始祖鳥の血3


 あまりのことに茫然自失となり、立ち尽くした。
 考えられない。ドールが主人に暴力をふるうなど、あるはずのないことで、また、あってはならないことだ。
「これが最新型である証明です。必要とあらば最新型は、主に手をあげることも可能なのです。しかし、あなたの健康を損なうほどの危害を加えることはありませんのでご安心下さい」
「よくもそんなことが言えたな」
 ムーはやっとの思いで言葉を押し出した。頬の痛みは引いたが、雷にうたれたような衝撃は消えなかった。
 これまで、誰にも引っ叩かれたことなどなかったのだ。今の出来事はムーに大きなショックを与えた。
「お前は僕を殴ったんだぞ」
「それで、骨でも折れましたか」
 嗤笑ともとれる顔でサンディが言葉を返す。
 腹立たしい反面、恥ずかしくもあった。騒ぐほど、どこかを傷つけられたわけではない。
「軽く叩いただけなのですが、まだ痛みますか」
 サンディがムーの頬に触れようとする。ムーはそれを払いのけた。
「平気だ」
 痛みではなく、屈辱的であるかどうかが問題なのだ。
 それにしても、ドールが主人に手をあげる必要がある時とは、どのような時だろう。
「主人の目を覚まさせる時に、最新型は手をあげます」
 サンディはムーの考えを読みとったかのように言った。
「例えば、悪夢に溺れている時に」
 ムーとサンディは立ったまま互いをしばらく見つめていた。ムーはすっかり混乱していて、言うべきことが見つからなかった。
 いよいよサンディの正体がわからなくなってきたのだ。何かしらのことを企んでドールを演じている人間か、やはり最新型のドールか、それともそのどちらでもないものなのか。
 自分はどうするべきだろう。
 本人はドールだと言い張るのだから、返品するべきだろうか。
 黙りこくっているムーに、サンディは声をかけた。
「ムー、リビングに行きませんか。少し、話をしましょう。あなたは疲れておいでのようですから」


 サンディはテーブルに見慣れぬ白磁のカップを並べた。ティー・カップだと説明する。花の絵が描かれていた。ムーは植物の知識が乏しく、それが何という名の花なのか知らなかった。
 それには赤い液体がつがれていた。
「この水は、錆びている」
 ムーは顔を歪めて言った。
「違いますよ。これはティーです」
 茶葉を発酵させ、乾燥したものを湯で浸出した飲み物なのだという。その葉は衛生的な処理がされているのかが心配になった。しかし、香りはいい。おそるおそる一口飲んでみた。
 こんなものはこの部屋にないので、サンディがどこかからか入手してきたのだろう。時々、姿を消すのだ。
 席についたサンディが口を開いた。
「ムーは、“外”に出たいと思ったことはないのですか」
「え」
 外、というのはこの部屋の外の廊下のことではないだろう。建物の外のことを指しているのだ。
「外には濃硫酸の雲があると聞いた」
 ムーはぼそぼそと呟いた。
「金星でもあるまいし。誰から聞いたのか知りませんが、そんなことはありませんよ」
 サンディは愉快そうに笑った。
 外に出たいなどと、思うはずがない。
 ムーが住んでいるのは超高層の集合住宅だった。注文さえすれば、どんなものでも手に入る。
 ここは快適で、清潔だ。
 窓はないが、構わなかった。見たくなどない。
 おそらく外は、汚れている。
 おそらく外は、危険に満ちている。
 この集合住宅は「空の槍」と呼ばれ、空に浮かんでいる。地上から離れているから、安全なのだ。
 申し込んで、抽選で当たらなければここに住むことはできない。誰だって、ここに住むことを切望する。空の槍に住めるのは、選ばれた一握りの者達だけだ。
「外になど、出たくはないよ」
 低い声音で力なく、ムーが言った。
 サンディは無言でティーをすすってから、話し始めた。
「ある山に、ある特別な花が咲いているという言い伝えがあるのです。黄金鳥の住まう白銀の山にたった一輪しか咲かない花。それは、どんな願いでも叶える力があると言われています。ご存知ですか」
 ムーは首を横に振った。
「白銀の山は地図のどこにも記されていません。その山を見つけるには色々な手段がありますが、一番確実なのは黄金鳥の羽根を入手し、その羽根に導いてもらう方法です。しかし、数万年も生きると言われる黄金鳥が下界へ降りるのは五百年に一度で、その時羽根を落とすとは限りません。もっともこれは、お伽話なわけですが」
 サンディはカップをソーサーに置いた。
「私はその、願いを叶える花というのを見てみたいのです」
 それを聞いたムーは思わずぞっとした。
 ドールは己の願いを口になどしないはずだった。願望すら抱かない。何故なら彼らの役目は人間に奉仕することだけなのだから。
 もしかしたらこれは、最新型であるが故の演出なのか。言うことをただ聞くだけでは芸がないということで、主人を殴ったり、願望を語ったりする機能がつけられたというのか。
 何であれ、サンディを問い詰めても自分はドールだと言い続けるだろう。それに、ムーは次第にそんなことはどうでもいいような気になってきた。別のものに胸をかき乱されていた。
 “外”という言葉だ。
「あなたはこのボックスにいれば、何不自由なく暮らせると思っているのでしょう。何でも揃うと思っているのでしょう。しかし、“外”には、ここにないものがたくさんあるのですよ」
 サンディは囁くように言った。
 ムーはしかめつらをした。あるとすれば、ここを上回るほどの雑菌だろう。
 ムーの反応を確かめると、サンディは内緒話をするように声を落とした。「あなたさえその気になれば、いつだってここから出ることができるのです。私はその手助けができます」
 ムーは狼狽して、サンディを見つめ返した。
「外になど、出たくはないよ」
 自分に言い聞かせるように先程の言葉を繰り返す。だが、声はか細く、震えていた。
「いいえ、私にはわかります」
 彼はいつものようににこやかではあったが、その笑みはいつもより過剰だった。
「あなたは“外”を知りたいと思っているのでしょう。私にはわかります。だから、私はやって来たのです。あなたの元へ」
 動揺していた。体が熱くなったが、ほどなくして寒気に襲われた。指先が震える。手足の先が冷えてきた。ボディ・スーツを着ているのに、どうしてこんなに寒いのだろう。
「サンディ、お前はとんでもないことを言う。僕の言ったことを聞いてなかったのか。僕は外になど出たくはないと言っているんだ。この安穏な生活を捨てて行くまでの何かが、外にあるとは思えないな。外界は薄汚れている」
 ムーは立ち上がり、何かを打ち消そうとするように大声をあげた。



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