性≠使えるようになるまで回復するには、どのぐらいかかるんでしょうか」
『そればかりはなんともですね。個性≠使うことでどの程度の負担がかかるものかは本人にヒアリングのうえ判断しますが、登録によると、触れて発動する個性≠フようなので、医者としては腕が完治するまで使わせたくないというのが希望です』
「そうですか……」

 第一線で活躍しているヒーローを相手にそんな悠長なことは言っていられないということも理解しているからか、苦い口調で医者は紡いだ。

『それに、この事故で個性≠ノ支障が出ていないとはまだわからないので』

 続けられたその言葉を聞いて、私は言葉に詰まる。

『もし怪我の影響で以前と同じように使用できなくなっていた場合は、同じような個性≠持っている方を探すところから始めなければなりません』
「……そんな」
『と言っても、まだ心配する時間じゃないですよ。経過もいいし、きっとすぐによくなるでしょう』

 切羽詰まった声を察してか、医者は私を安心させるような笑声で言った。
 それじゃあ、と今度こそ電話を切ろうとしたとき、医者は躊躇交じりに私を呼び止めた。

『あの、ちがったら申し訳ないんだけど……君、うちに通ってたみょうじさんじゃないかな。実はこないだ、彼らと一緒にいるのをたまたま院で見かけて』

 はっとして言葉に詰まる。どおりで、どこかで聞いたことのある声だと思ったはずだ。

「あ、ええと……そう、です」
『はは、とりあえず、元気にしているようでよかった。変わりはないかな』

 取り繕うひまもなく正直に答えてしまった。医者はそれを気に留めるようすもなくやさしく問いかけてくるので、にわかに手に汗が滲む。

「……はい、元気です。でもあの、すみません」
『ああ、しばらくうちに来てないことなら謝ったりしなくていいよ。そりゃ担当医としては心配だけど、病院に通う必要がないということは本来いいことだからね。でも、定検的な検査は大事だし』
「……はい、すみません」
『それに君、あの一件のあと、再検査結果も聞かないまま帰っちゃったでしょ。電話もしたんだけど繋がらないし』

 私が後ろめたさに縮こまる理由を、医者はあっさりとした声で言い当てた。数か月前、私が逃げ出すようにその場をあとにしたのを、医者は責める気配すら見せなかった。彼の言葉を聞かずに踵を返したことは、ずっと頭の片隅に引っ掛かっていた。
 電話をぎゅっと握りしめて黙っている私の姿が見えているかのように、電話の向こうの中年の男は、ひどくあたたかく諭すような声で言った。

『……本当のことを知るのは怖いことだって、痛いぐらいわかるよ。だから君の心の準備ができてからでいい。不安なら、誰かと一緒に来たっていい。こちらはいつでも待ってるからね』

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