その夜、監督生のもとにはエースから「大丈夫か?」とメッセージが入った。
 部活に行ったエースを見送ってから三時間ほどしか経っていない頃合いだったので、よっぽど心配してくれているのだろうと胸のあたりが温かくなる。
 まだなんの変化も起きていないことを明るく告げて、いくらか他愛もないやり取りをした。
 そして、ほんとうに一晩中起きていてもらうのは申し訳ないと思い、「もしも何かが起きたら電話をする」「だからちゃんと寝てほしい」と念を押して連絡を終えた、はずだったのに――。
 目が覚めると指先にじんわりと熱を感じる。
 はっとして顔をもたげると、ぼんやりと半分だけ瞼を上げたエースの姿があった。カーテンの隙間からさす光が、まだフェイスペイントの描かれていない白い瞼を照らしていた。昨日眠るときはなかったその姿。
 監督生は、まだ回らない頭で状況を整理する。
 
「あれ? なんでエース……?」
「オハヨ。今日はいつもより寝起きいいじゃん」
「いや、エース、なんでここで寝てるんだっけ? 昨日の夜中に来たの? あ、誕生日、おめでとう!」
「ははカントクセー、まだ寝惚けてやんの。誕生日は明日だし、オレだってあと四時間は寝てたいよ。昨日ジャミル先輩とやった1on1の疲れ、全然取れてないしさあ」
 
 エースが肩をごきごきと鳴らすふりをするのを目にした監督生に、波のように遠くから押し寄せてくる既視感。
 触れ合ったエースの指先の温度は変わらないが、なにかがおかしかった。
 
「……手、繋いだままだった」
 
 試すように、昨日自分が言った言葉を吐いてみれば、エースはふっと目を細めて笑う。
 
「……ウン。オレ寝相いーから」
 
 顔の半分を枕に埋めたまま紡がれる台詞を、監督生は知っていた。なにかがおかしい、と確信した。
 飛び起きてスマホの画面を確認すると、案の定「昨日」にあたる日付――9月22日――が表示されていた。
 かすかな希望を込めてエースに「昨日どんなことがあったか覚えてる?」と尋ねると、
 
「昨日はアレじゃん。デュースがつまずいて食堂でカレーひっくり返した」
「他にはー、グリムの手はツナ缶の匂いするって話もしたよな」
「あーあとさ、ドラマでオレの好きなキャラが死んだ。アレ実はけっこーショックだったんだよね。だから寝る前、お前にあんな質問したんだけどさ。キモかった?」
 
などとバリエーション豊かな回答が返ってくるが、そのどれもが、監督生にとっては「おととい」の出来事だった。
 魔法薬を浴びた監督生の体に何が起きるかわからない、という事実はエースの頭からはすっぽりと抜け落ちているらしい。
 もしかしたら、自分だけが昨日をやり直しているのかもしれない。
 彼女は半信半疑のまま身支度を整える。まだ朝っぱらだから落ち着くべきだと、自分に言い聞かせながら。
 
 




 
 


 
「あ、おっはよー! エースちゃん、監督生ちゃん!」
「ケイト先輩、ちーっす」
「おはようございます」
「あ〜、またお泊りしてたでしょ。仲良しだね〜! 遊ぶのもいーけど、リドルくんに目付けられないようにしなよ?」
「はいはーい、オンボロ寮でもちゃんと消灯時間に寝て起床時間に起きてマース」
「ならいーけど! じゃね、エースちゃんたちも授業頑張って〜」
 
 ぱちぱちとただ瞬きをする。全く昨日と同じやり取りだった。
 自分の身に起きていることを確かめるために、何も言わずに突っ立っていることをどうか許してほしいと、監督生は拳を握って念じる。
 するとやはり、軽やかなケイトの足取りは、もうひとつの背中にどんとぶつかって停止した。その手からスマホが零れ落ちる。
 
「あら、ごめんなさい……ってケイトじゃないの。さては、よそ見してたのアンタのほうね」
「わーごめんごめんヴィルくん! 一年生ちゃんたちがかわいくって、手振ってたらつい!」
「構わないけど、スマホは大丈夫なの?」
「大丈夫! このスマホケース、オレに似てタフだし!」
「……ならいいわ。ケイトは相変わらず朝から元気ね。それと、さっきから気になってたんだけどアンタ」
 
 すい、とヴィルの視線が移動してくるので、監督生は思わず身をこわばらせるが、はっとして姿勢を正した。
 
「ネクタイが――」
「曲がっていますよね! すみません、みっともなくて」
「……べつにいいわ。まったく、気付いてたなら直しなさいよね」
 
 監督生が自分で襟元を正せば、ヴィルの流麗な指先はこちらへやってこない。呆れたように「じゃあね」と去ってゆく背中を見て、監督生のなかの疑惑めいたものは確信に変わりつつあった。
 
 
 
 
 






「いいか、仔犬ども! 今日の試験では、ここ三回の座学で教えた『体を透明にする魔法薬』を実際に作ってもらう。
 二人一組になって鍋の前に並んだら、中央の机に置いてある薬品の中からふさわしいものを選んで、ふさわしい製法で作ること。
 できたペアから、入れた薬品を書いたリストと、できた魔法薬を机に置いてステイだ。いいな?」
 
 ――私はどうやら、やっぱり二回目の「昨日」を繰り返しているみたいだ。
 そしてその理由は恐らく、クルーウェルの言っていたとおり、昨日浴びた魔法薬と、自分が日頃から飲んでいる魔法薬とが体内で混ざってしまったからだということも、彼女はなんとなく察していた。
 しかしそうとわかれば、魔法薬を浴びずにやり過ごせばいい。
 
「監督生、オレとやろーよ」
 
 ゴーグルを押し上げるエースに「うん」と軽い気持ちで頷いて、杓子を鍋につける。昨日と同じで特に躓くこともなく進んでゆく工程。鍋からよそ見はしないが、意識だけはエースの背後に集中させていた。
 やがて「すげー匂い」と顔をしかめるエースの背後に、うっすらとライムグリーンの靄が立ち込めているのに気付くと、監督生は息を大きく吸って叫ぶ。
 
「く、クルーウェル先生―! なんか危ないです! 煙が!」
 
 監督生が指をさした方向に視線が集まる。ちょうどそことは対角のチームの作業に視線を取られていたクルーウェルは眉間に皺を寄せると、すばやく指示棒をかまえた。
 
「仔犬ども、伏せろ!」
 
 クルーウェルがそう叫ぶのと同時に指示棒を振り上げれば、バタバタバタ、と嵐にさらされたようなけたたましい音とともに、教室中の窓が次々に開いてゆく。直後、爆発音とともに同時に切り裂くような金属音がして、灰色の薄い膜のようなものが教室中を覆った。
 白い靄はすぐに開け放された窓から逃げていき、ほんの十数秒で視界は開ける。突然のことに呆然とする生徒たちの顔には傷どころか、すすひとつついていない。
 教壇のうえで涼しげに革靴の底を鳴らしたクルーウェルが、
 
「……怪我はないだろうな、仔犬ども」
 
と呼びかけると、生徒たちの歓声が沸き上がる。
 
「今の、センセーの防衛魔法っすか!? なんでもできるんすね! すっげえ!」
「早いし範囲もものすごかったです! かっけえ! 一生付いて行きます!」
「鎮まれ、仔犬ども。どれだけデタラメな調合をしてもけっして危険な事態にはならない薬品しか置いていなかったはずだが……どこの駄犬だ、お気に入りの餌を勝手に持ち込んだのは?」
 
 クルーウェルの視線からして、すでに犯人の目星はついているらしかった。
 とあるチームにふだんの五倍ほどの量の課題と、吹き飛んでしまった薬品と小瓶の片付けを言いつけると、魔法薬学の授業はすこし早めに終わりとなってしまった。
 
「あーあ、マージでびっくりした。監督生、大丈夫だったの?」
「大丈夫だよ。クルーウェル先生の魔法、すごかったね……なんか一瞬、宇宙が見えた」
「うん、爆発起きてんのに一瞬暗くなったよな。なにが起きたかわかんなかったわ。てかお前も、よく危ねーって気付いたよね」
「あ、うん……」
「オレだったら失敗したの誰だろーってのんきに覗きに行ってたわ、ハハ」
 
 エースが「行こうぜ」とテキストの背で監督生の背中をたたく。これでいつも通りの明日がやってくるはずだ。
 ただ、昨日エースと交わした言葉や今日エースと交わした言葉が「存在しなかったこと」になると思えば、それだけが悲しいことだった。
 いつでも連絡をしろと言ってくれた事実、一晩中起きててやってもいいと言ってくれた事実、そしてそれは「特別だから」というエースの言葉が。
 「忘れて」と彼ははぐらかしたが、乱雑に掃いた床のように、拭いきれない一抹の期待が監督生の胸には残っていた。
 この二日の間に彼からもらった温かさは、自分の心の中にひっそりとしまっておくしかないのだと理解した監督生は、革靴の底で静かに地を蹴り、エースの背中を追いかける。

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