遅咲きのリナリア 08
扉を開けるなり目に飛び込んできた光景に、わたしは息を呑んだ。
少しだけ明るさを落とした広い店内には、バーカウンターが醸し出す大人っぽい雰囲気もありながらも、肩肘張らずに会話ができそうな絶妙な空気感が充満している。それと、思わずすんと鼻を鳴らしてしまいそうな、かすかな甘い香りも。
それもそのはず。窓から見える夜景をバックに、目が覚めるような鮮やかな色をした花弁たちが、競い合うみたいにそれぞれのテーブルのうえにきりりと立っているからだ。ちょっとしたテーブルフラワーとするには役不足な、「私が主役だ」と言わんばかりのボリュームと存在感で。
――喩えるならまるで、真夜中に植物園に忍び込んだような気分になれる空間だ。
わたしはしばらくうっとりとしたまま、きょろきょろと店内に視線を滑らせていた。
「こっちこっち! このフェイジョアのテーブルに座ろうよ!」
本多くんの明るい声ではっと現実に戻る。彼は窓際の眺めの良さそうな席からこちらに手を振っていた。
「フェイ……なんて? きみ、わかる?」
となりにいる颯砂くんがくぐもった声で尋ねてきた。あまり現実味のない空間にいるせいで、彼と久しぶりに――それもかなり予想外に――会えたことも夢みたいに思えて、いつもよりも自然に話ができる。
「ふふ、お花の名前だよ」
「なるほど! さすがきみだな。それにしてもここ、すごいな。背伸びしてるみたいで緊張するけど、変にリラックスもできるし。香りのせいかな」
「うん。こんな場所があったなんて知らなかった」
「きみ、ここでバイトするかもなんだって?」
「うーん……まだ決めてなくて、今日はとりあえず見に来たんだけど、正直すごく……」
「一目惚れ、だろ? そんな顔してる」
颯砂くんはにっと唇でカーブをつくる。胸が弾んで居ても立ってもいられないようなこの感覚を彼に見透かされていたと思うと、羞恥が込み上げてくる。
やっとテーブルに座ったわたしたちはまとまりのないデコボコな三人組だったけれど、久しぶりに会う者同士だからこそなのか、かなり話が弾んだ。たとえば、颯砂くんの大学の一年の必修科目にはエアロビがあって、リズムを外してクラスメイトに笑われた話だとか、でもそのおかげで友達がたくさんできた話だとか。ほかにも、カルパッチョに添えられていたエディブルフラワーを食べながら、それをなぜ甘く感じるかを本多くんに教えてもらったりもした。
ひとしきり笑ったあと、颯砂くんはテーブルのうえのフェイジョアに目を落としながら改まったように言った。
「……いいじゃん。オレ、ここ好きだな。最初はこんなオシャレな空間にオレみたいなのは場違いかもって思ってたけど、かしこまりすぎなくて、すごく居心地いいよ。きみがバイト始めたら、遊びに来る」
「オレも! ここで働く君が、鮮明に目に浮かぶみたい」
「うん。オレも行と同じ意見」
店内に入った瞬間から惹かれてはいたが、ふたりの言葉は力強く背中を押してくれた。
本多くんは「何なら今、マスターに声かけちゃえば?」と立ち上がろうとしたけれど、さすがに突然すぎると颯砂くんが彼のカットソーを引いて制止した。
この選択をすることで、長いあいだお世話になったアンネリーを辞めることになるのはとても寂しいことだ。店長は細かい性格だけれど優しいし、花に対する愛情はわたしにも伝わってくるほどだった。
それに、一紀くんとも長いあいだ一緒に働いてきた。最初は彼と同じアルバイトだなんて、と不安を感じたのが嘘みたいに、彼と同じ場所で働けなくなることにも寂しさを覚えている。なんの興味も持っていなさそうに見えて、実は誰より繊細にものを見ているあの瞳が、今では頼もしいのだ。
「わたし、アンネリーのバイト、辞めることにしたんだ」
わたしがそう告げたあと、一紀くんは眉ひとつ動かさなかった。けれど、数秒のあいだ黙ったままだった。
開け放たれたブルーの木枠の窓から入って来た海風が、彼のやわらかそうな髪の束を弄ぶ。店の前の道路を挟んで広がっている海は、いつも一紀くんがサーフィンをしている海だ。
黙ったままの彼に「どうしたの」と聞こうとした瞬間に、匂いに釣られて頼んでしまったフレンチトーストが運ばれてきた。それがスイッチになったみたいに、一紀くんはやっと口を開く。
「……やっといいとこ見つかったんだ?」
わたしは本多くんから紹介してもらったお店の素敵な雰囲気や、今より長い時間シフトに入れることが決め手だったことを話した。
彼は「へえ」「そんな店があるんだ」と相槌を打ってくれたけれど、下見に行ったメンバーに颯砂くんがいることに触れたとたん、ぴくりと眉を動かして意地悪く言った。
「本当にそれが決め手? バイトするなら遊びに来るってノゾム先輩に調子のいいこと言われたからじゃなくて?」
「もう、違うよ! わたしだって、それだけでバイト先決めるほどバカじゃないよ。それに、颯砂くんはアンネリーにだって遊びに来てくれてたし」
「……まあ、そうだね」
「一紀くん、相変わらず意地悪だね」
ほんのちょっと責めるつもりでそう言っただけなのに、一紀くんが「……ごめん」と素直に謝るので表紙抜けしてしまった。そしてそのあとに続ける言葉を、彼はなにやら躊躇しているように見える。
「……君がバイトを辞めること、もう決まったこととして言うから。文句なんてあるわけないし、僕が君だとしても同じ選択をすると思う。けど」
「けど……?」
「君がいなくなったら、ちょっとは寂しくなるなって、思っただけ」
逃げてから、また戻ってくる視線。
人手が減るから大変だとか、わたしと組むのに慣れていたからいなくなられると困るとか、そういう事務的なことではなく、彼がただ彼の感情として「寂しい」と言ってくれたことがひどく嬉しかった。思わず喉元が熱くなる。
「何感極まってんの。別に、バイト辞めたからって縁が切れるわけじゃないでしょ」
「うん、そうだけど……」
「僕、まだまだ『先輩』に聞きたいことあるし、君がバイト仲間じゃなくなっても普通に連絡するつもりだったけど。……いいでしょ?」
最後だけすこし自信なさげに紡がれた彼の声に、わたしはうんうんと頷く。なんでもそつなくこなすように見えていても、彼は受験を控えた大変な時期にいる。かつて彼に背中を押してもらったみたいに、わたしも彼の力になりたいと思う。
「なんでも聞いて。わたしが力になれることなんてあるかわかんないけど」
「……あるから。君と同じ大学に通ってても、リョータ先輩やイク先輩じゃ駄目。あのひとたち、自分たちが並外れた人間だってことをいまいちわかってない節があるから、アドバイスをもらったところで、とてもじゃないけど僕が追い付けない。悔しいけど」
その気持ちはわかるかもしれない。本多くんにもうすぐテストだねと話題を振ったら「そなの?」ときょとんとしながら答えられた遠い記憶を思い出した。
苦笑していると、一紀くんはわたしを見やる。
「だから僕は、君じゃないと駄目ってこと」
彼は理知的な口調で言ったのに、バカなわたしは、文脈を無視して切り取ればまるで口説き文句のようにも聞こえるセリフにやや照れくさくなってしまった。
照れていると彼にバレたら呆れられると思って、わたしはこの話題をそこそこに切り上げ、「そう言えば」とバッグのなかをわざとらしく漁る。
「一紀くん。改めて、お誕生日おめでとう!」
細いブルーのジュートリボンでラッピングをした、クリアのプラスチックの箱を彼に差し出す。
前に彼が「海水でイヤホンがダメになった」と漏らしていたのを思い出して、防水仕様のワイヤレスイヤホンを選んだ。砂浜に見立てたウッドパッキンのうえに、彼の瞳のような色のそれが行儀よくおさまっていて、我ながら可愛らしいラッピングにできたと自画自賛している。
「……祝ってくれるんでしょとは言ったけど、こんなものまで」彼はおずおずとプレゼントを受け取りながら言った。
「ええっ、嬉しくない?」
「そんなこと一言も言ってない。……嬉しい。欲しかったから、こういうの。ありがとう」
彼は視線を落として、しばし透明な箱のなかを眺めていた。ほんとうに喜んでもらえたのが伝わってきて、わたしの心まで弾んだ。
やっぱり、プレゼントとはいいものだ。誰かに花束を贈った経験はあまりないけれど、花束を抱えて帰るお客さんたちがいつも笑顔の理由を今更になってちゃんとわかれたような気がした。
アンネリーの店長は、わたしの最終出勤日にきれいな花束を贈ってくれた。
カランコエにラナンキュラス、アネモネと、それぞれ質感の違う花々が、明るく温かみのある色で見事にまとめられた、とても綺麗な花束だった。
綺麗なのは主役の花々だけではない。ところどころから顔を出す白いリナリアが上品に全体をまとめながら統一感を出しているのと、ペンペングサが気取らない雰囲気を作り出していて、このブーケの名脇役だ。華やかなのに、見ていてほっとする。
「あなたと氷室くんはうちの名コンビだったから、解散するのは寂しいわね」
お笑いコンビじゃないんですから、と店長の冗談交じりの言葉に笑って応える。一紀くんは店長の斜め後ろで呆れて目を細くしていた。
「その花束、あなたのイメージで作ったの。あなたを語るには氷室くんが欠かせないと思って、彼にも手伝ってもらったのよ。花のチョイスは、ぜんぶ氷室くん」
そう聞いて、わたしは正直びっくりした。
手の中のブーケは可憐でかつ華やかで、一目見たときにすごく気に入った。
けれどこれが一紀くんから見たわたしのイメージだと言われれば、とたんに照れくさくなる。なんだか、ひどく美化した似顔絵を描いてもらったときのような気分になった。