「帰るなら鏡を使えばよくないっすか?」と、校門を出る手前で後輩に不思議そうに言われた。そんなことは知っていた。だってオレはお前より一年先輩だ。
それでもオレは首を横に振って、ほとんど人気のない山道を降りていく。溶けかけた雪のうえを歩くたびに、じゃくりじゃくりと、小気味よさと不快さとの中間の音を奏でる。その音はどことなく物寂しくも聞こえて、呆れ笑いしそうになる。
大きな針葉樹の陰で仄暗い道。しばらくはオレの足音とからすの鳴き声だけが響いていたが、ふと向こうから軽やかな足音が聞こえてきた。
思ったよりも迅速に近付いてくる足音にぎょっとしたと同時に、やわらかなラベンダーの髪が跳ねた。
「エ、エースクン!?」
――エペル。
そう発した声が掠れていた。
エペルはこの寒さだというのに体操着の腕を肘まで捲り上げている。今もたまにマジフト部に顔を出しているとは聞いていたが、どうやら今日もランニング中らしい。
エペルはそのままよろよろとこちらに歩み寄ると、白い手のひらを占星術師のように空中で迷わせた。
「ど、どうしたの。こんなところで……」
「……どーしたのって、なにが」
「ほ、……ほんなひでえ顔して、『なにが』じゃねぇ!」
声を荒げるエぺルだけれど、その心当たりは大いにあった。
オレがなにも答えないのではなく答えられないということを、おおざっぱだけど空気の読めるエペルは数秒の沈黙で悟ったらしい。
細い首にかけていたタオルをはらりと翻すと、オレに差し出した。
「……えーと、あの、エースクン。これ、よかったら使って。ハンカチじゃなくてごめん。ヴィルサンの言いつけでいつもはハンカチを持つようになったんだけど、その、今はランニング中だしこれしかなくて。
……だから、涙を止めてほしいな」
エペルはそう言って、黙ってオレの横に佇んだ。
――正直言ってサイアクの展開だ。こんなとこ誰も歩いてなんかないと思ってた。知らないやつならまだしも、よりによって同級生にこんな姿を見られるなんて。エペルだったのは不幸中の幸いだ。嗚咽を漏らしながら外を歩く姿なんて、恰好の笑いの種になってただろうから。
「……っエペル、こんなこと、誰にも言うなよ」
「言わないよ。僕、そんなにバカじゃない」
「はは、だよな。知ってる」
「ウン。……でも、かなりびっくりした、かも。エースクン、いつも明るいし。そんなにボロボロ泣いてるから、何かあったんだろうなって」
エペルは覗き込むようにオレを見る。
昔はこのアクアブルーの瞳に見上げられていたはずなのに、今となってはまっすぐに、対等な高さで視線を通わせることができる。
「……あった。かなりいろいろ」
「だろうね。……僕もエースクンが泣いてる理由、なんとなくわかる……かな」
「エペルお前……人のキズ抉る気?」
「ちがうよ。僕も応援してるってだけ。エースクンたちのこと」
「応援してるったって、もう終わ……」
そこまで行って、憚るようにぴたりと言葉を止めるオレを、エペルはくすりと笑った。
「……言いたくないし、認めたくないことがあるんじゃないの、かな。もちろん僕にはふたりのこと、全部は分かんないけど……エースクンが思ってることで、まだ伝えきれてないことがあるなら、全部伝えてからでも、終わりにするのは遅くないと思うよ。……真剣な気持ちなら、きっとあの子は聞いてくれると思う。……あ、的外れなコト言ってたら、ごめん。
……ねえ、エースクンは、全部伝えられた?」
小首を傾げる動作だけは、一年生のときから変わらない。
エペルのやわらかな問いかけは、頭のなかで波紋のように広がっていく。
――オレがあいつに伝えてないこと。そんなもの、たぶんありすぎる。告白した理由だとか、帰省する日程だとか……いや、そんなことはどうでもいい。きっと何より言うべきことがひとつある。
「……エペル。オレも、学校戻ろっかな。……ちょっと忘れ物してさ」
エペルはにっこりと目を細めると、オレの背中をばしんと叩いてみせた。
「……ウン。じゃあ一緒に戻ろう」
◇
まさか本当に、エペルと一緒に来た道を走って戻ることになるとは思っていなかった。インターンで部活を離れて運動不足の体は、去年よりもすぐに息が上がるようになっていた。
エペルに「頑張ってね」と励まされ、もうしばらく来ていないオンボロ寮に辿り着く。ガーゴイルのゴブリンには雪が積もって、まるで目隠しのようになっていた。
合鍵を使うのは気が引けて、控えめにドアをノックする。やがて不思議そうに目を丸めた監督生が顔を出すけれど、オレを見ては息を呑んだ。
思ったよりも早い、そして予想だにしない再会に、監督生が戸惑っているのは分かった。
けどオレだって必死で、何かに追われているような焦りで、手には汗をかいている。
「監督生。急にゴメン」
「……いや、どうしたの。あ、鍵返しに?」
曇った空気を浄化しようとしてか、監督生は強いて笑う。
オレは黙って首を横に振ると、おろした両手の拳を、ぎゅっと握りしめた。
「……その話なんだけどさ、返したくない」
「え? え……と、なんで」
「オレはお前と別れたくないから」
自分だけ時間停止の魔法にかけられたみたいに、ひどくゆっくりにしか言葉を紡げない。しゃべればしゃべるほど、体中の水分が逃げ、熱が増してゆくような気がする。
こんな感覚ははじめてで、内側から胸元を殴られているような鼓動にも、静かに驚嘆した。
「……だから、なんで……?」
監督生は眉間をぎゅっとちぢめて俯いた。「エースのことがわからない」ともう一度呟くのに対して、掠れた声で頷く。
「だよな。オレ何にもお前にしてやれなかったし」
「……なんで今更そんなこと――」
「それはオレがバカだから。お前はずっとオレだけのこと好きで、何があってもオレの味方だと思ってた、んだよね。……だからお前がホントはどう思ってるかとか考えてこなかったし、それどころか自分の気持ちも考えてこなかったし……ねえ、怒っていいよ。もっかい、ほっぺ引っ叩いていいし」
唇の端の血が固まって、かたく突っ張っているのは感じている。それを歪んだ表情で眺める監督生にも気付いている。
監督生はじっと息を潜めて、喉元までせり上がる言葉をおさえているように見えた。それはオレの言葉を待っていてくれているからだと分かる。
けれど、吸い込まれそうな色の瞳に見つめられて息がつまる。だいじなことを言おうとすればするほど、なぜだか泣き出したくなる。というかさっきまで泣いていた。
――もっとちゃんと、目の前の女の子に向き合ってこればよかった。なんて言ったってもう遅い。
手の中をすり抜けていった煙をもう一度掴むために、どうすればいいか分からない。
何度も触れた手のひらにも頬にも触れずに、ただ視線だけを何秒も通わせる。
まっすぐな言葉で、嘘のない声で、誠実な視線で、何をしてでも離れたくないんだと伝えなければならない。
「あのさ……オレ、お前のことが好き。すっごく」
ところどころで突っかかる言葉をなんとかひねり出した。
二年前のあの日、どうしてあんな涼しい顔をしてその言葉を紡げたのか、もう思い出せない。
けれど、あのときと比べて今のオレの言葉はまったく違う色に響いて、監督生の瞳をさんざめかせる。
「……やり直させてよ。お前にもっかい振り向いてもらえるまで、諦めないから」