「いいか、仔犬ども! 今日の試験では、ここ三回の座学で教えた『体を透明にする魔法薬』を実際に作ってもらう。
 二人一組になって鍋の前に並んだら、中央の机に置いてある薬品の中からふさわしいものを選んで、ふさわしい製法で作ること。
 できたペアから、入れた薬品を書いたリストと、できた魔法薬を机に置いてステイだ。いいな?」
 
 クルーウェル先生の合図とともに「ハイ!」と切れのよいデュースの声と「ハーイ」と間延びしたエースの声が両隣から聞こえる。
 
「監督生、オレとやろーよ」
 
 顎下に落としていたゴーグルを額まで押し上げながら、エースは監督生の背中を小突いた。
 昨日の夜も今朝も、あれだけおさらいを繰り返していた監督生とグリムなら、自分もスムーズに試験をクリアできるだろうと踏んでのことだ。ついさっきまで教科書を見てウンウン唸っていたデュースには声を掛けないあたり、エースはずるがしこい。
 そういう彼の予想通り、二十分後には、大して躓くこともなく鍋の中の液体は思い描いていた色や質感になりつつあった。
 
「監督生、そろそろ粘り気出て来たし重いでしょ。交代してやろっか」
「あ、ありがとう」
 
 監督生の持つ杓子をエースが取り上げると、彼の力で底まで力強くごっそりと混ぜ合わさった液体が、独特のにおいを放ち始めた。
 「すげー匂い」と顔をしかめるエースの背後に、うっすらとライムグリーンの靄が立ち込めているのに気付く。
 
「……ん? 向こうのチーム、失敗してるのかな。あんな色にはならないはずだけど」
「えーどれ……うわホントだ。なんか焦げくせーし……デュースだったら笑ってやろ――」
 
 悪戯っぽくエースが笑った瞬間、教室内が鈍い爆発音と、目の奥を焼かれるような閃光に包まれる。
 数々の生徒が同時に悲鳴を上げた直後、30センチ先も見えないような真っ白の煙がにわかに周囲を埋め尽くし、今度はどよめきが上がった。
 
「おわ、なにこれ!? 監督生、お前大丈夫!? そのへんにいる!? 生きてる!?」
「大丈夫、だけど……エースもグリムも見えない!」
 
 それぞれが自分たちの鍋を守ろうとしているのか、視界が悪いなかあちこちを蠢いているのが物音でわかる。
 
「仔犬ども、落ち着け! この煙に害はない。今窓も開けた!」
 
 クルーウェルの声はどよめきに隠されてしまった。
 どうしても魔法薬学の成績がほしいという生徒たちの熱心さ――クルーウェルへの恐怖心といったほうが正しいか――が裏目に出たか、生徒たちは自分の成果物を守ることしか頭にないようだった。
 監督生も必死に手探りでエースとグリムを探すが、その代わりに得られたのは鈍い衝撃だった。
 「悪い!」と謝る声を、おそらくクラスで一番の図体を誇るクマの獣人のものだと断定するより前に体がぐらつく。そして、ここで考えうる「最悪の場所」に倒れ込む。
 ばしゃり、とクリームたっぷりのパイを顔面に投げ付けたような鈍い音がして――。

「ちょっとカントクセー!? 今お前がいたほうからイヤな音したけど!?」

 エースの声に答えることもできず、肩から豪快に鍋に突っ込んだ監督生は小さく、悲鳴にならない悲鳴を上げる。あきらかに金属製の鍋が地面に落下した音を聞きつけた生徒たちは状況を察して、よりどよめきを増大させた。
 
「駄犬ども! ステイ、と言っているだろう!」
 
 これまでに聞いたこともないクルーウェルの剣幕とともに、ごうごうと風が巻き起こる。生徒のものではないと一目でわかる威力の風魔法だった。
 一瞬のうちに純白の煙は姿を消し、晴れた視界のもと、ただひとり毒々しいピンクの液体を体中からしたたらせる監督生に、教室中の憐憫めいた視線が集中した。
 





 
 
 
 

「――で、クルーウェル先生はなんて?」
 
 エースは濡れそぼった犬のような監督生の頭に、放課後の部活で使う予定だったタオルをかけてやった。
 シャワーを浴びなければ取れないほどの刺激臭をまずどうにかしなければ、とオンボロ寮に戻る監督生の消沈した足取りを放っておけず、付き添って教室を出てきたのだ。
 
「……失敗したのは別のチームだし、事故だってことは分かったから『ただ仔犬が気の毒だ』って。試験は次の授業でやり直すって。……せっかくエースが組んでくれてうまくいきそうだったのに、ごめんね」
「うーわ、なに? お前さあ、こんなときまで謝んなっての。聖女サマかよ」
「……そう言ってもらえたとこ悪いけど、めちゃくちゃ怒ってるし、しょげてるよ」
「ハハ、だよね。オレだったら、ミスしたチームのことぶん殴ってるかもしんない」
「エースは短気だなあ」
「てかそんなことよりさ、頭っから魔法薬かぶってたけど、体はなんともないわけ? オレらの調合が成功してれば、今頃監督生の体は透明になってるはずじゃん?」
 
 いたって何の変化もない監督生をまじまじと見やるが、監督生も要領を得ないようすで「そうなんだよね」と自分の手のひらを閉じたり、開いたりするだけだった。
 
「エースしか知らないことだけど……私はもともと魔法薬を飲んでる、でしょ? だから二種類の魔法薬の作用が混じってしまったんじゃないか、ってクルーウェル先生は言ってた。片方の作用が消えるだけならいいけど、そんな都合のいいことはないだろう、とも言ってた」
「じゃあどうなんの、お前」
「変異してまったくべつの作用が出るかもしれないから、何かあったらすぐに言うようにって」
「マジかよ、そんだけ? 自分の体に何が起きるかわかんないって、怖くね?」
「……怖いよ。もちろんクルーウェル先生は調べてくれてるから、今は結果を待つしかないけど」
「えーどうしよー、オレ、もしナマエがオレよりムキムキになったりしたらショックだわ」
「……真面目に心配してよ」
 
 今朝、一緒に出たばかりのオンボロ寮に辿りつけば、監督生が髪にこびりついた魔法薬を落とすシャワーの水音を、エースはぼんやりと聞いていた。
 落ち込みやすい監督生を元気づけようとあんなに軽いリアクションをとったが、例えば寿命が縮まるとか、記憶がなくなるとか、そういう悪い事態になったらと想像すると、自分の気持ちのほうがだんだんと曇ってきてしまう。
 当の本人である監督生は、いまだ凪いだ表情でシャワー室から出てくると、濡れた髪を拭いていた。
 
「ごめんねエース、このタオル。洗って返すね」
「いーよ。替えならいくらでも寮にあるし」
「じゃあ、明日返す」
「うん。いつでもいーよ」
 
 監督生と話しているとき、自分の声が想像よりもはるかに柔らかかったり、甘かったりする瞬間がある。今もそうだ。そのたびにぎょっとしてしまう。
 気味が悪くて、自分は幽霊にでも背筋をなぞられているような心地になるのだが、監督生の表情はどこか安心したようにほころぶのが、エースにとってはたったひとつの疑問だった。
 
「なあ、監督生」
「うん?」
「……もしなんかあったら、オレに連絡入れて。今日は寮の消灯点検に当たってるから外泊はできないんだけど、お前から連絡あったら動けるようにはしとくから。なんなら朝まで起きててやってもいーし。ナマエは時間とか気にせずに、電話でもメッセージでもしてよ。……あー、ナマエが、もし不安だったらの話ね」
 
 誰かに優しくしようと思って、優しくするのは苦手だ。くすぐったいからだ。それなのに自分の唇からはいっとう思いやりにあふれた台詞が零れてしまったので、エースは頬を掻いた。
 しかし監督生はそんなエースの言葉を、いつもまっすぐに受け取る。
 
「ありがとう、エース。優しいね。ムキムキになりそうになったら、泣きながら電話するね」
「……無視しよーっと」
「あ、ひどい。でも本当にありがとう」
「……いーよべつに。お前は――」
 
 ――お前は特別だし。ていうか、お前にだけだし。
 そんな言葉が喉元までせり上ってきたのを、必死で飲み下した。まるで、監督生はただの友達のひとりではないと、それ以上の存在なのだと言っているみたいだ。いや、ふと浮かんだということは、自分はそう思っているのだろうか。
 沈黙に戸惑って目をぱちぱちと瞬く監督生をよそに、エースはぐるぐると頭の中で感情を巡らせていた。
 彼女に優しくしたくなるのが、なぜなのか。好きな友達にはもちろん優しくする。無償ではちょっとキツイけど、そこはいい具合にギブアンドテイクで。
 そういう優しさと「この優しさ」が同じなのかと聞かれたら、どうも違う気がするのだ。
 監督生のために一晩中起きてることなんてたやすいと、どうしてこうも自信満々に思えるのか。むしろ、消灯点検をどうにかこうにか撒いて一緒にいてやれないかなんてことを、今も考えている。
 自分にとって監督生はなんなのか。
 昨晩、眠る前に寝惚けた頭で話したたとえ話を思い出す。
 監督生がいなくなったら、自分はどうなるのか。
 その答えはわからないがただ漠然と、このままの自分を保てないような気がしていた。
 
「……エース?」
「……お前は、なんか……オレの、トクベツ……だから」
 
 頭のなかで渦巻く言葉たちをまとめられないまま、エースはただ自分が確信できていることだけを彼女に告げた。
 その四文字にどんな意味が込められているのか、自分自身も知らないままに。
 
「え?」
「ンー……いや! やっぱ、なんでもねーわ。忘れて!」
「忘れてって言ったって……」
「まあとにかく、お前はツボにハマるとクヨクヨするタイプでしょ? あんま考えすぎんなって。明日になったらクルーウェル先生も何かしら分かったこと教えてくれるでしょ」
 
 まめのできたエースの固い手のひらが、彼女の湿った髪をくしゃりと撫でる。
 それは、生まれたばかりの一抹の違和感までうやむやにしてしまった。

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