「先生」
こちらから見るとまるで黒い塊みたいなその男に亜沙子は声をかけた。黒い塊がはたと気づいて顔をあげる。
「ついに気が狂ったんですか」
黒いコートの男、黒峠有紀はもう一度車の下へ「ちゃー」と言うと立ち上がった。「あーあ」とわかりやすい発音をしてため息をつくと、膝についている砂をはらった。
「何だ、君か」
「久しぶりに会ったのにそんな言い方はないでしょう。それより、先生は仕事中だと円さんからうかがったんですが……何してたんですか?」
黒峠は肩をすくめて答えた。
「仕事さ」
あの行為のどの辺が仕事なのだろう。
「あの……『ちゃー』ってなんですか」
「猫だよ、猫。猫の名前。いなくなった猫をさがしてくれって頼まれたんだ」
なるほど、これで合点がいった。猫をさがしていたなら車の下をのぞき込むのもわかる。しかしあれほど名前を連呼しなければならないのだろうか。猫も逃げてしまいそうだ。
「困ったなあ、どこにもいないんだよ。私も猫の気持ちになっていろいろ考えてみたんだけどねぇ」
黒峠は髪をかきあげた。よく見れば、どこに顔を突っ込んだのだか、頬に黒い油汚れみたいなものがついている。猫の気持ちになって何をしでかしたのかは追求できなかった。塀にのぼるくらいで済んでいればいいのだが、何となく聞きたくなかった。
「どんな猫なんですか」
「黒い猫だよ。私に似ている」
似ているのはおそらく色だけだ。
「それで、その猫は青い首輪をしていますか?」
「すごい! よくわかったね柊君! 君もなかなか勘が鋭くなったな!」
「いえ、そこにいますけど」
猫は道の角にあるケーキ屋を囲む塀の上で丸くなり、二人を見下ろしていた。
「しまった、上だったか」
呟いて、黒峠は猫の捕獲にとりかかりだした。どうやら猫の気持ちを理解するには至らなかったらしい。
それにしても、猫を捕まえようとする黒峠の姿が何とも滑稽で見ていられない。
「ちゃー、おいで。ちゃー、ちゃー、ちゃー! ちゃーったら! ちゃあああっ!」
壊れたおもちゃのように「ちゃー」と言い続ける黒峠を、通行人が怪訝な顔で見つめて通り過ぎている。隣に立つ亜沙子は毎度のことながら羞恥心に耐えかね、入れる穴があったら入りたい、穴でなくても身を隠せるなら何でもいい、と周囲を見回していた。
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