監督生はオンボロ寮のベッドに、昨夜はいなかったはずのエースがまたすうすうと寝息を立てるのを見て、思わず声量もはばからない悲鳴を上げた。
 急な大声に驚いたエースの体がびくりと跳ねて、ベッドに数センチほどめり込んでから飛び起きる。
 
「オワア、なに!? えっ、なに!」
「あっ、ごめん……急に大声出して……」
「も〜、びっくりしたじゃん……なに〜、どしたの。悪夢でも見た? ダイジョーブ?」
 
 目を擦りながらそう言うエースに、監督生は平謝りをやめた。てっきり恨み言のひとつやふたつを浴びせられるのかと思っていたのに、エースの口からは「ダイジョーブ?」なんて言葉が紡がれたからだ。
 たまに柔らかくなるエースの声色を、まるで恋人に対して吐かれるそれのようだと、彼女は感じることがあった。もちろん、エースにそんなことは口が裂けても言えないが。
 
「……悪夢は見てないよ、大丈夫」
「そお? ならいーけど。いつも起きる時間より二十分早いし、もうちょっとだけごろごろしてようぜ」
「う、うん」
 
 髪に寝ぐせをつけたままぼすんと再びベッドに体を預けるエース。
 念じるように監督生が盗み見たスマホの画面の日付は、彼女にとっての「おととい」から変わっていなかった。
 あの事故を回避したというのに、同じ日を繰り返すのは三回目になってしまった。冷静でいるために、一度ベッドに体を預けた監督生だったが、頭の中はぐるぐると渦巻いていた。魔法薬を浴びたことが引き金でなかったのなら、このループの一切の理由が分からない。
 頼みの綱であったクルーウェルにも「最初のこの日」の記憶がないとくれば、誰にどう相談すればいいのか。自分はここから抜け出せるのか。
 天井を見上げたまま硬直する監督生の髪の先を、さらりと遠慮がちに梳いたのはエースだった。
 
「……ナマエさ〜、今朝はどうしたのホント。ぼーっとして。なんか考え事?」
 
 面倒事には巻き込むなといつも念押ししてくる彼だったが、なんだかんだいつも、そのスカーレットの瞳がそばにあってくれたことを思い出した。
 ――まず、エースに。エースにそばにいてほしい。
 今朝目覚めたとき、彼の温かい指先と自分の指先がほどけていたことも思い起こして、恥をしのんで掠れた声でねだった。
 
「相談したいことがあるんだけどさ、手、繋いでてもいい……?」
「…………いー、けど。ハイ」
 
 エースの大きく平べったい手が、ぱくりと捕食するように伸びてきては、ひとまわり小さい監督生の手を包んだ。それが照れ隠しだと彼女は知らない。
 外が明るい頃合いに、指を絡めるのは初めてだった。きっと紅潮しているだろう頬には強く朝日がさして、気付かれなければいいのにと願いながら、監督生は自分に起きていることの次第をぽつりぽつりとエースに零し始めた。
 なぞった時系列が「いま」に到達すると、エースは制止するように手のひらを突き出し、顔をしかめる。 

「――えーと待って待って監督生、しゃべんのはえーよ! そんなトンデモ話、一回聞いただけじゃよくわかんねーし。つまり監督生の『今日』は三回目だってこと? 『一回目の今日』に魔法薬浴びちゃって? 自分だけじゃ元に戻る方法わかんないから困ってるってこと? で、それをまずオレに相談したいと思ったってこと?」
 
 ベッドの上にあぐらをかいた彼は「よくわかんねー」という言葉に反して完璧な復唱をしてみせた。「そうです」と監督生が頷くのを「ふうん」と険しい顔で見て、やがてにやりと口角をつり上げた。
 
「ナマエってさ〜、やっぱオレのこと、めっちゃ頼りにしてんじゃん。ほんとオレがいねーとなんもできねーよなあ」
「茶化さないでよ! 本気で相談したのに!」
「ゴメンって。でも、まだよくわかんねーよ。……あ、お前のこと信じてないとかそういうわけじゃなくてさ」
 
 誠意を伝えるためにか、きゅっとエースの指が彼女の指を握る。反対の手で頬をかく。そのようすから、エースが自分のことを茶化したり馬鹿にしたりしているわけではないことは読み取った。
 エースはエースで、監督生が本心から助けを求めてきていることは、その表情や視線から確信していた。彼は、他人の機微には敏感であると自負していたし、実際にそうだった。
 
「そうだよね。ごめん、突然こんな話して……私自身もまだよくわかってないのに、わかってなんて変だよね。……でも、とりあえず今日、一緒にいてほしいんだ、私と」
「……うん。わかった」
 
 戸惑い交じりに頷いたエースと一緒に寮を出発すると、おとといと昨日と同じ時間に同じルートで魔法薬学室に向かう。
 
「もうすこししたらケイト先輩が前から『おっはよー』って来て手を振ってくれるから、普段どおりにしてみて」
「普段どおりって言ったって……まあうん、わかった」
 
 しばらくののち、前からやってくるオレンジの髪を認めたエースは監督生を一瞥する。
 
「あ、おっはよー! エースちゃん、監督生ちゃん!」
「……ケイト先輩、ちーっす」
「おはようございます」
「あ〜、またお泊りしてたでしょ。仲良しだね〜! 遊ぶのもいーけど、リドルくんに目付けられないようにしなよ?」
「はいはーい、オンボロ寮でもちゃんと消灯時間に寝て起床時間に起きてマース」
「ならいーけど! じゃね、エースちゃんたちも授業頑張って〜」
「――あ、ケイト先輩、ぶつかりますよ!」
 
 ケイトの背後にブロンドの髪が見えた監督生は、思わずケイトのブレザーの裾を掴んで引き留めた。ケイトとヴィルの背中はわずかに擦れ合うだけで、ぶつからない。
 
「おっとっと〜、ホントだ、ヴィルくんによそ見しないでって怒られちゃうトコだった。監督生ちゃん冴えてんね、ありがと!」
 
 遠くなっていくケイトの背中を眺める監督生に、エースは目を丸くして「……マジじゃん」と言う。「だからマジだってば」と返す監督生の顔をじっと見つめたあと、エースは何かを思いついたように表情を明るくした。
 
「じゃあさ監督生、昨日とおとといはどんなパターンだったのか教えてよ。魔法薬学のテスト、どーだった? オレお前と組もうと思ってるんだけど、昨日のオレもそうした?」
「そうだね、私たちはたぶん成功だったけど、そのあと爆発が起きてこうなったんだよね」
「っはは! なるほどね〜。他には? 昨日のオレとおとといのオレとはどんな話した?」
「大した話はしてないと思うけど……」

 そう言ってここ二日の彼とのやり取りを思い出した監督生の胸の奥に、じんわりと熱いものが広がる。
 エースは、優しい。もっとも彼のことを冷酷だとは思っていなかったが、しかるべき見返りを求めたり対等な関係性を保とうとする人間だと思っていた。
 そういう「エースに対する印象」が、繰り返される今日のなかで覆りつつある。ことあるごとに「大丈夫か」と自分のことはそっちのけで目を向けてくれるエースに気付いてしまった。彼が言った「特別だ」という言葉に相まって、エースにまっすぐな親愛を向けられているような気がしてならないのだ。
 でも、そういう柔らかな言葉をエースはひどくくすぐったがる。監督生はすこし迷ってから切り出した。

「……ちょっとだけ見る目変わったかも。エースって意外と情に厚いんだなって思った」
「は? それ、どういうイミ。オレ、お前に慈悲の言葉でも言ったの?」
「ううん。きっといつも優しかったんだろうけど、同じ日を繰り返してみたらよくわかっただけ……かな」
「オレが『優しい』って?」
「うん」

 体のいやな部分に触れられているみたいにエースの表情は曇った。後ろ髪をいじりながら沈黙したあと、あいまいな声で監督生に問う。

「ちなみにさ……それに対して、オレ自身はなんか言ってた?」
「言ってた……けど、おとといのエースに忘れてって言われたから」
「いーよ、教えてよ。今日のオレがいいって言ってんだからいいでしょ?」

 それもそうかと監督生は思い直して、しまっておいた彼の言葉を取り出した。他人の紡いだものとはいえ、なぞるのも照れ臭いようなその言葉。

「……トクベツだから、って」

 すこし掠れた声がちぎれて、監督生とエースのあいだに落ちる。
 「オイオイ、嘘教えんなって」だとか「うげえ気色悪い」だとか、そういう言葉を覚悟しておそるおそるエースの表情を窺ってみるが、そこには監督生の予想したエース・トラッポラはいなかった。
 不服そうにぎゅっと結われた唇に、赤く色付いた頬。まるで自分のなかにあったものをずばりと言い当てられたかのような表情に、彼女はつづきの言葉を詰まらせる。
 先に唇をほどいたのは、彼のほうだった。

「……そーだよ」
「え?」
「……そーだって言ってんの。オレお前のことそう思ってるよ、トクベツだって」

 エースの腕章のリボンが風に遊ばれて、視界の隅ではためく。

「おとといのエースと言ってることちがうけど……。おとといのエースは、忘れてって言ったのに」
「おとといのオレは、でしょ。でも事実だし、聞いちゃったのオレだし、お前が忘れてないなら意味ないじゃん」
「あ、ごめん……」

 俯く監督生の手首を、エースが拾い上げた。彼の寄せられた眉根は緊張が滲んでいて、それは監督生にも伝播した。

「困ってるならオレが助けたいと思うし、オレがそばにいてやりたいって思うのは、お前ぐらいだよ。だからたぶん、お前が特別なの。……こんなこと言うの超くすぐったいし恥ずかしいけど、たぶんオレはナマエに頼られたら、何回でもこう言うと思う」
「エース……」
「だから約束して。今日がダメだったら、何回でもオレを頼ってよ」

 スカーレットの瞳はまっすぐに監督生のそれを射抜く。あまりに切実な視線に、監督生は喉を枯らしたまま頷くほかなかった。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -