その光沢は危険V

「焦凍くん、おはよう」

 あの記事が出回った翌日から、事務所に一番はやく来る人間が私から焦凍くんに変わっていた。彼は「済ませたい用事があるから」と言っているけれど、きっとそんなのは嘘だ。本当のところは、朝イチで記者がいないかを確認して、適当にいなして帰してくれているのだろう。
 私もサイドキックのみんなも、焦凍くんのそのやさしい嘘を剥がすことはなかった。

「おはよう、なまえ」手のなかのタブレット端末を閉じる彼の手付きはどこか大人しかった。
「ちゃんと眠れた?」
「それ、最近毎朝聞くよな。寝てるぞ」

 彼に指摘されるまで気付かなかった。
 さすがにおせっかいだと思われたかな、と反省する。

「……心配してくれてんだよな。ありがとな。お前も大丈夫か?」
「うん。大丈夫だよ」
「誰かに何か言われたりとかしてねぇか」
「ううん。お茶子ちゃんからはおもしろがっていろいろ聞かれたけど」

 笑いながらそう話すと、彼はたまに事務所で行われる私とお茶子ちゃんの電話越しのやり取りを思い出したのか、口元をすこし和らげた。

「一緒だな。俺も緑谷から電話が来た」
「緑谷くんも元気にしてた?」
「……そうだな。元気だ。知ってるやつ同士の記事なんて初めて見た、って興奮気味だった」

 緑谷くんの姿を想像して笑いながら、緑谷くんに話題をシフトした私は我ながらなんて卑怯なんだろう、と思った。
 焦凍くんが緑谷くんにあの記事やインタビューのことをどういうふうに聞かれたのか、焦凍くんはどういうふうに答えたのか、聞きたいけれど聞きたくない。
 今だって普通に焦凍くんと話しているけれど、本当は足の裏が痺れるぐらいにここを離れたい衝動に駆られていた。

「……熱いお茶飲む?」
「ああ、頼む」

 今までは毎朝意識せずにやっていたお決まりのやり取りやルーティンワークですら、この間を埋められるだけありがたいもののように感じてしまう。
 なにもやらずにただ焦凍くんと向き合っていると、どうにかなってしまいそうなのだ。
 熱い湯呑を彼のデスクに置く。焦凍くんの視線が湯呑をすっ飛ばして私を捉えたので、思わず体が固まってしまう。

「どうしたの」
「……お前はいつもどおりだよな」

 どこか拗ねたように低く響く声だ。

「え?」
「……あんなこと言ったのは他の誰でもねェ俺だけど、変に緊張してんのも俺だけなんだな」

 すこしだけ、責めるように歪む眉根。
 さっとひと撫でしたようにうすく色付いた頬を見て、指先の力が抜ける。
 こんな焦凍くんの表情を、私は今までの数年間で一度も見たことがない。気配すら感じたこともない。
 それに呼応するように、私の顔も熱くなっていく。

「いや……私は逆に、焦凍くんがいつもどおりだから、私もちゃんといつもどおりにしなきゃって思って」
「いつもどおりなわけねぇだろ」

 私を見上げた彼の睫毛のうえから、さらりと前髪が一束落ちる。どきりとする。
 彼の感じる居た堪れなさのようなものが、透けるように伝ってくる。その逆も然りだろう。
 現状維持なんてバカなことを望んでいたけれど、私はもう自分の感情も彼の感情も、見て見ぬふりは到底できやしない。
 あまりの羞恥に駆け出しそうになりながら俯いていると、焦凍くんが私の肩を柔く叩いた。

「……なんか、久しぶりにちゃんとお前の顔が見れてよかった。今日も頼むな」

 どことなく甘い声でお決まりの言葉を告げられれば、私の一日が始まる。
 広くて頼もしい、ずっと見てきた背中。それを見送りながら、しずかに決めた。
 ――まだ何者にもなっていないあいまいな言葉でもいい。その奥にあるものが私が抱いているものとはまったくちがう色のものでもいい。焦凍くんの言葉をちゃんと聞いて、ちゃんと向き合いたい。
 きっとかんたんなことではない。今までの時間を失うことも壊すことも私にとってはひどく怖いことであることは変わりないが、それ以上に、彼や自分の気持ちから目を逸らし続けたくなかった。



 ちょうど正午過ぎ、ショートくんは事務所に帰ってきた。

「おかえり。今日の午後はもう予定ないし、依頼待ちの日になりそうだね」
「そうだな。なんも起きねぇといいが」

 それを聞いて「あ」と思う。
 グローブを外しながらそれとなく呟かれた焦凍くんのせりふが、サイドキックのみんなの間では「フラグ」と呼ばれていることを最近教えてもらった。
 なんでも事務所に余裕がある日に焦凍くんがさっきみたいなせりふを吐くと、たちまち立て続けに依頼が来たり、対処が厄介な案件が舞い込むらしい。
 要するにただのジンクスなのだけど、そういえば心当たりがあるような気もして、おもしろくてちょっと口角が緩んでしまう。

「なんかいいことでもあったか?」
「おもしろい話があって。あとで話すね」
「なら外にメシ食いに行かねぇか。お前が一区切りついたら」
「……外に?」

 また好奇心まる見えの記事のネタにされたりしないか、と思案して聞き返したけれど、焦凍くんは当たり前のような顔で言った。

「ただメシ食いに行くだけなのに俺らがコソコソしなきゃなんねぇのって変だろ。犯罪者じゃあるまいし」
「……そう、だね。じゃあメール一本だけ出しちゃうから、ちょっと待ってて」

 焦凍くんは私のデスクに背中を預けて、なにをするわけでもなくぼうっと立っていた。
 キーボードを打つ音がやけに目立つ。変な緊張のせいで初心者のようなタイプミスを二、三回しながらも冷静な文面をつくっていく。

「なまえ」
「どうしたの?」背中越しの彼の声に返事をする。
「こんな状況になっちまったから無理にとは言わねぇが、お前とまたどっか出かけたい。さっき『メシ食うだけ』とか自分で言っといてなんなんだが……そんなんじゃなくちゃんと、時間とってお前と会いたい」

 その件につきましては、の続きになにを打とうとしていたのか一瞬で忘れてしまった。
 キーボードを叩く音が止まったことはたぶん焦凍くんにもバレていて、それがたまらなく恥ずかしい。

「……そうだね。息抜きしたいし」
「息抜きとかじゃない。ただお前との時間がほしいだけだ」

 焦凍くんがこちらを振り向いた。視線がぶつかってすぐに逸らした。たぶん同時だった。
 すこし俯いた彼が「考えといてくれ」と言うので、私も小さく頷いた。



 前にも彼と行った近所のお寿司屋さんで、無事に昼食をとることができた。
 ショートくんは「ニュース観たけど色男は大変だよなぁ、まあたんと食べな!」とどこか愉快そうな店主に肩を叩かれて、そして結局、私のぶんまで握り寿司をサービスしてもらった。
 事務所に戻るまでの道中、満腹感とあともうひとつの理由でまだ胸が苦しかった。
 それもこれも帰り際、店主に「あんたもどうせ噂になるんなら、相手がショートくんみたいな男前でよかっただろ」と言われて返答に困っている私を差し置いて、ショートくんが「俺も、彼女の相手が俺でよかったと思います」と涼しい顔をして答えたせいだ。
 焦凍くんがはたと立ち止まる。

「……具合悪いのか?」
「う、ううん。ちょっと食べ過ぎただけ。あそこ行くといつも食べ過ぎちゃうよね」

 ほとんど焦凍くんのせいだとは言えずに笑って誤魔化すと、焦凍くんも目を伏せて笑った。

「あの人、俺らに食わせるの好きだよな」

 彼の笑った顔が好きだと思った。漠然と、ずっとそうしていてほしいと思う。
 夏の気配を帯びた日差しとビル風を受けて、やわらかな髪がさんざめく。彼が風邪を引いた夜に額に張り付いた髪のようすや、乱れた前髪を直すために指を通したときの感触を思い出して、心臓がきゅっとなる。
 今までひた隠しにしてきたつもりの感情が、一度緩めてしまえばどっとあふれ出す。
 その背中を見つめているだけでどうしようもなく苦しくて、名前を呼ぶだけで息が詰まりそうになる。

「……なまえ? どうかしたか」

 今なら言えると思った。今なら向き合えると思った。
 事務所に着く前に言わないと、きっとまた怖くなってしまう。

「焦凍くん、あの、さっき私に『考えといてくれ』って言ったことなんだけど、私も――」

 急いたような私の言葉を、遠くからの「ショートさん! なまえさん!」という声が遮った。
 事務所の前には後輩が立っていて、こちらに向かってすこし慌てたようすで大手を振っている。

「なんかいま、ダイナマイトさんが来てて! チームアップの案件とかで!」

 どういうことだろうと息を呑むけれど、同時に「え」と素直に母音を零す彼を見て、きっと彼も今知らされたことなんだとわかった。
 なんも起きねぇといいが、という焦凍くんの声とジンクスの話が脳裏を過る。

「なんかめっちゃ機嫌悪いんですけど普段からそういう人で合ってます、よね? 俺が嫌われてるわけじゃないですよね? とりあえず通してあるんで、ショートさん、あとはよろしくお願いします」

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