雪が降っている。
もう日は暮れてしまった。室内が明るいので、外の様子を見るには窓に顔を近づけなければならない。硝子からは氷のような冷気が伝わってきた。
「田村君」
田村が振り向くと、職員室から帰ってきたサンディが教室の入り口に立っていた。
白金(プラチナ)の髪も目をひくが、何より印象的なのはその碧眼だった。色沢美しく、一等級の輝きを持つ。遠い世界を思わせる瞳だ。
海を越えた異国よりも遥か遠く、名も知らぬ世界。
彼の瞳に閉じ込められている光が閃く時があることを田村は知っていた。その光を見ると、いつも心が騒ぐ。
「後片付けをしたら帰ってもいいそうですよ」
「ああ」
放課後、午後七時を過ぎて、二年一組の教室に残っているのは田村とサンディだけだった。
学校祭が近いので校舎にはまだ他にも生徒がとどまっているだろうが、二年の学級が並ぶこの階は静まりかえっている。
教室展示で貼る予定のものを、どうしても今日中に仕上げなければならなかった。
田村の班はサンディ以外に二人の生徒がいたのだが、二人とも揃って風邪のため欠席している。
油性のフェルトペンを握って模造紙に向かう作業など、高校二年の男子生徒にとっては退屈極まりない。おまけに田村はサンディとまともに話したことがなく、今日は長いこと気詰まりな時間を過ごす羽目になった。
サンディの本名は日下部キサだ。両親は外国人だが知り合いの日本人に養子として引き取られたとか噂で聞いたが、田村はよく知らない。
「サンディ」というのはニックネームで、そう呼ばれるきっかけとなった出来事が英語の授業時間にあったそうだが机に伏せて熟睡していた田村はこれも知らない。
三十人も生徒がいれば、半年以上同じ教室に通っていても一度も口をきいたことのない奴は何人かいるものだ。田村にとってはサンディがその一人だった。
意図的に避けていたというわけではないのだが、何となく、話す機会がなかった。
外見こそ目立つが、サンディは物静かで真面目な生徒だった。
周りが放っておかないので、一人でいることはさほど多くもないのだが、誰といても、彼は一緒に騒いだりはしゃいだりなどの浮ついた陽気さを見せなかった。「暗い」とか「冷めている」というより、「大人びている」というのが当てはまる。
見るからに気が合わなさそうで、近寄りがたかった。それでも何故か、気にかかる。そんな奴だった。
サンディと二人で、広げたものを片づける。
放課後の教室では、ちょっとした物音がやけにやけに大きく聞こえた。サンディはフェルトペンの数を数えてケースにしまい、丁寧に机の並びを揃える。
「そんなの、適当にやればいいんだよ」
田村はサンディに声をかけた。
「ペンが一本なかったくらいで大して困らないしさ。机だって、きれいに並べても明日はぐちゃぐちゃになるんだから」
彼は几帳面なんだと、田村は思っていた。それは服装にも表れていて、ブレザーの制服もきちんと着こなしている。
といってもシャツの第一ボタンは外しているし、タイはしめていない。セーターも学校指定のものではなかった。決して規律に忠実なのではない。だらしなくないという意味だ。
「わかってます。僕が、こうしたいだけなので」
蛍光灯の光の下で、サンディはちょっとだけ笑う。机は彼の手によって整列させられる。室内がどこか引き締まる。
手は貸さず、田村はそれを見つめていた。
「それじゃあ、帰りましょうか」
マフラーを巻きながら、サンディが言った。
しまった、と田村は思う。こいつが机を揃えている間に、「お先に」とか何とか言って、帰ればよかったんだ。
これから玄関までまた一緒に歩かなければならない。話すこともないのに。
だからと言って、用もないのに別の場所へ行って時間を稼ぐという男らしくない行動もとりたくなかった。
サンディがスイッチを押し、明かりが消える。教室を薄ぼんやりとした闇が占拠する。
校舎はほとんど空っぽだった。これだけ広いと、昼間の賑やかさも夜には欠片も残されていない。あの瑞々しい騒がしさは永遠にこだまするわけではないのだ。その残響を愛おしむ日が来ることを予感させる。それほど静かだった。
そして、こんな校舎に佇むサンディはよくなじんでいた。
「日下部、家はどこらへんなの」
階段をおりながら田村が尋ねた。意外にも同じ方向だった。ということは、校門を出ても、まだ一緒なわけだ。
下足箱の前で、思わず小さなため息をついた。
積もってはいなかったが、雪はまだ降り続けていた。
寒空を雲が覆い、冬の到来を告げる使者たちは、地面に達すると無言で溶けた。
「寒いですね」とサンディが呟く。
「うん」
覚悟していたよりも外は冷えていた。田村はポケットに手をつっこみ、首をすくめて歩き出した。
寒さを確認するように、わざと大きな息を吐く。白い息はたちまち散った。
時折吹く風は特に冷たく、とっさに身を縮める。歩いているうちに耳がじんじんと痛み始めた。
田村は当たり障りのない話題をサンディに振った。サンディもそれに当たり障りのない言葉を返す。無愛想でもなかったが、向こうから積極的に話しかけてくることもなかった。
会話が途切れる。
凍てつく空気は透明で、あらゆるものが寒さをこらえるようにじっとしていた。田村とサンディは澄んだ夜の中を、どんどん歩く。
「僕の名前」
サンディが突然、ぽつりと言った。
「うん」
「ゾウなんです」
「ゾウ」
「昔、日本ではゾウのことを“きさ”と呼んでいたらしいんです。僕の名前もキサでしょう。だから、ああ、僕、ゾウなんだなって思ったんです」
「うん」
反応に困る内容で、とりあえず田村は返事をした。
サンディは特に、沈黙を厭う様子もなかった。
空白を埋めるように雪が降るから、今だけは田村も無言でいることは苦痛にならない。
サンディは一部の女子生徒からこっそり「王子」と呼ばれている。気品があるのだそうだ。
その呼び方はあんまり難癖をつける気にならないほど、しっくりくるとも言える。彼は誰からもその容貌やその他備えているものについて、妬まれなかった。
それは彼にあんまり現実感がなく、特別扱いされるのが当然であるように思えるからかもしれない。
非日常を背負っていて、自分たちと比べるには、あまりに遠い。
サンディが王子だとしたら、こうして隣で歩いている自分はさしずめ従者というところだろうか。
田村は横目でサンディの方をうかがう。整った横顔は絵画の中の人物のようで、やはり憧れは抱かない。
彼は何を考えているのか、わかりにくかった。
何層にもなる殻の奥に、本心が閉じ込められているのではないだろうか。冷静で用心深いところがあるのだ。
よく知らないはずなのに、田村にはそうとしか思えなかった。
心の裏側がむず痒い。すっきりとしない気持ちになる。
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