微睡みの花1


 とある古代神殿の前に、一人の青年が佇んでいた。
 彼は懐から出した紙と、入り口のレリーフをしきりに見比べている。どうやら同じものらしい、とため息をつき、それをしまった。
 時が流れるにつれ、自然の力によってレリーフの表面は少々削られてしまったが、刻まれているのが象の姿であることはまだ見てとれる。
 そしてそれは、ここがあの神殿であるという証しだった。


 大昔、多くの謎を持つ一族がどこかに神殿を建てたという伝説がある。一族が滅びてからは神殿に足を踏み入れ、無事に帰ってきた者はいないと言われていた。
 そもそもどこに存在するのかがわからない。手掛かりが乏しい。存在したとしても、たどり着くことなどおよそ不可能な、深海や天空にあるのではと噂されるほどだった。
 または、やはりそんなものはただの言い伝えで、ありはしないのだというのが大方の人間の見解だ。
 しかし、一部の者達はそれが単なる伝承文学上の空想の産物だとは考えていなかった。古文書の暗号を解読すれば、漠然とした神殿の位置を知ることができるのだ。
 謎の一族によってそれは徹底的に隠されていた。強固な意志は息絶えず、未だ神殿は守られている。
 秘匿が暗に示しているのはある種の利益だと、少なくともそれをさがし続けている者達はそう考えていた。
 いかなる危険をも恐れず才知にたけた幾人もの人間が、欲深さから、あるいは純粋な好奇心から旅立っていった。
 そして、戻ってこなかった。
 しかしタウはたどり着いた。


 マントは寸々に裂け、腕や顔は切り傷だらけになっていた。体中土埃にまみれ、黒い髪もいくらか白っぽくなっている。
 レリーフを見上げていたタウはまたため息をつくと、顔をしかめた。
 ここへきてようやく、自分の身なりを気にする余裕が生まれたのだ。
 酷い。
 心底そう思った。
 体を叩けば埃が出る。とりあえず、マントを脱ぐことにした。マントと呼ぶにはあまりに悲惨で、ただのぼろきれと化している。タウは惜しむことなくそこらに捨てた。
 丁度いい。暑くなってきたところだから、もういらない。
 誰が見ているというわけではないが、こんなみっともないものを着ているなど我慢ならなかった。
 神殿は海の底でも雲の上でもなく、森の中にあった。
 深閑とした緑の奥でひっそりと、人の目に触れることもなく、そこにあった。
 いざ目の前にしてみると、タウは物足りなく思った。それは長い年月のせいで建てられた当時より美しさが損なわれた、ただの石造りの建造物だったからだ。
 人々の抱く畏怖や憧憬によって、いつしか誰しも実際以上に荘厳な心象を描くことになってしまったわけではあるが、それで誰かを責めるわけにはいかない。ロマンに罪はないからだ。
 要するにその古い建物は想像していたよりもずっと脆くて弱々しい印象をタウに与えたのだった。神殿を強固なものに思わせた、かつて満ちていたであろうものはその大方が蒸発してしまったに違いない。
 タウにとって、古文書を手に入れ解読することは造作なかった。その方面には明るく、時間もそれほどかからなかった。
 噂話の類は不必要なほど人を脅かそうとするが、案外楽に見つかるかもしれないとその時は楽観していた。
 ところが出発してからが大変だった。
 道なき道。仕掛けられた罠の数々。何度命を落としそうになったかわからない。
 崖から落ち、岩に潰されそうになり、木に串刺しになりかけたこともあった。
 同じ目的を持ってこの地を踏んだであろう者達の骨を見かけたのも一度や二度のことではない。彼らは無念さを滲ませ、ぽっかりとした眼窩で虚空を見つめている。
 同じ災難がいつ自分の身に降りかかるともしれない。怖気づきはしなかったが、覚悟が足りなかったと痛感した。
 諦めることはなかった。そうまでして守られる古の宝をこの目で見たかった。


 いよいよ神殿の中へと入る。
 いくつかの建物が集まって一つの形を成し、内部はたくさんの部屋に区切られている。
 壁などに使用されている石はおそらく変成岩の一種だろう。文字以外のこととなるととかく疎いので、人並み以下の知識しか持ち合わせていない。
 長きに渡り人の訪れた形跡はなかった。
 天井は崩れている部分が多く、光や水の恵みで植物が茂っている。鳥も入りこみ、啼き交わす声がのどかにしみわたる。蔦は円柱に絡みつき、床石の接合部分に花が咲いていた。止まっているようで、時は動いている。
 タウを半裸の大きな彫像が出迎えた。
 視線は訪問者を過ぎ、入り口に向いたままだ。しみだらけで塗料ははげ、今や我がもの顔であちこちにはびこる蔓が足に巻きついている。その横を通り過ぎて奥へと進む。
 壁画と文字を発見した。
「立ち入るべからず」
 タウは難なく古代文字を読み上げる。長々とお決まりの警告文が記されているだけだった。一輪の花の周りに人が集まっている絵がある。
 気が抜けると一服したくなった。
 一休みするのによさそうなところをさがして歩く。歩きながら懐をさぐり、煙管や煙草入れがあるかを確認した。食料を落としても、これだけは失くすわけにはいかない。
 日当たりが良く腰を落ち着けるのにうってつけの石の台があったので、そこで休むことにした。
 床には苔が生え、小さな白い花が咲いている。
 薄青い翅を動かし、蝶が舞う。
 温かくていい気分だった。
 壁にもたれて目を閉じる。わずかにとどまる古代の匂いと緑の香りを楽しむ。
 少しして、他の香りも漂ってくることにタウは気づいた。
 ローズ、リリー、ジャスミン、ビオラ。花だ。無数の花の香りがする。あんまり芳香が強いので、ふと目を開けた。まぶたの裏に花の姿が浮かぶほど、はっきりとした芳香だ。
 立ち上がり、誘われるように歩き出す。どこから流れてくるのかが、どうしてかわかるのだ。奥へと進んでいく。蝶はタウより速かった。ひらひらと奥の間に飛んでいく。
 他と比べて特別広い部屋だった。何かの儀式をとりおこなう部屋なのかもしれない。装飾は乏しいが、祭壇のようなものがあった。祭壇は大きな水盤の上にあり、水盤には清らかな水が張っている。
 水面に多くの鮮やかな花びらが浮かび、祭壇にもしきつめられていた。
 そこに、白い服に身を包んだ少女が横たわっていた。
 不可解すぎる状況を目の当たりにしたタウは混乱するどころかかえって冷静だった。本来最も先に強く浮かんでくるはずの疑問は形になる前に霧散し、代わりにもっと単純な感情に心が支配された。
 美しいと思った。
 ほんのり光るような少女の白い姿や花弁の色との対比。芳しい香りと静寂。
 ただ見惚れてしまっていた。一つの作品のようにそれは完結していた。



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