07


「もしよければ、待たれてはどうですか。すぐに帰ってきますよ」
 黒峠に会いたくて来たなどとは絶対思われたくない。あくまでも、暇だからぶらりと立ち寄ったと装いたかった。
 しかし終始にこやかな円にはお見通しらしい。居づらくなった亜沙子は来て早々、用件も告げず辞去することにした。そんな亜沙子の不自然な行動にも円は笑顔だ。わかっていて強引に引き留めないのは彼の優しさなのである。
「またいらして下さい」
「はあ、どうも……」
 恥ずかしさに俯きがちで亜沙子は逃げるように事務所をあとにした。
 よく考えれば、黒峠が何の役にも立たないのは今までの様々な出来事を通して確認済みなのだ。それをどうして今更頼ろうなどと思ったのか。
 二人が会うと化学反応でも起こるみたいに事件が発生するというのに。それが偶然か必然かはわからないが。
 あんな奴とは会わずに、おとなしく家に帰る方がいいのかもしれない。
 憂鬱な気持ちで亜沙子は歩きだした。
 何をしに来たんだか。こんなことなら、まっすぐ家に帰ればよかった。
 どうして先生、いないのよ。
 ちなみに亜沙子が黒峠を「先生」と呼ぶのは彼を尊敬しているからではなく、初めて会った際彼が自分の職業を「大学教授」と偽っていて、その名残である。
 いてほしかった気持ち半分、いなくてほっとした気持ち半分、という複雑な心境で、亜沙子は我知らずしかめ面をして歩いていた。
 そんな亜沙子の耳に、突然妙な声が聞こえてきた。
「ちゃー」
 気の抜ける声だった。鳴き声ともとれるが、おそらく人間の声だ。
「ちゃー、ちゃー」
 今度は二回。方向は背後からだ。
「ちゃーちゃーちゃー、ちゃちゃちゃちゃちゃー!」
 狂人の奇声ではと一瞬恐怖にとらわれたが、にわかに聞き覚えもあった。間抜けな声は亜沙子が体を強ばらせている間にも、謎の「ちゃー」を連発している。
 意を決して振り向いてみた。
「ちゃー!」
 見るからに不審な男が道ばたにしゃがみこみ、路上駐車している車の下をのぞき込んでいる。そして盛んに「ちゃー」と声を張り上げているのだ。
 あの上等そうな黒いロングコート。
 間違いなく黒峠有紀だった。
 黙って突っ立っていても十分奇人変人のオーラを放っているのだが、今はそれが顕著だった。



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