理性と思考の要らない時間U

 今日あったことを思い返してみても、目が覚めてから思い出す夢のように、ぼんやりとした靄のような映像しか出てこない。
 たしかに私はきっちり仕事を終えて事務所を出てきたはずだが、あのあと事務所で誰とどんな話をしたのかも細かく思い出せないし、焦凍くんにどんな顔や態度で接したのかについては微塵も思い出せない。
 私が唯一理解できたのは、ちょうど事務所を出たころに電話をかけてきた爆豪の「メシ」という二文字だけだった。それが今の頭で処理できる限界の情報量だった。
 普段ならその圧倒的な言葉足らずに対して「はい?」と呆れ交じりに聞き返していただろうけれど、今日ばかりはその粗雑さがありがたかった。

「……テメーそれ」
「え、なに?」

 爆豪が皿の上の料理から私に視線を映して何やら怪訝な顔になるので、やっと顔を上げた。
 この中華料理屋は家からも近いし爆豪も気に入っているので何度か来たことがある。
 いつもの爆豪なら早々に食べ終えて、あとは暇そうに雑誌や店の隅のテレビを見ながら私を待っているだけのくせに、珍しく今日は食の進みが遅いように見える。

「それ、前も頼んで『辛すぎて食えねー』つってアホみてぇに泣いとっただろ」
「そうだっけ」

 自分の前の皿を見る。鮮烈な色の餡に絡んだ豆腐はたしかに辛そうだが、見た目ほどではない。
 もしくは、信じたくないけれど味覚までぼんやりしているかのどちらかだ。

「なんか全然食べられるけどな。味付け優しい日なのかな」
「ハ、いつも通りだわ店のせいにすんな。バカんなってんのはテメーの口のほうだろ」
「覚えてたんなら頼むとき止めてよ」
「ムリだったら俺が食えば済むだろーが」

 当たり前のことみたいに爆豪はそう言って、餃子を口に放り込んだ。
 たしかに彼はいつもそうしている。曲がりなりにもほとんど毎日食事をともにしていると、こういう些細なところがだんだんとすり合わせられていく。
 じゃあたくさん食べればいい、と思って四川麻婆の皿を爆豪のほうに寄せる。代わりに彼はこちらへチャーハンの皿を寄せて、目で「食え」と言う。そろそろと取り皿に手を伸ばしたけれど、横取りするみたく爆豪の手に先を越された。
 あ、と思っているあいだに爆豪は私の前に取り分けたチャーハンと水を継ぎ足したコップをとんとんと置いていき、最後にはっと浅いため息をついた。
 ――すごく睨まれている。それも無言で。
 近所の人しか来ないような小ぢんまりとした店の中には、私と爆豪しか客はいない。私たちが黙れば、あとは部屋の隅のテレビが申し訳程度のボリュームで垂れ流しているバラエティ番組の笑い声だけが空間を埋める。

「つーかあの記事、なに何枚も撮らせとんだ」
「……見たんだ」
「ッんであんなあからさまな角度でカメラ向けられて気付かねェんだよ」
「ふつう気付かないよ、爆豪と一緒にしないで。ていうか、べつに撮られて困るようなこと……ないし」

 説教をされているような気分になる。ムキになっていろいろ否定を並べているその途中で焦凍くんのいろんな言葉を思い出して、ぽっかりと抜け落ちたみたいに変な間が空いてしまった。
 そのせいで、爆豪にはなにかを確信させてしまったかもしれない。

「ンなことよりテメー、なんかあっただろ」

 刺すような爆豪の問いかけに、固まってしまった。

「――轟と」

 たぶんはじめから爆豪はこのことを言いたかったのだ。あのくだらない記事のことなんかじゃなく。
 彼の問いは思いの外ずっしりしていて、たぶん適当に流せはしないだろう。「ああ、爆豪のこういうところが厄介なんだ」と皿の上に視線を置いたまま思う。
 爆豪が名指しで指摘するぐらいなのだから、どうせ隠したって意味はない。

「なんかあったっていうか……」
「アイツがなんつった」

 ひどく平坦な声で爆豪は尋ねる。
 その声のトーンからしても大して興味もないはずなのだが、おそらく彼のほうからここまで踏み込んできたのははじめてだ。ふだんの彼なら会話の最中に焦凍くんの影がちらついた時点で「俺には関係ねえ、だろ」と自分からしゅっと線を引いて遠ざかっていくのに。
 ちょっと驚いて、それから躊躇して、けれど自分の頭だけでは処理しきれずに渦巻いている言葉を、わずかに震える声で吐き出した。

「……爆豪は友達以上ってなんだと思う」

 爆豪は私の言葉を聞いて、生理的にそうなったみたいに眉をぎゅっと寄せる。
 前に焦凍くんと鉢合わせしたときも爆豪に「ヒデェ顔」と言われたぐらいだし、今の私の顔もきっとひどいものなのだろう。さすがの私だってそんな目で見られたらうっかり傷付きそうになるからすこしぐらいは隠してほしいが、今回ばかりは私だって自分のことを気味が悪いと思う。

「……ンなこと言われたんかよ」

 わかんない、とあいまいな肯定をするだけで果てしない体力を使う。体温ですら一度上がってしまいそうだ。

「……どー考えても俺に聞くことじゃねェだろアホか」
「聞いてきたの爆豪なのに」
「つーか今更なに憂うフリとかしとんだ気色悪ィ。テメーからしたら願ったり叶ったりだろ。アイツのことしか見てねぇクセに」
「そんなことない」
「ンなことあんだよ」

 往生際が悪い、とでも言わんばかりに爆豪はふたつの赤い眼で私を追い詰めた。
 答えを探している最中に、私と爆豪の間にドンと新しい皿が置かれる。エビチリなんて頼んだっけ、と尋ねる前に爆豪がぴしゃりと「俺が頼んだ」と言い捨てた。
 うっすらと途切れ途切れに上っていく湯気で、爆豪の顔がぼやける。

「爆豪って、私より私のこと知ってるみたいに話すよね」
「テメーがいい加減すぎるだけだろが。なんだァ? 喧嘩売ってんのか」
「売ってないよ。たまにだけど、本当に全部見透かされているような気がして怖いだけ」
「……わかるわけねーだろ、テメーのややこしい心情なんざ。不毛すぎて死んでも分かりたくねェ」

 不毛という言葉を使っている時点で、たぶんほとんど分かられていると思うのだ。
 ――もし今まで積み上げてきた時間がなかったら。もし轟焦凍という人間と知り合ったのがつい先月のことで、恋に落ちたのもついこのあいだのことだったら。もし、ただ彼を好きだという純度の高い感情だけがここにあったなら――焦凍くんにあんな言葉を言われた瞬間に、すぐに「私もそう思う、今の関係じゃ物足りない」と返事ができたのかもしれない。いらない思案なんてひとつもしないまま、すこしずつ互いの距離を縮められたのかもしれない。
 でも、もう遅すぎる。
 彼の特別になんかならなくていい、そばにいられるだけでいい。それがいちばんいい。そんな卑怯で臆病な思いのまま積み上げてきたものが、こんなにも惜しくなるなんて知らなかったから。

「爆豪にはわからないかもしれないけど、今まであったものが壊れてなくなって二度と元に戻らないかもしれないと思ったら、怖くなるんだよ。人間って」
「俺が人間じゃねェみたいな言い方すんな」
「ごもっとも」
「けど、だったらもう終わりだろ」
「え?」
「アイツは壊そうとしてんだろ。お前がいくら現状維持望んでたってアイツはそう思ってねーんだから呑気なカオしてぶち壊そうとしてくるだけだ。なんも噛み合ってねー。だったらもう終わりだろ。やめちまえ」

 ざっくりといらないものを切り捨てるような調子だった。極端なようにも冷たいようにも聞こえるが、爆豪の言っていることは正しいと思った。
 多かれ少なかれ、私と焦凍くんの関係は変わってしまう。きっとこのままではいられない。見ないふりをしている現実も近いうちに飲み下さなければいけない。
 やっと私が「そうだね」と小さく呟いたのを聞いて、爆豪はやっと目線を逃がした。
 いいように考えすぎかもしれないが、今のもきっと爆豪のざらついたやさしさだ。たぶんこのまま現実から逃げ続けるほうが、私も彼も余計に傷付くと知っていてくれているのかもしれない。

 帰り道、私のアパートが見えてきたころ、爆豪は「なあ」と切り出した。

「撮られたのがアイツとじゃなくて俺とだったら、テメーはなんて説明してた」

 脈絡のない質問だったので、思わず彼のほうを見る。爆豪は前を見たまま、Tシャツの袖を夜風に遊ばせているだけだ。

「……難しい」
「悩むほど選択肢あっかよ」
「もちろん友達じゃないわけじゃないけど、ぴったり正解ですって感じもしないんだよね。かと言って恋人まで行き過ぎると完全に不正解だし。やっぱり居候かな」
「じゃあ俺がイソーローやめたら」

 今夜の爆豪はなんだかよくしゃべるな、と思う。起きてもいない「もしも」の話をするところもなんだか爆豪らしくない。
 コンビニの袋をぶら下げた爆豪の歩調は緩慢だ。時折ふらっと私から遠のいて、スニーカーの底をざり、とコンクリートで削るところを横目で見やる。
 家までの道のりを並んで歩くこの男がなんなのかなんて、たぶん世界中で私がいちばん知りたがっている。

「……ただの爆豪かな」

 けっして適当に答えたわけではなかったが、それ以外に答えが見つからなかった。
 立ち止まった爆豪とやっと視線が通う。まだつめたい夜の風が、彼の頬を撫でるのが見えた。

「……あっそ。べつに俺もテメーのこと友達と思ってねェわ」
「なんでキレてんの。べつに「ただの爆豪」って悪い意味で言ったんじゃないよ」
「キレてねェだろうが」
「え?」
「怒ってねえ」

 証明するみたいに赤いひとみがまっすぐにこちらを見て言ったので、すぐに納得する。たしかに爆豪はぜんぜん怒っていなかった。
 だらりと下に垂れていた私の手は爆豪のそれに掴まれて、引かれるままゆっくりと前に進んでゆく。
 そんなことまでしなくても怒っていないことぐらいもうわかったのに。むしろ上機嫌なふうにすら見える。目の前の生き物の感情があまりにも不可解すぎて、犬の散歩をするみたいに半歩前を歩く爆豪の背中を、ただ見ているしかできなかった。

「つーかもう、俺んトコ来ればいいだろ」

 コンクリートとスニーカーが擦れるような物寂しい足音に交じって、爆豪は背中ごしに言った。

「……ヘッドハンティング?」
「似たようなモンだ」

 特になにかに秀でているわけでもない人間に爆豪勝己がそんな話題を振っていることがにわかには信じられなかった。今夜の彼はどこかおかしい。
 もし私がその勧誘を本気にしたら、一体どうするつもりなんだろう。「テメーなんかいらんわクソボケが」とか言って声を荒げるか――もしくは、彼のあのざらついたやさしさが同情心を呼んで、仕方なしに聞き入れてくれるか――そのどちらかだ。
 そこまで考えてはっとする。前にもこんなことがあった。同じようなことを思った瞬間があったのだ。

「爆豪、その冗談さ、もしかして前にも言わなかった?」
「……前っていつだよ」
「高校の、たぶん卒業ぐらいのときだったかな」

 薄れた記憶がぼんやりと蘇る。グレーの制服に、今と変わらない色褪せた髪。
 あのときよりもいくらか大人びた目元で爆豪はこっちを振り向いて、私をじっと真夏の夜のような温度で見つめた。繋がった彼の手にきゅっと力が籠るのがわかる。

「……ちがった?」
「……知るかよ。そうだったんならそうなんだろ」

 私より幾倍も適当な返事をして、爆豪の視線はふいと飛んでいってしまった。
 それでも解けない手のひらと、おそらく私に合わせて緩慢な足取りは、ときどき私を悩ませていることを彼は知っているのだろうか。



 店の奥の席でぼんやりとメニューを眺めていたら、ふいに「ごめーん遅くなって」とやわらかな声がした。
 お茶子ちゃんもさっきまで仕事だったと言って、まだコスチュームを着けていた痕がうっすら残る前髪を指で梳かしながら私の向かいの席に座る。
 私の顔を見るやいなや、何かを堪えるみたくぎゅっと唇を噛んで

「くっそー……聞きたいこと山ほどあってウズウズするけど、まずはゴハン! 頼も!」

とメニューを取り出した。
 乾杯をして、テーブルのうえにオーダーしたメニューがひととおり揃ったころ、案の定お茶子ちゃんは爛々とした目で切り出した。

「で、そろそろ詳しい話を聞かせてもらおうか」
「……絶対聞かれると思った」
「だって私、あの轟くんとの記事見てから気が気じゃなかったもん! ほんとは早くいろいろ聞きたかったんやけどさ、今日直接話したほうが絶対楽しいと思って我慢してた」

 お茶子ちゃんは照れ笑いしながら頭のうしろを撫でる。
 かわいいな、と思うけれど、きっと私はお茶子ちゃんの期待に応えられるような話はできない。
 無理しがちだった焦凍くんが最近はすこし頼ってくれるようになった気がすること、あの写真はプライベートで遊んでいたときのものと、一緒に食事を作る約束をしていた日のものであること。
 調子のいいお茶子ちゃんに乗せられて答えてしまったけれど、最後に「でも、それだけだからね」と重要な一文を付け加えておく。
 相槌を打つたびにどんどんテーブルに前のめりになっていったお茶子ちゃんは「ほぉー」と意味深な声を漏らしながら背もたれに帰っていくけれど、私は今になって気恥ずかしくなってきて、いつもより早いペースでワインを口に運んだ。

「……これ以上なんにもおもしろい話は出ないけど、満足した?」
「うん、安心した!」
「安心?」
「そうそう。私、いっつもなまえちゃんのこと考えとるからさ」
「……え、なに急に。口説かれてる?」

 わざと茶化すと、お茶子ちゃんは横髪を揺らしながら弾むように笑った。

「轟くんがなまえちゃんのそばにいてくれてよかったって、今話聞いてて思ったの。それに、きっと轟くんのほうも同じように思っとるんやろうなぁって思うと、あったかいお風呂に浸かったみたいに安心しちゃって。ふたりがくっ付いてほしいとかおせっかいなこと考えてるわけじゃないんだけどさ、やっぱり嬉しいよ。……私はあのときも、なまえちゃんになんもしてあげれんかったから」

 あたたかかったお茶子ちゃんの笑顔が、すこしだけ寂しさを帯びる。
 私は反射的に首を横に振って「そんなことないよ」と彼女の手を掴んでいた。
 お茶子ちゃんはすぐに「ありがとね」と笑顔を作り直した。

「ちなみになまえちゃんのこと気にかけてるの、私だけじゃないからね! こないだ梅雨ちゃんと会ったんだけど、梅雨ちゃんもなまえちゃんと久しぶりに会いたいって」
「ほんと? 私も久しぶりに――」
「あっそうや、思い出した!」

 お茶子ちゃんが急に大きな声を上げるので、思わず肩がびくついてしまった。

「爆豪くんも!」
「……爆豪が?」
「うん。前に電話で話したときにさ、爆豪くんと仲良かったやんなって言ったらなまえちゃんはピンと来てなかったでしょ? 実は私もあのあと、たしかにふたりが喋ってるとことかもそんなに見かけたことなかったなぁってなって、なんで仲良いと思ったんやろーってぼんやり考えてたんだけどさ」

 お茶子ちゃんが上のほうで彷徨わせていた視線を私に戻す。丸いひとみの奥に反射したテーブルのうえのキャンドルが、流れ星のように揺らめいていた。

「ホラ、去年の夏の終わりにプチ同窓会やったでしょ? あのとき、なまえちゃんも絶対呼べって釘刺してきたのが爆豪くんだったからだ」

 ――同窓会、同窓会。記憶を手繰り寄せて、あの日は爆豪と「久しぶり」という言葉をたしかに交わしたのを思い出す。雄英を卒業してからしばらくまともには会っていなかったはずなのに、なんで。
 すっきりしたぁ、と笑うお茶子ちゃんのそばで、私はそれを茫然として聞いていた。

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