「それでも、ここよりはましでしょう」
サンディも静かに立ち上がり、表情は穏やかだがいくらか強い語調で言った。
「あなたはここの暮らしに、飽いているのです。これ以上ここにいて、すっかりおかしくなってしまうのを待つおつもりですか」
「僕はまともだ」
「まともなら、ここを出て行きたいと望むはずです」
返す言葉が見つからない。どうして見つからないか、その理由を考えることが恐ろしい。
長らく黙りこんだ後、ムーは逃げるように部屋へ戻ろうとした。
「ムー」
サンディが呼び止める。
「あなたが“外”に出ようと思うのなら、いつでもお力添えをしましょう。よくお考えを」
ムーはドアを閉めた。
腹立たしかった。しかし、何に対しての怒りだろう。
清潔なシーツが敷いてあるベッドへ倒れ込んだ。
白いシーツ。白い床。白い壁。
あまりの白さに押しつぶされそうだ。助けを求めるように、アイビーグリーンのパーカーをつかんだ。
苛立ちが募る。白い枕を壁に投げつけ、シーツを勢いよくはがした。その下に現れたのは白いマットだ。
白い。白い。白い。
白すぎるくらいに白い。ここは何て白いのだろう。
体の中を熱い塊が出口を求めて動き回っている。それが口から叫び声となって出てしまわないよう、歯を食いしばらなければならなかった。
あの出来損ないのアンドロイドが、おかしなことを言って僕を惑わせようとしている。僕の日常を引き裂こうとしている。
あいつの言葉に耳を貸すことなどないんだ。僕はここが気に入っている。
だってここには。
ここには。
その時、ムーの中で静かに、唐突に何かが壊れた。崩れたと言ってもいい。
とにかく、それはもう、二度と元に戻らないのだ。もやもやとした感情は消え失せ、瞬間、心の中は空っぽになった。
ここには。
ここには、何もない。
自分を引き止めるものは何一つなかった。どんなに考えをめぐらせてみても、ここにいる意味がなかった。
必死でここの生活が気に入っていると思い込んでいたにすぎないのだ。
ムーは今まで懸命に何かを抱いていたのだが、その腕の中には何もなかった。何より愕然としたのは、そのことにまるで自分が気がつかなかったという事実だ。
「ここには、何もない」
呆けたようにその場に立っていた。
何時間もそうしていた。そして、どうするべきかもうはっきりわかっていた。
ここを出るのだ。このままここにいて、これ以上自分を欺き続けることは容易でない。
サンディが目を覚まさせてしまったのだ。
全く望んでいないことを望んでいるふりをして、本当の望みを埋めてしまっていた。一度掘りだしてしまったら、また埋めることはできない。見えないのならまだしも、それは眼前に現れてしまったのだから。
ムーはのろのろとドアを開けた。
サンディは椅子に姿勢を正して座っていて、ムーに視線を投げた。
「外には、何があるんだ」
その問いで全てを察したのか、彼は
「何でもありますよ」
このやりとりで、何か契約のようなものが交わされたかのようだった。
「“外”に出る決心がついたようですね」
「お前のせいだぞ」
ムーがぐったりとしながら睨めつける。その形相に凄みがないであろうという自覚はあった。
何一つ、余分なものを身につけていないような気分だった。心許無かった。
一方サンディは満足そうだった。
「それにしたって、この空の槍からどうやって出るというんだ」
「心得ています、お任せを。私はこれから集めてこなければならないものがあります。あなたにも、お願いしたいことがあります」
「何だ」
「十九階の一九○三号室というボックスに住んでいる女のところへ行き、あるものを貰ってきてほしいのです」
他人となど会いたくないが、文句を言う気力もなかった。今やこのドールの言うがままだ。
「始祖鳥の血、と言えばわかります」
「何だそれは」
「酒ですよ。それでは、お願いします」
サンディはそう言い残すと、用事を済ませる為に出て行った。ムーが一人、白い部屋に残される。
静けさが耳に痛かった。防音処理が施されているので、外からの音は一切入ってこない。
住み慣れているはずの部屋なのに、落ち着かなかった。
憔悴しているのだが、このまま座っていても気が休まるわけではない。酒を貰ってこなくては、と立ち上がった。
他の階に行くことなど、思いつくことも機会もなかった。つくりはムーの住む九階と同じだが、足を踏み入れたことのない場所だと思うとどうしても体が強張ってしまう。
廊下も四方八方が頑ななまでに白く、少しのくすみもない。
もはやムーはこの建物に微塵の親しみも感じていなかった。ムーがここにいることに対して疑問を持ち始めた時から、空の槍はムーに好意的ではなくなったように思えた。
重い足取りで、目的の一九○三号室にたどり着く。そこが一九○三号室かどうか、ムーは十回も見て確認した。
おそろしくゆっくりと指を上げ、ドア・チャイムを鳴らす。数分待ったが、反応がなかった。
もう一度鳴らそうとした時だった。
さっとドアが開き、誰かが顔をのぞかせた。ドアはわずかしか開かれず、その人物の顔は半分ほど隠れてしまっている。長い黒髪の女だった。髪は乱れていて、顔には大きな白いマスクをしている。女はやぶ睨みだった。
「あの」
ムーは言葉を詰まらせた。生身の人間と久しぶりに話しているということを意識してしまい、口が上手く動かない。
おまけに女は警戒心をむき出しにしていて、下手なことを言えばとびかかってきそうな気迫がある。
「血をくれ。始祖鳥の血を」
ムーが言うなり、女は用意していたのか、瓶を握った手をドアの隙間から乱暴に突き出してきた。
ムーが戸惑いながら受け取ると、一言も声を発することなく、女はドアを閉めた。結局彼女の声は聞けずじまいだった。
あっという間の出来事だ。ムーはぽかんとしていた。
何だろう、あの女は。
とりあえず目的は果たしたので、戻ることにした。
液体の満たされた小ぶりのそれは、茶色の遮光瓶らしかった。ラベルが貼ってあり、見たことのない文字で「始祖鳥の血」と書かれていた。この住宅で使われている文字ではない。覚えのないはずの文字が読めるとは、おかしなことだ。
だが、ムーにはそれほど気にならなかった。むしろどこか、当たり前だと思った。
自室へ帰ると瓶をテーブルに置き、無心でながめていた。
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