遅咲きのリナリア 07



 一紀くんがシフトに入らない二週間のあいだ、わたしも前期末の試験の準備をするために学内のカフェテリアに通いつめていた。
 そばに置いたカフェオレの入ったプラスチックの容器はすでに、たっぷりとした水滴をはらんでいる。休憩がてらに試験の範囲を確認しようと手帳を開いたとき、七月十四日の欄に青いペンで描き付けた文字に気付いた。
 ――もうすぐ、一紀くんの誕生日か。ふと宙を見上げて、何かお祝いができないかと考える。プレゼントをしようか、あるいは受験勉強の息抜きにごはんにでも誘おうか。受験の邪魔にならないのは前者だろうかと思案していたとき、スマホが目を覚まし、メッセージの通知が現れた。

『期末手応えあり。先輩、今度コーヒーでも奢って』

 噂というほどでもないけれど、噂をすればなんとやら、だ。
 一紀くんとメッセージのやり取りをする頻度は多くも少なくもない。いつもは連絡先の上から七、八番目のところに彼のアイコン――これは朝の海だろうか、何度見たってきれいな写真だ――はあって、こんなふうに気が向いたときにふわりと一番上に浮かんでくる。
 連絡する手間が省けたと、すぐに返信をする。

『いいよ。ちょうど一紀くんの誕生日も近いしね』
『君がそんなこと覚えてたせいで、僕が祝えって催促したみたいになった』

 メッセージのなかでも変わらないねじけた物言いに思わず笑いが零れた。

『残念だけどメッセージが来るすこし前から、一紀くんの誕生日プレゼントは何がいいかなって考えてたよ』

 そう返信したらすぐに既読はついたけれど、いつものようなテンポでレスポンスが来ない。自動応答かと思うくらいに返信が早いこともあるのに、珍しいこともあるんだなあ。
 きっと忙しいのだろうと一旦スマホをテーブルに置こうとしたそのとき、スマホがぶるぶると震える。着信画面には「氷室一紀」の名前が表示されていた。

「……もしもし、僕」電話越しの彼の声は、いつもより不機嫌そうに響く。
「うん、びっくりした。メッセージ打つの面倒になっちゃった?」
「こっちのほうが早いと思って。で、いつなら空いてる?」
「うーん、わりといつでも大丈夫だよ。高校ほどテスト日程詰まってないし」手帳に書き込んだ時間割を確認して答える。
「じゃあ、十四日。シフト入ってないよね?」
「うん、わかった。誕生日当日だけどいいの? ほかの友達とか――」
「だから、君が祝ってくれるんでしょ」

 さっきまでひねくれたことを言っていた人とは別人のように素直な声だった。
 一紀くんと知り合ってからかれこれ二年半。見せるのは本当に時折だけれど、彼がこういう温度も持っているのだと最近になって知った。出会ったころの彼は颯砂くんと正反対の人物のように見えたのに、今となってはふたりはすこし似ているとさえ思う。
 そういう一紀くんの変化は、とてもいいことであるとわたしの目には映っている。友人のひとりであるわたしには到底知り得ないところで、いろんなことを経験しながら高校生活を送って来たことが彼の変化の理由だとすれば、寂しさに背中をくすぐられるような心地もするけれど。

「……じゃあ、来週ね。忘れないでよ」

 「わかった」と笑い混じりに返事をしながら、彼と出会った頃のわたしにこんなに一紀くんと親しくなったと言ったらきっと怪訝な顔をするだろうと考えていた。
 電話を切って一息ついたところで、なにやら後頭部のあたりに視線を感じる。本能的に斜め後ろを見やれば、「だーっ!」と聞き覚えのある声がして、ソファの影から勢いよく人影が飛び出してきた。

「本多くん!」
「こんにちは、みょうじちゃん。はぁ……残念。ちょうど見かけたから後ろから近付いて驚かせようと思ったんだけど、先にバレちゃったよ。君って、すごく第六感が優れてるんだね」

 残念、とは言いつつもその表情はひどく愉快そうだ。
 「相席してもいい? 君の勉強の邪魔しないからさ」と言う本多くんの手にはレタスとハムのサンドイッチのパックと、コロッケパンと、それからコーヒー牛乳があった。お昼どきとはかけ離れたこの時間帯に腹ごしらえをする一年生は、このカフェテリアにはそうそういない。

「相席いいよ。また研究室に籠ってたの?」
「そそ、実験の結果が出るまで見張ってなきゃいけないからね。それは別に苦でもなんでもないし、むしろ何時間でも見てられるんだけど……オレ、一年なのに二、三年の研究室に例外で入れてもらってるから、下っ端ってことで実験器具の掃除とかも多めに任せられちゃうんだ」
「なるほど……それは大変だね。たしかに、本多くんの研究室はヘンに上下関係厳しいってわたしの学科にも噂が回ってたよ」
「そそ。なるべく多い人手で手分けしてやったほうが何倍も効率いいのにね。でもそれを言ったら苦笑いされた。から空気を読むことにした。実験ができなくなるほうが嫌だし」

 本多くんはあっけらかんとした顔でそう言いながらぺりぺりと包装紙をめくり、サンドイッチの三角のてっぺんに噛り付いた。そのあとコーヒー牛乳でごくりと流し込み「こんなにサンドイッチがおいしく感じたのは生まれて初めてだよ」と久しぶりの食事に目を輝かせていた。
 相変わらず本多くんは本多くんだなあ、と笑っていたら、彼は思い出したように「あっそうそう」と眉を上げた。いつだって表情が忙しいひとだ。

「君って、まだあそこのお花屋さんでバイトしてるの?」
「うん。そうだけど」
「そっか、じゃあもし気が向いたらってことでいいんだけど、君にぴったりのバイト募集があってさ。よく行く植物園の職員さんの知り合いが責任者らしくて、オレに声かけて来たんだ。時給もいいし、大学生なら夜のシフトも入れるよ。オレは書店のバイトが好きだし、夜まで営業してるから研究のあとでもシフトに入れてるしで、今のところ不自由ないから断ったんだけど。もしかしたら君は興味あるかもって思ってさ」

 花屋アンネリーの営業時間は二十時まで。たしかに彼の言う通り、勉強も遊びも全力を出したい今日このごろ、もうすこし長く働けたらいいのにと思うことはあった。季節ごとに移り替わるいろんな花を眺めるのも、花束を抱えて帰る人の表情を見るのも好きだから、今まで本腰を入れて新しいバイトを探そうという気は起らなかったけれど。
 ただ、今の本多くんの説明からはそれがどんなバイト内容なのかが全くイメージできない。本多くんに声がかかるぐらいだから、植物園の夜の見回りとか、夜行性の食虫植物に餌をあげる仕事とか、そういう変わった類のものだったりするのだろうか。だったら、わたしにはすこし難しいかもしれない。

「ま、口で説明したってわかんないよね。よかったら、見に行ってみる?」
「えっ、見に行けるものなの?」
「うんうん。今日はどう? あ、せっかくだし誰か誘おっか。リョウくんはたしか今日はバイトだし、ミーくんの学校からはちょっと遠いかな……あ、サッくん! サッくんなら来てくれるかな!」

 急に飛び出したその名前に動揺を隠せない。けれど、本多くんがポケットからスマホを取り出して耳に当てるまではたったの数秒だった。
 もうコール音が鳴っているだろう頃合いに、本多くんはやっと「あれ? 君もサッくんと仲良しだったよね?」と伺いを立ててくれた。おずおずと頷いて「……最近会ってないから、会えたら嬉しいかも」と答えると、本多くんも「うんうん、オレも!」と笑ってくれた。

「あ、もしもしサッくん? 久しぶり、オレ! ってことで、オレとみょうじちゃんが君に会いたいから、今から会おうよ!」

 電話の向こうで、突然の誘いに驚いた颯砂くんが声を上げているのがかすかに聞こえる。
 ――ああ、本多くんがうらやましいなあ。本多くんの誘い文句を聞いていて思った。会いたいから会おうよ、なんてシンプルな理由で彼を連れ出せる彼がうらやましい。颯砂くんと友達であるという点ではわたしも本多くんも一緒なのに。
 しばらく問答を続けたあと、本多くんが「はいはーい! じゃあ十八時に!」と電話を切ったので、わたしは急に落ち着きをなくしてしまった。

「……本多くん。今日のわたし、変じゃない?」
「んー? どこも変じゃないよ。いつもの君!」

 睫毛が下を向いていないかとか、アイシャドウのラメが飛んでいないかとか、そういうところを見てくれたんじゃないということはわかっているけれど、本多くんの丸い瞳が流星のように瞬くのを見て、すこしだけ自信を持てた。


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