そろそろ寂しがってるかもって思ってさ

 四年生になってから、制服に袖を通したのはまだ三度目だ。すこし袖の丈が短くなっている気がして、まだ身長が伸びていることに安堵したりした。
 久しぶりに訪れた校内。偶然すれ違ったバスケ部の後輩は、オレを見るなりわっと声を上げて、「エース先輩、めっちゃ久しぶりですね」「来年、インターンのツテ紹介してくださいよ!」と口々に言ってくれる。なんだかんだカワイイやつらだ。

「で、今日は何しに来たんすか? ワンゲームでもやってきません?」
「体なまってるし超やりたいけど、ちょーっと野暮用があんだよね。また来るわ」
「あ〜、もしかして監督生さんですか? 先輩たち、付き合ってましたよね?」
「付き合ってないって」
「またまた。エース先輩、前からいっつもそう答えますけど、ただの建前でしょ。前にジャミル先輩もそう言ってました。いい加減認めればいいのに」

 後輩たちの呆れたような笑顔を見て、「しつこいって。ホントにねーの」と返事をして、その頭を乱暴に掻き混ぜる。
 たしかに建前だった。同学年のやつらや、同じ寮の親しい先輩はみんなオレと監督生の関係を知っていたし、あのデュースでさえも三年生の夏ごろに「よくよく考えてみれば、お前のオンボロ寮に行く回数って異常じゃないか?」と気付いたぐらいだ。
 「監督生はただのダチだって」という定型文は、おそらくタレントやモデルの事務所がよく言う「仲のいいお友達と聞いています」という定型文とほぼ同義だ。建前をつくる以外の意味を含まない、ただの台本なのであって、それを今更掘り下げるやつはほとんどいない。というか、もともと大した興味もないのだろうけど。
 ――今となっては、建前もクソもない、ただの事実だけど。

「ね、監督生、どこにいるか知ってる?」

 くるりと振り向いてそう尋ねれば、後輩たちはげらげらと笑った。

「ほら、やっぱり付き合ってるじゃないっすか! 監督生さんなら、最近図書室の書物整理やってるみたいで、たぶん今日もいるんじゃないかと思います。僕も先週、図書室で本探してたんですけど、監督生さんが親切に場所教えてくれましたよ」
「……ふーん。あいつもやるじゃん」
「ってか、よかったっす」
「なにが?」
「なんか最近、エース先輩と別れたっぽいから監督生さんのこと狙おっかな、とか抜かしてるやつがいたんですよ。僕はエース先輩の従順な後輩だし、仲睦まじいエース先輩と監督生さんのこと応援してたんで、そんな馬鹿なって思ってたんですけどね」

 まともな返事もできないうちに後輩は「これからも仲良くやってくださいよ」と頭を下げて去っていく。
 透明な水に一滴の絵具を垂らしたように、靄のような気持ちが広がる。掻き混ぜて溶かして、今すぐなかったことにしたい。
 辿り着いた図書室の扉の奥。年季の入った紙のにおい。壁にかかった絵画のなかの偉人は、困っている生徒に本の在りかを気まぐれに教えてくれる。けど、なんせ「気まぐれ」だ。
 そんな図書室のなかで、せかせかと働く監督生はすぐに見つかった。
 歩み寄ろうとして、やっぱり立ち止まる。オレよりも先に監督生の隣のスペースに滑り込む男がいたからだ。まるでそこにいるのが当たり前かのように。どうやらデートへの誘い文句らしいセリフがちらほらと聞こえてくるのにも、馴れ馴れしく肩に置かれる手にも、神経を逆なでされているような心地がする。
 そして気が付けば、声を発していた。

「カーントクセ。なにしてんの」

 はっとしてこちらを振り向いた監督生と、名前も知らない男の目が、同時に見開かれる。

「……エース? どうしたの。なんでここに」
「なんでって、用事あって久々に登校しただけ。本、重そうじゃん。持ってやろっか」
「え、と……」

 監督生が両腕で抱える書物を、ひょいと手で掬い取る。視線を泳がす監督生に

「どこに戻せばいい? これぐらいなら、魔法でやってやるよ」

と尋ねてマジカルペンを一振りするけれど、何とも言えない空気が流れる。
 何か言いたげに表情を歪める監督生の代わりに口を開いたのは、隣にいるオクタヴィネル寮の男だった。

「……あんたと監督生さん、別れたんじゃなかったんですか?」
「そーだけど。だからなに?」
「……開き直りですか。まあいいですけど」

 男は呆れたようにため息を吐くと監督生に「監督生さん、考えといてください。さっきのこと」と当てつけのように言い残して、図書室を出ていった。名残惜しそうに監督生に纏わりつく視線に苛立って、唇が歪んでしまう。
 その場に佇立したままの監督生は、逃げ場を失くして観念したようにオレに視線を合わせる。吸い込まれそうな深い色の瞳と、視線をまっすぐに通わせるのはいつぶりだろうか。

「……エース、なにしにきたの」

 監督生が不安げに、でも強かにそう言った。どうやらオレは「久しぶりだね」だとか「元気だった?」だとか、そういう柔らかな言葉と、あの曖昧な笑顔を期待していたらしい。どこまでも肥大した自尊心に気付いてしまう。

「……なにって、お前に会いに来たんだけど」

 正直に告げたものの、淀んだ声。それを聞いた監督生の眉間にすこし皺が寄るのに気付いて、居た堪れなくなったオレは横髪をいじる。

「……返して、エース」
「え?」
「本、返して。自分で片付けられるから。……ありがと」

 監督生は目を伏せたままオレの腕の中から本を抜き取る。ずっしりとした重量感が失われる。
 「お前に会いに来た」というオレの言葉には返答がないことで、監督生の温度が冷えていることをまざまざと知らしめられて。ずきりと痛む心臓に、息ができなくなりそうだった。
 はっとして、オレに背を向けて去っていく監督生に駆け寄ると、思わずその腕を掴んでしまう。

「……待ってよ、監督生」

 監督生は俯いたまま口を噤んでいる。嵐が過ぎ去るのを暗い部屋で静かに待つ子どもみたいだ。
 ――オレ、こいつに何を言えばいいんだっけ。何て伝えたくて、ここに来たんだっけ。
 頭の中で渦巻く感情と言葉と、いまだ居座り続ける監督生への期待。
 監督生の姿を一目見てしまった今、オレのもとからこいつが去ってしまったあの日の記憶が、ものすごいスピードで色褪せていく。夢なんじゃないかとすら思えてくる。
 まだ間に合う。焦燥感に似た熱いものが、腹の底から湧き上がる。

「あのさ、ちょっと話さない?」
「……分かんないよ。今更エースに何話せばいいか」
「今更って――」
「だって私、もうエースの彼女じゃないし」

 監督生の声は震えていた。ひゅっと短く息を呑む。
 何度も何度も頭の中で輪郭をなぞってきたそのセリフが、か細い声で残酷に否定されてしまった。

「……勝手に終わらせんなって」
「っ……なんで今更、そんなこと言うの。あのときエースは、否定もしなかったのに」

 監督生の言う通りだった。雪のなかで投げ付けられた『エース、私のこと本当に好きじゃないでしょ』という言葉に、何の返事もできなかったオレが、今更どのツラを引っさげてここにやって来ているのか。
 図星を突かれた後ろめたさと、くだらない自尊心は、オレの喉元からどんな誠実な言葉をも奪い去ってしまう。喉元が、にわかに熱を孕んでいく。

「……別れたいって言ったの、監督生じゃん? でも、お前がそろそろ寂しがってるかもって思ってさ。オレが一緒にいてやんないとって、なんか心配なんだよね」

 零れ落ちる軽薄な言葉は、慌てて手を伸ばして手を伸ばして拾い上げたって取り消せない。
 それなのに、目頭が熱くなれば生理的に涙が滲むみたいに、馬鹿みたいな言葉だけがぽろぽろと零れてしまう。

「それともさ、さっきの男がいるから、もうオレがいなくても大丈夫だったりする?」
「そんなこと――」
「お前、髪型も変わったし、全体的にフンイキ変わったしね。イメチェンってやつ? まあここ、男子校だし、お前さえその気になればオレの代わりなんていくらでも――」

 透明な幕の奥で揺れる瞳がやっと見えたと思ったら、次の瞬間、頬に衝撃が走っていた。乾いた音と、書物の固い背表紙が床にぶつかる音。
 空気に晒されると冷たくも熱くも感じる頬が、監督生の手のひらによって打ち払われたのだと理解するのに時間はかからなかった。

「最、低……っ!」

 じんじんと痛む頬から伝播するように、口内に鉄の味が広がる。

「って……!」
「……ごめん……でも……お願いだから、いい加減私のこと弄ぶのやめてよ。たのしかったよ。幸せだった。……けど、おんなじぐらい辛かったの。なんでエースは私に付き合おうなんて言ったのか、好きだよなんて言ったのか、ずっとずっと、いくら考えても分かんなくて」

 声と涙を殺しながら監督生はそう言い切った。
 好きだと告げたら、ただでさえ赤く染まる頬が、オレを見上げる熱を帯びた瞳が、どうなるのか知りたくて仕方がなかったのだ。つまるところ、あの日のオレは好奇心に惨敗した。
 はにかむ少女のような笑顔と、雪のうえに鮮やかに横たわる赤いペンケースが、残像のように脳裏をよぎった。

「……ごめんね、エース。今までありがとう」

 今度こそ監督生の背中が離れていく。
 壊れていく。もともとまともなかたちですらなかったものが、音すら立てずに。
 しんしんと降る雪のような後悔が、すべての音を吸いきって、情けなく靴底に張り付いていた。
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