その光沢は危険U
そそくさと扉のほうまで向かってくれた後輩がインターホンの通話ボタンを押すと、せまい画面いっぱいに人が映っていた。彼らが告げた社名は、ついさっき私もスマホの中に見たものだ。
「うわあ、もうネットニュースの件でメディアが何社か来てますよ。ショートさん、どうします」
「俺が出れば早いんだよな」
「まあそうなんでしょうけど、発言内容の辻褄合わせたりしてからのほうがいいんじゃないですか?」
「いるか? べつに合わせるほどの辻褄もねぇだろ」
「えぇ、でも……」
お構いなしに部屋を出ていく焦凍くんの背中を見つめて、彼は困ったように視線を迷わせる。助けを求めるように私に一瞥するけれど、私はあいまいに頷きだけを返した。
彼の気持ちはわかる。下手に言葉を飾り立てたりしない焦凍くんのことだから、想像もつかないようなことを言い出さないか気が気じゃないのだろう。
けれど幸い、私と焦凍くんは本当に「友人」で、それ以上でもそれ以下でもない。焦凍くんの言葉どおり、合わせなきゃいけないような辻褄なんてものは最初から存在しない。
「心配すんな」
部屋のドアに手をかけた焦凍くんが、こちらを振り向いてそう言う。目線で「わかった」と合図をしたら、彼はすこしだけ笑った。
焦凍くんがロビーで応答をしているあいだ、私は落ち着かずにずっとデスクの傍らに立ち尽くしていた。なぜだか後輩までその隣で「ショートさん、本当に大丈夫ですかね」と不安そうにドアの方向を見つめている。
「大丈夫でしょ。雄英、ああいう受け答えの練習とかあったし。ショートくんももうプロなんだし」
ああいう分野のことを彼が得意としているとはお世辞にも言えないが、きっと私が見ていた彼と今の彼はちがう。
「え、雄英?」
「え?」素っ頓狂な声を彼が上げるので、思わず私が聞き返してしまう。
「いや、詳しそうに話すからなんで知ってるのかなって思って。こんなときになんなんですけど……もしかしてなまえさんも雄英卒だったんですか?」
「……そうだけど、今更?」
「いやいや! ヒーロー科だったとは聞いてたんですけど、まさか雄英のだとは思わないですよ!」
「……まあ、だからってべつに何も」
後輩が目を丸くしたまま私をまじまじと見つめるので、なんだかばつが悪くなって俯いた。
世間で「雄英出身だ」とだけ言えば、いい意味でも悪い意味でも一目置かれてしまう。そんなことは身をもって知っていた。
ましてや、私のような環境に身を置いているひとはごく稀だろうし。
「じゃあ、なんでなまえさんはヒーローやらないんですか?」
その問いは至極、無邪気な声で紡がれた。
彼のひとみの奥に害意がないのはわかっている。そもそも、他人に悪気交じりになにかを言うような子じゃないということも。
それなのに、見えない厚いフィルターをかけたかのように、目の前に立つ彼の存在は急激に遠のいたように感じられて――いや、他の誰でもない私が、彼のことを遠ざけようとしてしまっている。
やおら部屋の隅に歩いていってコーヒーメーカーのスイッチを入れると、風情のないやかましい低温が私の周りを満たした。ちょっと安心する。
「私、今の仕事好きなんだけどな」
「いや、もちろんそういうふうに見えますよ? でもせっかく雄英に行ける実力があったのに――」
彼はそのあとに続く言葉をはっとして飲み込んだあと「……あ、いや、すみません」と口を噤んだ。
「なんで謝るの。べつにヒーローから心変わりする変な人がひとりぐらいいてもいいじゃん」
なんでもないことのように笑いながら、淡い湯気が立ちのぼるマグカップをひとつ彼に渡した。彼は「ありがとうございます」とそれを受け取ったあとは、続けて私になにかを尋ねてくることはなかった。
きっと彼が求めていた答えとは絶妙に外れている言葉だっただろう。私の声は場違いなほどに明るかったが、バカだとか能天気だとか思われたってべつによかった。
マグカップのなかのコーヒーが残り二、三口ほどになったころ、やっと焦凍くんは事務所に帰ってきた。
ふたりで駆け寄って「大丈夫だった?」と口々に聞くと焦凍くんはすこし首を傾げる。
てっきり「まあ、大丈夫だろ」と淡々とした返答が来ると思っていたのに、あろうことか
「わかんねぇ。けど、お前には先に謝っとく。わりい」
とだけ言ってばつが悪そうに視線を斜め下に逃がしたあと、自室に入っていってしまった。
彼が人前で機嫌を損なうことなんて、ここしばらくはめっきりなかった。どこか昔の彼をも連想させるさっきのようすが気になってしかたなくて、仕事が手につかない。どこか投げやりにも聞こえる低い声もさっきからずっと鼓膜に張り付いている。
焦凍くんが部屋から出てこないまま時計は九時を回った。
ふいに「あっ、なまえさん!」と後輩がリモコン片手に声を上げる。
徐々に上がるボリューム。テレビの中には今朝のだと思われる映像が流れていて、ちょうど焦凍くんが向けられたマイクに向かってやや不貞腐れたような顔で口を開いたところだった。
『……どういう意味ですか』
『ですから、かねてよりお知り合いだったということですが、お互いに特別な感情を抱かれることはなかったのでしょうか?』
『ありません』
『今まで一度たりとも、お互いに、なかったというでしょうか?』
『だから、ないと思います』
『と思います、とはいささか含みがありますが?』
『……はあ』
明らかな誘導尋問に、焦凍くんが半ば辟易したように目を伏せる。数秒のあと瞼をひらいた彼の顔付きはわずかに変わっていて、けっして気が長いとはいえない彼が自分のなかで何かをやめたのがわかる。
『俺がどう言えば納得されるんですか。特別な感情があります、が正解ならそう言います』
思わず「えっ」と呻くような声が出る。となりにいた後輩も頭を抱えていた。
ふいに物音がして、ようやく焦凍くんが部屋から出てくる。
シャッターの光でちかちかと点滅するテレビに視線を向けた彼が、数秒黙って現実を受け入れたあと、深いため息をついてから言った。
「……わりい。何回か否定したんだが同じことばっか聞いてくるから、つい苛ついちまった」
「ショートさん、最後イライラしてめちゃめちゃ投げやりだったじゃないですか。意味ありげに濁したみたいになってるし」
「濁したつもりはなかったんだが」
「まあでも……結果的によかったんじゃないですかね。ムリに認めさせられたわけでもないし、あの記者だってちょっとしつこかったですよね。あー、やっぱり、ネット民も記者叩くほうにカロリー割いてる」
後輩はしばらくスマホの画面を親指で送ったあと、「大丈夫! すぐ収まりますって!」と私と焦凍くんの肩を叩いて巡回に出ていった。
にわかに静まり返る空間。テレビの中の話題も別のものに移り変わって、朝からぴんと張りつめていた気持ちもすこしだけ緩んだ気がした。
ゆっくりと焦凍くんの視線が泳いで、私のところで止まる。
「なんでだ」と私に問いかけていた丸いひとみを思い出して、息がつまりそうになる。
「……なまえ」
彼が遠慮がちに私を呼んだ。
引き結んだその唇からは、なにか重大なことばが零れてしまうような気配がして無性に逃げたくなったのに、焦凍くんのまっすぐな目が私を離さない。
「今、嘘ついちまったような気分なんだ」
「え?」
しずかな図書館でようやく見つけた本の背表紙にゆっくりと指をかけるみたいに、彼はいろいろな単語のなかからひとつずつを選びながら話し始めた。
「……違和感つーか、なんかすげえ変な感じだった。お前のことただの友達だって言うのが」
じんわりと、額に手に、汗が滲む。
焦凍くんの声は誠実で緩慢で、鼓膜に滲むようだった。
「こないだ、お前が他のやつのこと好きじゃなくてよかったって言っただろ。あれから、それがなんでだか考えてた。たぶん俺は、お前と友達でいるだけじゃ不満なんだ」
――彼の隣に描かれた小さな円のなかから出ようとしなければ、永遠に彼の傍にいられる。今以上のなにかを望まなければいいだけの話だったのだ。
色のちがう両の眼を見る。そこに嘘がないのがわかってしまう。
何年も押し殺して奥底に隠していた感情に手を突っ込まれて、むりやりに呼び起こされるような感覚だ。よりによって彼自身に。
「お前とそれ以上になりてえって思ってる」
言葉を選んでいる気配はいつの間にか消えていた。焦凍くんが持っているそのままの言葉だ。
私は動けなかった。彼が口を開く前に無性に逃げたくなった意味がわかった。
「……ご、ごめん、うまく言葉が」
掠れた声で途切れ途切れに吐き出すと、焦凍くんが子どもを安心させるときみたいに口角をわずかに持ち上げる。首を横に振ると、繊細な横髪が揺れた。
「いい。俺が言っておきたかっただけだ。すぐにお前に答えてほしいとか思ってるわけじゃない。ただ今は、知っといてくれればそれでいい」
撫でるような声で焦凍くんはそう言うと、いつものように「行ってくる。今日も頼むな」と決まったせりふを残して、事務所を出ていった。
私はへたり込むようにして席についた。
パソコンの電源を入れても、キーボードに乗せた指が動かない。魂を抜き取られた心地だ。
しばらくしてようやく冷静になった頭で、どうしてなんの言葉も捻り出せなかったのかと煩悶する。
いま焦凍くんが差し出したものは、ずっと私が心の奥で望んでいたものじゃなかったのか。ほしいと思いながら、何度も何度も殺してきたものじゃなかったのか。
それなのに、どうしてすぐに手を出せなかったんだろう。
頭を抱えているうちに時計の針は進み、やがて事務所に戻ってきた焦凍くんの、いつもと何ら変わらないあっけらかんとした顔を見て、ますます煩悶した。