微睡みの花2


 より近づいて観察してみる。白銀の長い髪。白い睫毛。埃もかぶっておらず、ついさっきここで眠りについたとしか思えない。
 彼女は確かに潤いのある生の気配をまとっていたが、しかし息はしていなかった。
 石でこしらえた壇には、文字が彫られている。名前だ。

「ノフィスカリア」

 タウは呟いた。
 声は沈黙に溶け、ただの呟きで終わるはずだった。
 だが、異変が起きた。大きな変化ではなかった。少女が息をついたのだ。タウが声を発したのをきっかけのように、答えるように、一つ呼吸をした。
 それから目を開けた。身を起こすと、さらさらと髪の毛が背中を撫でる。
 すぐにタウがいることに気がついて、彼の方を向いた。虹彩は深い赤色だ。まばたきを繰り返して、首を傾げる。
「あなたは」
「タウ」
 彼女の声は容姿に似つかわしい、澄んだ軽やかな響きがあった。
 つかの間ぼうっとしていたが、思いついたように壇から足を下ろそうとする。つま先が触れて水面が揺れる。祭壇の花びらが落ちる。
 タウがさしのべた手をとり、少女は立ち上がった。
「他の者は、どこに」
「いないよ。俺一人だ」
 聞いているのかいないのか、これといった反応を彼女は見せない。表情は目を開ける前からさほど変わらない。そのまま出て行こうとするのでタウは呼びかけた。
「どこへ行く」
 返事はなく、少女は止まらない。緩慢な足取りで進んでいく。それに合わせてタウもついていった。
 いくつかの部屋を覗きこみ、タウが休息するのに選んだあの部屋まで行くと、後ろを振り向いた。
「誰もいないのですね」
 失望も怒りも戸惑いも見出せない。冷たさは感じさせないが、少女は淡々としていた。
「だから言ったじゃないか。ここにいるのは俺と君だけだよ」
 関心がないような、途方に暮れているような、どうとでもとれるような顔で突っ立っている。まずは何から尋ねようかタウも悩んだ。おはようの挨拶はしそびれてしまった。
 少女は先程タウが腰を下ろしていた台に座る。一つ一つの動作がゆったりとしていて、音を立てない。
 タウもひとまず少女の隣に座ることにした。
 黙っているとある欲求が頭をもたげ、我慢ならなくなってくる。
「吸ってもいいかな」
 隣の少女にことわりつつ、煙管を取り出す。それまで何にも興味を示さなかった彼女だったが、物珍しそうに使いこまれた煙管に目を落とした。
 刻み葉をつめて火を点けるタウの手つきも、熱心とは言い難いが見守っていた。紫煙が立ちのぼる。
 何よりもタウがくつろぐ時だった。吸口をくわえて思索にふける。煙が頭と胸にしみるのが心地良い。しかし今は少女のことが気になって、集中はできなかった。考えるのをやめて、空っぽな頭に煙が満ちるのを楽しむ。
「死んだ葉の匂い」
 少女がそう言ったので、思わずタウは煙管から口を離した。
「厭かい」
 首を横に振る。銀の髪が天から注ぐ光を受けて煌めいた。横顔は繊細な線を描いている。
「悪いね。これをやらないと調子が出なくって」
 タウにとって紳士でいることよりも優先されるのが喫煙だった。この煙の誘惑にはなかなか勝てない。
「君はいつからここにいるんだ」
「ずっと前からです」
 眠りにつく前はこの神殿に幾人かとどまっていたのだと彼女は話す。タウが自分はここに到着したばかりで隅から隅まで見回ったわけではないが、おそらく今は一人もいないだろうと言った。彼女の知っていた人物は去ったのだ。遠い昔に。
 ここへ至る道がいかに手をつくして閉ざされているか彼女は知らなった。話す間も表情は乏しく、声に抑揚はない。それでもタウが不快に感じることはなかった。
「あなたは他所からやってきたのですね」
 奏でるような声がタウの耳をくすぐる。ひとつ歌でも歌ってもらいたくなるような美声だ。人とは思えないほどの濁りのない声だった。
 タウが頷くと、彼女はこんな質問をした。
「どうしてここへ訪れたのですか」
 タウは両腕を胸の前で結び、一寸黙った。
「たどり着けないと言われていたからかな。簡潔に言えば、俺は退屈だったんだ。挑戦するのが好きなんだけど、どうせ挑むならうんと難しい方がいいだろう。軽くこなせてしまうことをやったって、張り合いがないじゃないか」
 同じ場所に長く留まるということが苦手だった。たまにひとところでじっとしてみるのだが、飽いてしまう。自分は定住など向かないのだとタウは思う。流れているのが好きなのだ。
 様々なことを気儘に試してみた。そして神殿の伝説を聞き、さがしてみようと思い立った。
「俺は“文字使い ラグノ”でね」
「“文字使い ラグノ”」
「【ゼラの言葉】を用いて術を使う奴をそう呼ぶんだ。【ゼラの言葉】は約千五百年前に発見された。モノリスに刻まれていたんだよ。地、水、火、空気の四つに分類された文字を上手く組み合わせる」
 タウは筆記具を取り出した。
 一見したところ普通のペンだが、特注品だ。安価ではない。タウにとっては煙管より貴重な品だった。ペン先は希少な金属でできていて、得意げにきらりと光っている。軸の方には文字が彫ってあった。
 それで地面にすらすらと文字を書き記す。おうとつなど関係なく、なめらかに文字は並んでいた。その上に小石を置く。すると文字が光り、小石は浮き上がった。
「こういうことだよ。俺はそこそこ腕がいいから、教師をやっていたこともあるんだ。性に合わないからすぐやめたけどな」
 文字は跡形もなく消えてしまった。
 タウは自分が教師をしていた頃のことを思い出す。安定した生活は望めるが、つまらない仕事だった。
 のどが渇いたと言うと、少女は立ち上がってどこかへ行った。大きな白い花を持って戻ってくる。花の中にはたっぷりと蜜が入っていた。
「洒落た杯だ」
 タウはのどを鳴らして飲んだ。とろみがあり、濃厚だ。黄金色で甘いのだが、後味はさっぱりしている。一杯で渇きはおさまった。
「伝説ではここに、願いを叶える花があるとされている。俺はそれを見に来たんだよ。あるかないかはわからないが、確かめたくて」
 杯の花をもてあそんでいたタウが少女に目を向ける。
「そういえば、君の眠っていたところにその花の名前が書いてあったな。そこいらに散らばっている花の中に、ノフィスカリアがあるのかい」
「いいえ」
 少女はタウを見つめた。
「ノフィスカリアは私です」
 深い森は閑寂としていたが、葉ずれや鳥の歌声、兎の跳ねる音などが一緒になってかすかな囁きになる。囁きは神殿にも滲んでくる。
「君が」
 ノフィスカリアと名乗る少女と見つめ合いながらタウは言う。
「ノフィスカリアは花ではなくて人だったのか」
「私は花なのです」
 へえ、と感心したような返事をする。
 様子からして人かどうか怪しいとは考えていたが、花だったとは。まず初めに名前を聞くべきだった。
 それにしても口をきく花とは愉快だ。歩く花というのも面白い。苦労をしてここまで来た甲斐があった。
「ノフィスカリア、ここの住人がいなくなったのは多分、二千年も前だったはずだけど、その時に何があったんだ」



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