その光沢は危険T

 結局、焦凍くんが事務所に帰ってきたのは、空が濃い橙から夜色に染まり始めたころだった。早朝から巡回を担当していた彼の交代時間を見計らったかのように事件が立て続けに起きたのだ。ひとつひとつは些末な事件だったとはいえ、事務所の空気を吸ってどこかほっとしたように表情を和らげる彼の姿が、一日の目まぐるしさを物語っていた。
 勤務時間はとうに回っていたので、相澤先生から電話があった件だけ彼に伝えて今日は帰ろうと、上着を羽織りながら「焦凍くん」と呼べば、同時に彼が

「ちょっと待ってろ。俺も一緒に出る」

とだけ言って更衣室に消えていったので、私は返事もできないままブーツの踵を止めた。
 珍しい、と思った。彼が私に可否を伺う前になにかを求めたことは、今までの付き合いのなかで数えるほどの回数もなかった気がする。もちろん私が彼の頼みや願いを断るはずもないのだけれど、いつものその丁寧さを纏わない彼は新鮮だ。それにすこしも嫌じゃない。むしろ――。
 そのとき「待たせて悪い。急ぎの用とかなかったか?」と言いながら更衣室から出てきた焦凍くんの前髪がくしゃ、と乱れているのを見て思わず笑ってしまった。前髪も腕にかけたままのコートも、きっと急いでくれた証拠だ。

「なに笑ってんだ。どっかおかしいか?」
「おかしいっていうか、前髪がちょっと立っててかわいいよ」
「……ちゃんと見てなかった。どのへんだ」

 このへん、と自分の前髪を触って教えようとした私の前に、焦凍くんはふわりと頭を垂れた。いつも私よりいくらか高い位置にある二色のコントラストが、ちょうど目の前に降りてくる。
 何も言わない焦凍くんに一瞬困惑したけれど、ふっと伏せられた瞼を見るにその髪を私に委ねようとしているようだ。それもあまりにも無防備に。
 私は行き場を失っていた右手をそっと伸ばして、はじめて彼の髪に触れた。息が詰まるような心地。ほんの一束の髪に指をくぐらせるだけなのに、胸のあたりがぎゅっと締め付けられる。

「……直ったよ」
「ああ、ありがとな」

 すこし上目遣いに私が触れた部分を確認する焦凍くんを見て、また胸がぎゅっと軋む。

「そう言えばお前、さっきなんか言おうとしてただろ。歩きながらでもいいか」
「そうそう。昼間、相澤先生から電話があって――」

 エレベーターの中、強いてなんでもないふうに要件を話すことで、どきどきと高鳴る鼓動を鎮めようと必死だった。
 彼は相澤先生からの打診について「その日は今んとこ何もなかったよな」と私に確認してから、「雄英に行くのは久しぶりだな」と漏らしながら視線を宙に漂わせた。

「明日、行けそうだって返事しておくね」
「ああ。……相澤先生は、何か言ってたか」
「久しぶりですねーとか相変わらずだなーって世間話して、あと――」

 相澤先生の低い声を思い出す。『あいつの背中ばっかり見てるやつだった』『他のやつらより一年短いだけだろ』『少なくとも俺はお前のこと、ひとりの大事な生徒だと思ってるよ』――どれもまだじんわりと耳の奥に残っている言葉だが、なぜか口に出すのは憚られる。せまい箱の中に焦凍くんとふたりだからか、どんな言葉も誤魔化せないまま彼に届いてしまう気がして、少しだけ息がしづらい。
 彼が言葉に詰まる私に視線を送る。その唇がわずかに蠢いたのを察して、私は慌てて

「それだけかな。相変わらず忙しそうだし眠そうだったよ」

と笑って終わらせる。
 ちょうど目的階に着いたエレベーターの扉が開く。そうか、と焦凍くんが聞き流してくれたのでほっとした。
 車を使う彼と駅に向かう私がいつも別れるところで振り返って、「じゃあ」と手を振ろうとしたら、彼も同時に「なあ」と声を上げていた。「なんだか今日はよく被るね」と言うと、わずかに持ち上がった口角が愛おしい。
 眉を上げて続きを促せば、ほんの一さじだけ澱んだ声色で彼は言う。

「……このまま一緒に飯食ってかねえか、って言おうとしてた。予定あんならまた今度――」
「ないよ。知ってるでしょ」
「知らねえよ。食い気味だな」

 零れたような笑い声が混ざった彼の声に、自分の中の何かが吹き上げられるような心地。今日は彼の珍しいところを見てばかりなような気がする。
 私が彼の誘いを断ったことなんて一度もないのに「なら時間もらうな」と、やっぱり丁寧に目を見て言うところがなんとなくずるいと思う。それでも、「駄目か」とか「嫌か」とか、私が断れるわけない聞き方をしてくる日より随分ましだけど。

「なにか食べたいものある?」

 乗り込んだ車に揺られながら焦凍くんにそう聞くと、真ん丸の目で「え」と言われる。

「『え』って」
「誘っておいて何だが、そういやちゃんと考えてなかった」
「てっきり作ってほしいものでもあるのかと」
「そんなんじゃねえ」彼にしては珍しく、やや強めの否定だ。
「……お前と一緒に話しながら食えるならなんでもいいと思って、深く考えてなかった。そんな風に思わせたなら、謝る。わりい」

 眉を下げてしゅんとされれば、何も言えなくなる。彼は嘘がうまくない。それに、彼が「誰かとの時間」に寄り掛かるようなことは今までになかったから、戸惑いと歓喜とが半分ずつ私のなかに鎮座する。
 結局、食材を見ながら考えようということになって、すぐ近所の店で適当な食材を調達してから彼の部屋へ向かった。
 焦凍くんの部屋は相変わらずしんとしていて生活感がなかったけれど、出しっぱなしの湯呑とか、テーブルの上の封も開いていない封筒が、しめやかに彼の粗っぽさを教えていた。

「俺はなにから手伝えばいい」

 焦凍くんは行き場のない手を宙にぶらつかせている。シャツを肘まで捲った姿からやる気満々なのは見て取れるけれど、料理はからっきしであることぐらいは私も知っている。

「これ、レンジで温めてくれる?」
「わかった。温めるってどんぐらいだ」
「一分……いや一分半くらいかな」
「そのあと、これも洗ってほしいな。ブロッコリー」
「わかった。なんか、昔の緑谷の髪型に似てるな」
「たしかに」

 私と焦凍くんの笑い声は水音とぶつかって、僅差で負ける。ちらちらと彼のおぼつかない手つきに視線を投げる。なんだかすごく「誰かと一緒に料理としている感じ」がする。
 きっとこんなにも新鮮に感じるのは、ふだん爆豪とキッチンに立てば、使いたいと思った調味料がその瞬間に乱暴に目の前に置かれたり、使いたいときにはもうフライパンが温まったりしているからだ。恐ろしいほどに手際よく進んでいく調理――たぶんあれは爆豪が普通じゃないからだと、思い知った。

「あ、そうだ。焦凍くん、ちょっとだけ外すね。一本だけ連絡入れるの忘れてて」

 片手で器用にフライパンを振る爆豪の横顔で思い出して、コンロの火を止める。スマホを取り出して『今日、ごはん食べて帰るね』と手早にメッセージを打つと、すぐに既読になる。

『連絡おせえ』
『ごめん! もしかして、もう準備しちゃってたりする?』
『明日腹壊しても全部食え』

 申し訳ないことをしてしまったと思った。「ア?」と呻いてから、イライラしながら冷蔵庫を力任せに閉める爆豪の姿が思い浮かぶ。口の中におぼろげな苦みが広がる。
 なすすべなくスマホの画面を見ていると、背後から「どうした」と焦凍くんの声がする。

「ごめん、なんでもない」
「そうか。なあ、お前がいない間に想像で焼いてみたけど、なんかそれっぽくなったぞ」
「え!?」

 キッチンに駆け寄れば、スープに使おうと思っていた食材とメインディッシュに使おうと思っていた食材がすべてメインディッシュのフライパンに一緒くたにぶち込まれていたものの、見た目はおいしそうな仕上がりになっていた。

「……お、おいしそう……!」
「そんな驚くか。さすがに俺のこと見縊りすぎじゃねえか」
「ごめんごめん、でも焦凍くんってたまに想像の斜め上の失敗するときあるじゃん。それが意外でおもしろいんだけど」
「……これも、なんか失敗してんのか」
「失敗じゃないけど、さっき話してたスープはなしになりました」
 それを聞いて何かを悟った焦凍くんが無表情になるので、思わず大笑いしてしまう。
「ふふ、笑ってごめん。でも、本当においしそう。いいにおいだし、食べよ!」
「……ああ」

 二人で作った料理を口に運ぶ。「ちょっと味濃かったな」と唇を歪める焦凍くんの姿も込みで、愛おしさがじんわりと込み上げる。
 この部屋は地上十一階だ。窓からは夜景と呼ぶに十二分の景色が見える。テレビも点けずに彼がひとりで過ごすには、この部屋はすこし静かすぎるんじゃないかと思う。すこし遠くに見えるタワーの橙の光を眺めながら箸を動かしていると、その残像がぼんやりと網膜に焼き付いた。
 焦凍くんは、私の視線の先を追い掛けて窓の外に視線をやる。

「あのタワー、夏になったら電飾が白くなるらしい」
「そうなんだ、知らなかった」
「ああ。季節によって色が変わる。俺も去年気付いたんだが、白も綺麗だったぞ。ここからはよく見えるし、また見に来ればいい」
「へえ。夏にまたお邪魔しようかな」
「……別に夏まで来るなって言ったわけじゃねえぞ」

 やんわりと彼の口角がゆるむ。思い上がりにも程があるが、正真正銘、今この世界で私しか見ることができない笑顔だ。ぎゅっと胸が痛くなる。たったの十一階なのにこの部屋の酸素が薄いのかと疑いたくなるほどに、彼の顔を見ていると呼吸がしづらくなる。
 やおら、焦凍くんが箸を置く。何か言いたいことがあるのだとわかって、私も同じようにした。

「……なあ。そういや、お前に聞きたいことがあったんだが」
「なに?」
「お前と爆豪のこと」すんなりと飲み下すには凹凸がありすぎる名前だった。
「……なんで、急に爆豪? 」私は目を丸くしてそう聞き返すことしかできない。
「なんでか……ふと気になっただけだ。こないだ駅でたまたま会ったときとかも、お前と爆豪、昔からこんなに親しかったかと思って」

 きょろりと目を上のほうに滑らせてから首を傾げる焦凍くんが、鋭いのか鈍いのかわからなくなる。

「もしかして、付き合ってたりすんのか」

 彼の問いに深い意味も証拠もないはずなのに、手のひらにじんわりと汗が滲むのを感じる。
 本当にふとした、一時の気まぐれであればいい。現に私は爆豪と付き合っていないし、爆豪のことを好きなわけでもなんでもないのだから、なんの問題もないはずだ。

「……付き合ってないよ。好きとかそういうのでもない」
「そうなのか」
「うん」

 数秒の沈黙のあいだ、焦凍くんの無垢な瞳はじっと私を見ていた。
 お願いだから、この話は掘り下げないでほしい。「じゃあほかに好きなやついんのか」とか、そういう質問は間違ってもしないでほしい。すでに動揺で剥がれかけたメッキが、ぼろぼろと音を立てて剥がれてしまいそうで怖い。
 ただ怯えるだけの私に気付かずに、なぜだか彼のほうが安心したように表情を和らげる。

「……なら、よかった」

 そう言って彼が瞼を伏せるから、口角を上げるから、ますます分からなくなってしまう。思わず唇が小さく震えてしまう。吐き出した息とともに、掠れた三文字が無意識に零れてしまう。

「……なんで?」

 ――よかったって、なんで。
 焦凍くんは、零れてしまった声にはっと顔を上げた。絡んだ視線の道はそのまま視線だけが行き来して、なんの言葉も思いも通じない。私が何を言っているのかわからないみたいな丸い目をして、彼はただ私を見つめる。たぶん私も今、同じような顔をしている。
 開いて閉じる彼の唇は、吐き出す言葉をなにひとつ知らないように見えた。

「なんでって……なんで、だ」

 宙に彷徨った丸い瞳が、最終的に私のところまで戻って来る。
 そんなこと私に聞かないでほしい。だって答えられるわけがない。
 縋るような目で見ないでほしい。私だってどうすればいいかわからない。
 けれど彼はたぶん、自分自身に聞いていた。
 揺れる彼の両の瞳は、窓の外に広がる物静かな街の色を拾っているだけなのに、もっと多くのいろんな色に目まぐるしく変わって見える。眩暈がしそうだ。

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