ミュテの従者1


 サンディは窓際の椅子に腰かけた。白い花と真珠の髪飾りが揺れる。
 彼の真の名は「サンディ」ではない。これは彼が大変気に入っている、友に貰った名だった。
 多くのものをサンディは持っていたが、それらはどれも自分が所有しているという実感がなかった。しかしこの名前に関しては唯一自分のものだと確信することができる。それは今までぼんやりとしていた自身の輪郭をはっきりさせることに役立っていた。
 そんな名前を与えてくれた無二の親友が、もうすぐ帰ってくるのだ。
 気儘な友人は、旅立つ時も去る時も何の前触れもなく唐突だ。どんな時もそうだから、不満に思う反面、その自由さに憧れる。自分など、どこで何をするにも誰かへ告げなければならない身分だ。
 サンディは友の帰りを心待ちにして、日々窓の外の景色を眺めていた。
 ふと見れば、窓辺に緑の葉が一枚のっていた。風で運ばれてきたのだろうか。おもむろに取り上げてみると、葉には見知らぬ文字が一字、刻まれていた。これは合図だ。
 彼が帰ってきたのだ。
 サンディは立ち上がった。


 ムタは大樹から伸びる太い枝の上に横たわっていた。
 そよ吹く風が心地良い。枝に茂る葉が陽光を遮り、それでも隙間からこぼれて体の上へ落ちた。ムタは腹の上に開いて伏せた本をのせ、つかの間居眠りをしていた。どこかから花の香りが運ばれてくる。
 この辺りはどこにいても、花の香りが漂ってくるのだ。
「ムタ・ファトファト」
 遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
 ゆるゆると目を開け、首をよじってそちらの方を確認してみた。誰かが走ってやってくる。
 危なっかしい足取りだ。長い衣の裾を持ち上げている。
 それが誰だかわかると本を脇に抱え、枝から飛び降りた。自分の背丈の倍より高い位置にある枝だったが、ムタにとって怯むような高さではない。
 袖のない短い外套から腕を出し、腰に手をあてた。
「ムタ、帰ったのですね」
 乱れた呼吸を整え、サンディは言った。白磁のような白い肌だが、駆けてきたせいか頬に赤みがさしている。白銀の細い髪には花飾りがついていて、銀糸で縫い取りをした深緋色の衣装を身にまとっていた。
「随分とめかしこんでるな」
「これは式典用のなんです。衣装合わせをしているところで」
 瞳の色も緋色である。サンディはその場でくるりと回ってみせた。
「よく似合うよ、サノ」
「ありがとうございます。でも、その名ではなくて」
「何のことだ」
 知っていながらわざと惚けてやった。
「ムタは、意地が悪い」
 サンディが拗ねたような顔をするので、ムタは笑った。
「悪かった。悪かったよ、サンディ」
 この名で呼ばないと彼はすぐに機嫌を損ねる。ムタにはそれが面白くて、ついからかいたくなるのだ。
 「サンディ」というのは、ムタがあちこち旅する中で目にした白い花の名だった。雪より白く儚げで、しかし凛としたその姿に彼の姿が重なったのだ。その話をした時、サンディは大いに喜んだ。
「また新しい文字を見つけたのですか」
 花と同じ名のサンディは、ムタの本を指さした。
「まあな」
 ムタの趣味は文字を集めることだった。各地を旅して、文字を見つける度本に書きとめている。サンディがそれに興味を持って、城に寄れば教えてくれとせがまれた。
「ミュテ。サノ・ミュテ。どこにおられるのですか」
 今度はサンディを呼ぶ女の声だ。
 ここでは皆、彼を王の子供であることを意味する「ミュテ」と呼ぶ。真の名はサンディではなくサノで、サノ・ミュテとは「王の子サノ」という意味だ。
「いけない。女官が私を捜している」
 サンディは振り返った。戻らねば、とまた裾を持ち上げる。「ムタ・ファトファト。今日は泊まっていって下さい。旅の話も聞きたい。夕食をご一緒にどうですか」
 ムタが頷くと、サンディは相好を崩した。それから慌てて走っていく。
 ムタは彼が向かう象牙色の巨大な城を仰いだ。ここは黒いゾウ一族の王の息子、サノ・ミュテの城である。
 黒いゾウの一族は人の姿に化け、人の世で暮らす。彼らはゾウでありながら花から生まれるという、特異な種族である。
 木の幹に寄りかかり、青い空を背景にして建っているその城を、ムタは長らく見つめていた。こうも大きいとこの距離では視界におさまりきらない。多くの者が暮らしていることを感じさせないくらい静まりかえっていた。鳥のさえずりしか聞こえない。
 無意味な城の大きさに呆れつつ、ムタは歩き出した。


 ここではほとんどの者が人の姿で暮らしている。昔はそうではなかったようで、ゾウのまま暮らしていたし、城に住んだりはしなかったそうだ。
 彼らが人の姿になるのは、その方が過ごしやすいからだろう。一族の歴史についてムタは詳しく聞いたことがなかったので、それ以上のことは知らない。大して興味もなかった。
 もっぱら関心を寄せているのは、文字のことばかりだ。
 城の中で給仕や女官、執事などとすれ違うが、声をかけてくる者はいなかった。どの部屋があてがわれているのか承知しているムタは誰かに尋ねることをしなかったし、ムタが城内を勝手に歩き回るのは今に始まったことではないので気にとめる者もいないのだ。
 一族の肌は皆黒い。黒いゾウが化けているので自然なことではあった。髪の毛は白かった。
 ムタはといえば髪は漆黒で、肌は黒くはないものの、サンディほど白くもない。野外にいることが多いせいか、少々日に焼けていた。
 ここの照明はほぼすべてピドゥという発光する石が使われている。大きさは大小様々で、白い光を放っていた。炎よりも明るく、柔らかい光だ。周囲が暗ければ強く、明るければ弱く光る石で、調節しなくてもよい便利なものだった。
 廊下には窓が少なく、代わりにいくつものピドゥが壁に埋め込まれていた。ムタの片方の耳の飾りに白い光が反射する。その耳飾りは雫のような形で、紅玉石に似た色をしていた。
「ファトファト」
 珍しく呼びとめる声がする。ムタが振り向くと、耳飾りがまたきらりと光った。
 無表情のままこちらへ来るのは見知った男だった。城にいる大勢の者達をいちいち覚えてなどいなかったが、その男はよく自分につっかかってくるので記憶してしまう。口うるさい執事のウグノシュだ。
「ミュテには許可を得ているぞ」
 先にムタはそう言った。泊まっていけと、ここの主にすすめられたのだ。その正当性を主張しようとした。
 だがどうやら、執事はうろついていることを咎めようと声をかけたのではないようだ。
「ミュテにお会いしたのか」
「ああ」
「聞いたか」
「何を」
 ウグノシュは元よりムタに良い印象を持っていない。話すときはしかめっ面だ。嫌なら話などしなければいいだろうに、とムタは思う。
 ムタはウグノシュを嫌ってはいなかった。何かを嫌うにはそれなりに精神力を要する。ムタにとってウグノシュは嫌悪感を示すのも億劫な相手であり、つまりは「どうでもいい奴」だった。ムタの場合、多くの人や物がこの「どうでもいい」に分類される。



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