赤のベルベットのカーペットは、目もくらむような輝きを放っていた。それが教員室に似つかわしいかと言われれば、肯定できる生徒はすくないだろう。
 デイヴィス・クルーウェルは、デスクに肘をつき、目の前の二人の仔犬を交互に見やった。魔法薬学のテスト前であるというのにわざわざ訪ねてきては、デスクの前に並び立った、二人の生徒。
 利口というわけではないが克明な性分であるオンボロ寮の監督生であるナマエ・ミョウジと、一方、克明とはいえないが器用で優秀な、エース・トラッポラ。この組み合わせであれば、積極的に悪さをはたらくとは考えづらい。
 顎を指先でなぞりながら思案していると、「気の長くないほう」の仔犬が、肩を揺らしてため息をついた。

「……で。クルーウェルセンセ、どうなんすか。オレとコイツの言ってること、ご理解頂けましたかね?」
「身の程を弁えた発言をしろ、トラッポラ。こいつの身に起きていることは十二分にわかった。このあとのテストで不正を働くはずの駄犬の名前も記憶した」
「ちゃんと取り締まってくださいよ」
「……クルーウェル先生。それで、なんとかしてもらえるんでしょうか」

 縋るような監督生の瞳であったが、そこにはまだ余裕があるのをクルーウェルは察知した。
 こいつの「今日」は三回目だと言っていたか。一人だけで同じ日を何度も繰り返し生きねばならない状況になんて、そうそう耐えられるものではない。かなり早い段階で原因に気付いたことと、彼女にとって信頼に値する人間がいたことが、何より救いだった。
 クルーウェルに鋭利な視線を向けられたエースは、たじろぐことはなくとも、訝しんで眉を上げてみせた。

「……どーなんすか、センセ」

 辟易したように片手を宙に翻してみせるが、ほんのすこし、大海に落とした一滴ほどの声の揺らぎを、クルーウェルは聞き逃さなかった。
 クルーウェルは顔の前で交互に組んでいた長い指を、クラシックでも演奏するかのように優雅に解いては結ぶ。その姿は、ふだんは威厳に満ちみちた教師が、もの珍しくも「思案」する様子として、二人の目には映った。

「……今から俺が言うことをよく聞け。冷静でいると約束しろ。……そしてその後は、よくよく考えろ。いいな、仔犬」

 海鳴りと同じほど低い声でそう紡げば、わずかに肩が揺れる。監督生の、ではない。他人に機微に敏いエース・トラッポラが、これからクルーウェルが切り出そうとすることの重さを、難しさを、となりに並び立つ彼女よりもじょうずに理解してしまったのだ。

「お前にかかった魔法を解くには、一度、意識を終わらせてしまうほかない。話を聞く限り、お前が眠り、目覚める瞬間に作用する魔法で間違いないだろう。検証されている解毒方法はただ一つ――『もう二度とこの人間は目覚めない』と体に思わせて、魔法を解く方法だ。……言っていることは、わかるな?」
「…………は? つまり、一度コイツが……死ななきゃならないってこと?」
「……『臨死』だ、バッドボーイ。臨死の魔法薬は俺が調合できる。ただし、数時間はかかる。ことのあらましと調合レシピをこのメモに書いておくから、覚悟ができたら俺のところへ持ってこい。今日でなくともいい。このメモさえ利口に渡してくれれば、説明も不要だ。今日の記憶があろうがなかろうが、俺のことは俺が一番わかるからな」

 言い終えると同時に万年筆を筆置きに寝かせたところで、苛烈な視線が手元を焼いていることに、クルーウェルは気付く。
 クルーウェルからまだ話していないことがあるのを、エース・トラッポラは悟っていた。まだ話していない、話すべきこと。言いたくないがために、最後まで言わずにおいてしまったこと。
 伸びてきた彼女の可憐な指先の寸前でメモを静止して、罪のない両の瞳を見た。けっして目を逸らさないと誓いながら。

「……ただし、だ。俺が『覚悟をしろ』と言ったのには、理由がある――」











 クルーウェルは、監督生に一枚の紙を渡した。
 すべらかで、ひと撫でするだけで上質なものだとわかるそれに、万年筆で書き付けたいくつかのセンテンス。「こと」の概要と、監督生の身に起きている事件を解決する、「とある魔法薬」のレシピが、書いた本人にだけわかるように記されていた。
 そしてそれを拳の中に収めているのは、メモを授けられた監督生ではなかった。

「エース、エース! メモ、返してよ」
「ヤダ」
「それがないと、私……――」

 彼女との歩幅の差にまったく配慮しないスピードで、エースは歩く。小走りでないとその背中に追いつけない。皮肉にも監督生はそれで初めて、今まで配慮されていた事実に気付いた。
 教員室を出てずんずんと進んでゆくエースは、授業がまもなく始まるというのにどこへ向かおうとしているのか。教員室を出た瞬間、剥ぎ取るように手の中からメモを奪われてから、一度もその歩調は緩まない。表情すら見えないが、必要以上のことはおろか、必要なことすらも喋らなくなった彼の背中から、不機嫌であることはかんたんに察せられた。

「エース……ほんと、お願いだから」

 軽く息を切らした監督生がやっとのことでエースのブレザーの裾をつかまえると、さすがに彼も足を止めた。
 それでも、頑としてひらかない手のひら。俯いた監督生の瞳にも、彼の手の中でくしゃくしゃになったメモの端が写る。
 とうとう授業開始のベルが鳴ってしまった校内。植物園の裏には、人の気配すらもなかった。ざり、とエースのスニーカーの底が、地面を抉る音がする。

「返して、エース」

 監督生の指先は遠慮がちに、固く結ばれたエースの右手に触れる。
 びくともしない代わりに、同じように俯いたエースから、低い声が漏た。

「……ぜったい返さねー」

 すこし震っているのは、腹のなかで渦巻く怒りにも似たなにかのせいだ。

「でも一緒に聞いたでしょ。それを見せれば、クルーウェル先生が助けてくれる」
「……ハ、お前こそちゃんと聞いてたわけ? 百パーセントまだ目が覚めるわけじゃないってトコも? もしかしたらそのまま目覚まさないこともあるってトコも、ホントにちゃんと聞いてた? まさかヤなことだけ聞こえない都合のいい耳してるんじゃないよね?」

 怒りを通過して二十メートル。やっと振り向いたエースの、いびつに歪んだ口角に、呆れが滲んでいた。

「……私、ちゃんと聞いてたし、わかってるよ」
「聞いてない。聞いてねーよ! お前はちゃんとわかってない!」
「…………」
「……ゴメン。怒鳴って」

 丸く見開かれた彼女の瞳に、驚きはあっても恐怖はないことにほっと胸を撫で下ろして、エースは大きく息を吐く。
 クルーウェルの薄い唇から紡がれた言葉を聞いているうちに、どんどんと体中の温度が上昇していくのを感じていた。喉元を超え、頭にまで到達したそれは、冷静さを奪ってしまう。
 要は、ひどく動揺していた。『この方法を取らなければ監督生に永遠に明日は来ない』ということと、『でもこの方法をとれば、監督生が二度と目覚めないかもしれない』という二つの事実が、交互に心臓を切り付けて、息もできなくなりそうだった。
 ――べつに、こんな心配もなかったように、いつも通りの間抜けな顔のまま、オレの腕のなかで目を覚ましてくれればいい。けど、そんな保証なんてどこにもない。
 自分の力ではどうすることもできない、そのもどかしさに打ちひしがれて、膝が震えていた。

「……あのさ、エース、もしかして心配してくれてるの? それなら大丈夫だよ。クルーウェル先生も、『万が一のことだ』って言ってたし」

 それでも彼女のやわい笑みが、エースの煮えたぎるような言葉すら喉元で打ち消してしまう。

「…………監督生、なにお前、なんでそんななワケ? 死ぬかもしんないのに」
「かも、でしょ。そんなこと言ったら、きりないよ。普通に生きてたって明日何が起こるかわかんないんだし。この薬は、死なない可能性のほうが大きいんだから」

 監督生は自分の身の安全にあまり執着しない。エースは時々ぞっとするほどに、それを痛感させられる。
 奥歯をつよく噛み締めて、自分のとまったく温度の違う、ぬるい瞳を見据えた。

「……けどオレ、見たくねーよ。お前が目の前で死ぬのとか、ぜったいヤダ。うん、無理」

 大真面目に、人生最大のわがままを言っている。拳のなかのメモをすぐに破ったり捨てたりしなかったのは、ほんとうはダメだとわかっているからだった。
 監督生は、自分を見据えるスカーレットの瞳に透明の幕が下りているのを見て、今日を繰り返す前の夜のことを思い出した。
 もし私が死んだら。その問いに彼は、『でも泣き顔なんかダセーし、一生見せたくねーよ。もしそんな日が来ても、一滴も涙零さないように毎日練習しとく』と古い天井を見上げたまま答えたっけ。
 すこし微笑んで、彼女は人生最大の反論をする。

「でも私は、今日じゃなくて明日、エースに『誕生日おめでとう』って言いたいから」
「……は、はあ? んなこと、どーでもいいじゃん。オレは、お前のこと心配してんのに」
「わかってる。エース、泣きそうだもんね」
「はは……どこが。泣いてないでしょ、どう見ても」
「エース、お願いがあるんだけど、いい?」

 なに、と拗ねたような声色で顔を上げるエースの指に、彼女は自分のそれを絡めた。
 エースには言わないが、もし自分が死んだら、この体をきつく抱き締めていてほしいと思う。せめて、十五分ぐらいは。
 エースの体温は、まるでその皮膚の内側に焼却炉でもあるのかと思うぐらい、いつもじんわりと熱い。今も指先から伝導するその熱が、ひどく心を落ち着けてくれている。

「……『何回でも頼って』っていうエースの言葉、信じる。だから……覚悟ができたらエースに、そばにいてってお願いするから。きっとこんなこと言っても覚えてないだろうけど、そしたら、何も聞かないで、抱き締めてほしいの。今だけでいいから、約束して」

 きっとそれがいちばん幸せだ、と確信していた。
 悔いなど微塵も残らない、とは言えないが、変わり映えのない今日をなぞるうちに、知ってしまっていた。エースの優しい部分。憎まれ口を叩きながらも、何か起きればすぐにその温かい手を差し伸べてくれることも、いつも歩調を合わせてくれていたことも、目が覚めたら指先を絡め直してくれていたことも。
 いつもそんなふうに自然にそばにいてくれたエースが、永遠かもしれない眠りにつく瞬間も、変わらずそばにいてくれたら。その少年のような笑顔をまた見たくて、すぐに目覚められる気がするのだ。そんな気が、するのだった。

「……わかった。いーよ。約束する。その代わりナマエも、ちゃんと『明日』、オレのこと祝ってくれるって、約束して」

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