ていうか、こんなもんか

 監督生とは二年も一緒にいたのだ。なにかが劇的に変わってしまうかもしれない、と身構えてから数週間。オレを待っていたのは、変わり映えのしない多忙な毎日だった。
 ハーツラビュル寮とは違って、無機質にまっすぐ続く廊下を、あくびを噛み殺しながら歩く。疲れが泥のように蓄積して、重くなった足取り。
 プログラムの間だけ借りている社員寮の一室は――さすが研究機関の施設というべきか――便利ではあるけれど、いかんせん味気がない。
 重たいドアノブを握れば、登録してある魔力素と照合して自動的に鍵が開くしくみだ。
 部屋に帰ってくるたびに、わざわざ錆びた合鍵を持ってオンボロ寮に通っていたことを思い出して、ちょっと笑ってしまう。

「……ていうか、こんなもんか」

 ――こんなもんなんだ。あいつがいなくなったって。
 思わずそう独り言を漏らしたのは疲れているからで。
 備え付けの、スプリングの効いたベッドに背中を預ける。ポケットから取り出したスマホの画面を流れるようにチェックするけれど、今までは決まって入っていた「エース、お疲れ様!」という文面のメッセージはもうない。疲れ果てて返信すら面倒だと思う日もあったというのに、こればかりはもはや体に染み付いたクセだ。
 ノックの音がしたのは、そのときだった。同じインターン生の誰かだろうと、乱れた髪を申し訳程度に整えながら「はいはい」とドアを開ける。

「――あ、ごめん、トラッポラくん。寝てた?」

 溌剌とした声。「彼女がいる」と言って以来、大した雑談も交わしていないその女の子は、両手でバスケットを抱えていた。

「今戻ったばっかだし起きてたけど、なに。課題なら手伝わねーよ?」
「もう、ちがうってば!」
「冗談だって。で、なに」

 ぽってりとした唇が酸素を吸って、オレに抱えていたバスケットを差し出す。

「……同期にさ、トラッポラくんがチェリーパイ好きって聞いて、作ってみたんだ。あんまりお菓子とか作らないから、うまくできてるか分かんないんだけど。よかったら食べてほしいな」
「えーと、オレに?」
「うん、トラッポラくんに」
「へー、じゃあ遠慮なく。ありがと」

 じゃあね、とはにかみながら手を振って去っていく後ろ姿はあの時と重なる。けれど、どこか嬉々としているようにも見えた。
 ――そういえば。一昨日かそのあたりに、好きな食べ物と好きなタイプを同期に聞かれたっけ。たぶんそん時、彼女と別れたことも話した。
 つまり、このチェリーパイにも合点がいってしまった。
 余計なことすんなよ、と同期を咎めたくなりながら、半ばやけくそでバスケットを開いた。甘ったるいシナモンのにおいのあとに、天面がすっぽりと生地で覆われたチェリーパイが目に入る。
 丁寧にもワンピースごとに切られているうちの一切れをつかんで、頬張った。口内に広がるフィリングはまるで、何度も何度も言葉を尽くして褒め殺したのかと思うほどに甘ったるい。
 咀嚼をすると、甘さとともに、いつかの兄貴の言葉が脳裏に広がる。

『このチェリーパイ、めっちゃめちゃうまいじゃん! 母さんの味にそっくり』
『シナモン入ってない。……エース、お前、超愛されてんね』
『カノジョ、エース好みの味目指して超がんばったんだろうな。うまかったって伝えといて』

 あれから何度も、監督生にチェリーパイを作ってもらった。その度にオレは「おいしいよ」の一言で済ませていた。それだけであいつは「喜んでもらえてよかった」と顔を綻ばせるから。
 けど今になってわかる。あいつが作ってくれるチェリーパイは食べるたびに美味くなってた。
 それは、時間にも小遣いにも余裕があるわけじゃないあいつが、オレのためだけに作っていたからだ。
 ――このチェリーパイだって、おいしい。おいしいけど、違う。
 似ているものより違うもののほうが、何かを鮮明に思い出させることがある。
 二切れ目の最後の一口を嚥下したところで、唇についた生地のかけらを親指で払うと、バスケットを持って部屋を出た。
 一階下の部屋をノックをすると、前髪を撫で付けながら、その子は顔を出した。

「トラッポラくん? なんで……ああ、バスケット。わざわざ返しにきてくれてありがと。……ねえ、味はどうだった?」
「……ウン。おいしいけど、オレはシナモン入ってないほうが好き」
「え〜? でも、シナモン入ってたほうがいい香りするし、おいしくなるって書いてあったよ?」
「オレは入ってないほうが好きなんだよね。あとさ、天面は網目になってるほうが好き」
「……あは、なに。トラッポラくん、わがままばっかじゃん。せっかくがんばって作ったのに」

 かろうじて笑みは張り付いているものの、きゅっと寄せられる眉根を見て、わけもわからずに頷く。

「……だよね。マジでわがままばっか」

 ぼそりと、水分の抜けきった声が落ちる。目の前の大して親しくもない女の子が戸惑うのが、その表情でわかる。
 さっきまで孕んでいたすこしの攻撃性をすっかりと失くした女の子は、なぜだか慰めるような声でオレに言った。

「……トラッポラくん、もしかして泣いた?」

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