遅咲きのリナリア 06
あれから一年半とすこし。わたしはまだ颯砂くんの「友達」のままだ。
学校で顔を合わせていたころは、「じゃあ今度行こうよ」となんでもない会話のついでのように誘うことができたけれど、全然別の大学に通い始めたならそうもいかない。どうしたって「わざわざ」感が出てしまうのだ。
六月の末に一度だけ、「お誕生日おめでとう」を言うために電話をした。彼は「覚えててくれたんだ」と素直に喜んでくれた。
大学は忙しいのかとか、どんな友達ができたのかと他愛もない話をしたあと、颯砂くんが「オレも久しぶりにきみからパワーもらいたくなったな。来週さ、もしヒマだったら遊びに行こうよ」と言ってくれたので、わたしはすぐに「行く」と返事をした。スケジュールの確認をすることなんて忘れていて、あとからバイトのシフトが入っていなかったことを確認して、心から安堵した。
前日にはパックをして、長く歩いても疲れにくい、わたしの足にぴったりと合ったお気に入りのオペラシューズにつま先を入れた。玄関にある鏡で、前髪からつま先までを念入りにチェックする。
「友達」と遊びに行くだけにしては、随分とした気合いの入れようだ。思わず苦笑したけれど、きっとこれくらいなら許される。颯砂くんと会ったら、そのへんに合った服を適当に着てきました、って顔をすればいいのだ。
颯砂くんと遊園地に来るのは高校二年ぶりの二回目だ。
一度目はたしか、ひかるちゃんが突然「チケットが手に入ったから行こう」と誘ってくれて、当日待ち合わせ場所にいた颯砂くんと一紀くんを見て言葉を失ったのを覚えている。ひかるちゃんに目で訴えたら「だって事前に颯砂くんも誘うって言ったら、マリィ緊張して眠れなくなっちゃうと思ったんだもん」と小声で言われた。その通りだったから、なにも言い返せなかった。
「前にも一度、みんなでここへ来たよな」
颯砂くんもちょうどそのときのことを思い出していたらしく、ジェットコースターの待機列に並んでいる最中にぽろりと言った。
「あの日、いろいろはしゃげたし、たまにはこういう日もいいなって思うくらい楽しかったんだけど、正直、オレのなかで不完全燃焼な部分があって」
とたんに、何か気に障ることでもあったのだろうかと不安になる。
「あっ、勘違いしないでほしいんだけど、べつに気に障ることがあったとかじゃないよ! ……心残りがあるとしたら、みょうじだよ。ほら、あの日はみょうじとあんまり話せなかったから。遠目に見た、ひかるさんとコーヒーカップに乗って大笑いしてるきみがめちゃくちゃ楽しそうでさ、ああきみって、そんな顔もすんだなって思ったんだ。女子同士だからなのかなとも思ったけど、もしできることならオレの前でもあんなふうに大笑いしてくれたら、オレも嬉しいなって。だから今日はきみをここに誘った!」
この言い草じゃリベンジみたいだよな、と颯砂くんは頬をかきながら笑った。
ひかるちゃんに接するのと同じようにできないのは、わたしがあなたを好きだから。誰よりいちばん、好きだから。ただの友達だなんて本当は思ってもいないから。
もうこんな本音を隠すことすら上手くなってきたわたしは、
「じゃあ、今日はめいっぱい楽しもうね!」
と、彼に笑みで返した。
家の近くまで送ってくれた颯砂くんと別れたすぐあと、颯砂くんはメールをくれた。そこには「すごく楽しかった」「またこういう日を過ごしたい」という内容が彼の言葉で綴られていて、胸の奥がじわりと熱くなる。
文末の「みょうじのほうが忙しいだろうから、暇な日があったら、連絡してよ。オレ、いつでも待ってるから!」という文字列を見て、颯砂くんのことがちょっとだけ憎らしくなった。
悪気なんてないのはわかっている。だって、わたしがなんの理由もない「会おうよ」の四文字を発することにどれだけのエネルギーを振り絞らないといけないのかを、彼は知らない。この先もきっと、知ることはない。
店の扉のベルが鳴る。水揚げをしていた手を止めて反射的に「いらっしゃいませ」と言いながら振り返ると、「元気な挨拶どうも」と一紀くんが入って来た。こめかみに少しだけ汗を滲ませた彼は、店内に入るなり「涼しい」と心地よさそうに宙を仰いだ。
はば学の校章が映える彼の白いワイシャツが、窓から射した日差しを反射して眩しく輝いて、もうすっかり夏だと思う。わたしはもう二度と袖を通すことがなくなったから、という一種の切なさが余計にそれを輝かしく見せているのかもしれない。
「一紀くん、お疲れ様」
「君も。今日のシフト、何時から何時まで?」
「今日は十三時から入ってて、十八時上がりだよ。講義、午前だけだったんだ」
「ふうん。じゃああと二時間しか被んないんだ」
「そうだね。もっと一緒に働きたいのにね?」
二時間「しか」という言葉の揚げ足を取ってからかうようにそう言えば、案の定じっとりと睨まれる。
「……君とコンビでシフトに入ってばっかりだったから、そのほうがやりやすいってだけ。着替えてくる」
一紀くんはもはやムキになるわけでもなく淡々と反論して、バックヤードのなかに消えていった。ふふ、と勝手に笑みが零れてしまう。
実際にわたしと一紀くんは二年間のあいだほぼ同じシフトでここのバイトを続けていたから、忙しいタイミングではアイコンタクトだけでどちらがレジに入るかを決められるし、「あれ」と手を出されるだけでハサミをパスできるほどのコンビにはなっていた。
一流大に通うことが決まったとき、学校からはすこし距離のあるこの店のアルバイトを続けるかどうかを迷ったことがあったけれど、
「まだいいところが見つかってないんなら、別に焦って辞める必要ないと思うけど。いいんじゃない、ゆっくり探せば。君、この店に必要とされてるし。それぐらいは僕にもわかるし」
という一紀くんの言葉に、二年間の働きを認められたようでなんだか嬉しくなって、一旦はこの店で働き続けることを決めたのだ。
「あ、そうだ。みょうじ先輩」
バックヤードから、エプロン姿になった一紀くんが戻ってくる。腰の紐のリボン結びは相変わらず完璧だ。いつまで経っても大雑把に結んではすぐに解けてしまうわたしのとは違う。
「どうしたの?」
「僕、来週と再来週は期末テストでシフト入れないから」
「そうなんだ、珍しいね。一紀くんってテスト期間でも関係なしにシフト入ってたから、すごいなって思ってたんだ」
「……そう。僕は入るって言ったんだけど、店長が。人も増えたしテスト期間ぐらい休めって」
「一紀くん、不服そうだね。でも、今年は受験生だもんね」
「まあね。……また君の後輩になれればいいけど」
ひどく要領のいい一紀くんのことだから受験のストレスなんてものとは無縁だと思っていたけれど、すこしだけ、ほんのすこしだけ憂鬱そうに彼は言う。
高校最後の冬、一緒に図書室で勉強をしていたとき、それとなく「一紀くんはもうどこの大学目指すとか決めてるの?」と聞いたことがある。彼はノートから顔を上げずに「君が滑らなければ、君と同じとこ」と答えたのを覚えている。そのときわたしの前には一流大の赤本があって、ノートには悲惨な自己採点結果が広がっていた。
思わず言葉に詰まったわたしに、「だから受かってよね。また先輩になっておいてくれなきゃ」と一紀くんは笑った。「浪人した君と同級生になるのも、それはそれで面白いけど」と縁起でもないことも言ってみせた。
あのときわたしには一紀くんの無責任な言葉に間違いなく元気付けられたのだと、今になってわかる。
「――うん。またわたしの後輩になってくれなきゃ」
図書室でした話を彼が覚えているかどうかはわからないけれど、なぞってみる。
「……言われなくてもそのつもり」
一紀くんはすこしの沈黙のあと、口角を上げた。