始祖鳥の血5


 しばらくして、大きな布の袋を背負ったサンディが帰ってくる。
「始祖鳥の血は」
「ちゃんと貰ってきたさ」
 軽く頷くと、サンディは袋から衣服を取り出した。地味な色のシャツやズボン、ベルトやブーツなどが出てくる。
「これを着て下さい。外に出るのなら、その格好ではいけません。目立ちますから。ボディ・スーツの上からで構いませんよ」
 早速サンディが着替えはじめた。
 これは古着というやつだろう。新品ではない。他人が一度着たものなどに、袖を通すのは気がすすまなかった。しかしこんなことでごねるのもどうだろう。
 ムーは布専用の消毒薬をふきつけ、それを着用した。
 アイボリーのシャツにネイビーのチノ・パンツ。それにいつものパーカーも着ていくことにした。
 サンディはジェットブラックの毛織りの上着にスノーホワイトのマフラーを巻いている。
「外は寒いのか」
「ええ」
 サンディはどこで外の情報を得ているのだろう。
 ムーはリュックサックに自分の持ち物をつめることにした。といっても、いくらかの消毒薬とミネラル・ウォーター、それにタブレットだ。他に持っていくようなものがないことがみじめだった。
「どうやって外に出るのか、聞いていなかったけど」
 空の槍は浮かんでいるのだ。この建物が地上へ降りなければ、外には出られないのではないか。
「二十五階に外へと続くドアがあり、そのハンドルはゆるんでいます。そこから出ましょう」
「だけど」
 ドアの向こうにあるのは空だけだ。
 ムーは訝るが、サンディは怪しく笑うだけで詳細を語ろうとしなかった。実に楽しそうな、人間じみた顔で彼は笑うのだ。


 ムーとサンディは静まりかえった二十五階の廊下を並んで歩いていた。
 両側には白いドアがある。部屋番号が書かれてなければどれも同じで見わけがつかない。ムーはびくびくしながら足を進めた。何度も、誰かに見られていないかと振り返る。サンディは何に怯える素振りもなく、マフラーをはねあげて颯爽と歩いていた。
 つきあたりには鉄扉がある。粗雑なつくりで、いかにも投げやりな印象を受けた。仕方なしにつくったというような雰囲気が漂うドアだ。
 このドアは各階に設置されているわけではない。ムーの階にはないドアだ。
 目立たない字で『非常用』とそこには書かれていた。
 大きな丸い金属のハンドルを回すよう、サンディがムーに指示する。ムーはハンドルに手をかけたが、固くてなかなか回らなかった。ふと、これは回ることのないただのお飾りのものなのではと思ったほどだ。
 こうして腕の筋肉を使うことも久しい。渾身の力をこめると、ハンドルはきしんだ音をたてながらゆっくりと動いた。冷や汗が出るくらい大きな音が響く。それは叫声にも、気だるい抗議の声のようにも聞こえた。
 誰かに言われたこともなく、注意書きもなかったが、このドアを開けることは禁じられているのではないだろうか。これを開けることはこの建物内で最大の禁忌なのではないだろうか。
 それは不文律なのだ。
 ここに住めば、命尽きるまで出ることは許されない。
 この世で最も安全な場所、それが空の槍だ。幸運にもそこに住むことを許された者が、その住処を捨てることなど許されない。
 ドアは外に向かって開いた。
 新鮮な風が勢いよく吹きこんでくる。風はムーの耳元で轟々と鳴った。
 眼下には流れる雲と、その向こうには寂寥たる風景が広がっていた。森などの植物は見当たらず、赤茶けた起伏のある土地が続いている。遠くには連なる山々ののこぎりの歯のような稜線があり、その先は霞んで模糊と見えた。
 気も塞ぐような禍々しい色の雲がたれこめ、切れ間から青空を望むこともできない。
 およそ楽しげな風景とはほど遠いが、ムーの胸は高鳴った。それは長らく忘れていた感情だった。心臓の力強い鼓動が感じられ、末端まで血液が送られる。たぎる血潮が身体を温めた。
 サンディはあの酒の入った瓶をムーに持たせた。これを飲めと言う。
「そして飛び降りるのです」
「まさか」
「この酒を飲むと、落下速度が遅くなります。ですから無事に地上に降り立つことができます」
 サンディのことをまだ完全に信用していなかったムーは、すぐに酒に口をつけようとはしなかった。
「遅くなったように感じるだけなんじゃないだろうな」
「そんなことはありません」
 ムーは瓶を鼻に近づけた。どこか金臭い。
「その特別な酒は、ドールだと受け取ることができないのです」
 サンディは瓶に視線を注いだ。
 もしや、自分は彼に利用されたのではないか。酒を手に入れてここを脱出するのには、人間の手を借りなければならない。だから、僕を唆したのか。
 ムーは軽くため息をついた。
 もう、そんなことはどうでもいい。もう戻れないのだから、どうだっていいのだ。
 ほとんど自棄になって始祖鳥の血を一口飲んだ。どろっとしていて、何の味もしない。
 不意に足に力が入らなくなってよろめいた。サンディも酒を飲むとまだ残っているのも気にかけず外へ瓶を投げ捨て、倒れかけたムーの腕をとった。
 それから彼はムーを引っ張って、二人は空に身を投げた。
 手を広げ、ムーは落ちて行く。風が指の隙間を通り抜ける。それは爽快な心地だった。
 すぐに酒の効果が現れ出した。
 落ちる速度が緩やかになり、身体に受ける風も弱くなっていく。目線を移すとサンディも同じように降下していた。次第に二人は海の底へ沈んでいくかのように落ちていった。
 周りを取り巻く空気が柔らかで気持ちがいい。このまま自分は空に溶けてしまうのではないだろうか。ムーは身体を反転させて空を向いた。
 空中に、天を突くような空の槍がそびえていた。元々上にいくにつれて細くなっていく形なのだが、下から見上げると遠近法でより先細りに見える。天辺は雲の中に消えていた。
 その滑らかな白い建物に、今や惜別の情もない。
 ムーはまた下を向き、解放感に浸っていた。
 ゆっくりと降りていくようになると、会話も可能になる。
「サンディ」
「何でしょう」
 ムーの呼びかけにサンディが答えた。
「地上に降りたら僕を見捨てようという腹じゃないだろうな」
「いいえ。私はあなたのそばにいつもいますよ。あなたは私の主なのですから」
 少しずつ、確実に地上が近づいてくる。
「サンディ、外には何があるんだろう」
「何でもありますよ」
 サンディの左目は血のような色に染まり、きらりと光った。



(終)



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