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 いた、あれだ。間違いない。私が黒峠先生の背中を見間違うはずがない。
 亜沙子は全速力で坂道を下った。のろのろ歩けばまた見失ってしまうかもしれないからだ。
「黒峠先生!」
 亜沙子の声に振り向いた黒峠は、血相を変え、一目散に逃げ出した。
「何で逃げるのよ!」
 むきになって亜沙子も追いかける。他人からどういう目で見られてるか知らないが、亜沙子は必死でこの時ばかりは人目など気にもしなかった。
 走りにくいパンプス。邪魔な鞄。乱れる髪。どうして私、走っているのかしら。
 よくわからない逃走と追跡の末、赤信号となった横断歩道の前でやっと二人は足を止めた。年甲斐もなく、二人とも全力で走ったせいで、無様なほどに息切れしていた。
「酷いじゃないか柊君! 罪もない私を追いかけ回したりして。私はね、鼻がつまっていて、口でしか呼吸ができないんだ。圧倒的に不利だ!」
「どうして逃げたんですか」
「君が怖い顔で追いかけてきたからだよ。追われれば逃げたくなるというのが人間の心理だ。ああ怖かった。食べられるかと思った」
 人を妖怪みたいに言わないでもらいたい。
 息を整えるまでには多少時間がかかり、お互い落ち着いてきたところで、黒峠が追いかけてきた理由を尋ねてきた。
 これには困った。自分でも理由がわからなかった。
「君ね、人をつけまわすのはストーカー行為だよ」
「ストーカーなんてしてません。私は……」
 先生のことが気になったもので、とは言えない。心配しているなどと思われたら、調子にのった黒峠がまたどんな失礼なことを言い出すかわからない。
「えー……、宮川君が私をつけまわしていた理由を知りたいんです。それがわからないと、勉強に打ち込めません」
「じゃあ宮川君に聞いたらどうだい」
「聞いても答えてくれないんです」
「それなら私にだってわかるはずないよ」
 それもそうなのだが。
 亜沙子は宮川の言った、別の言葉を思い出した。
「先生が、逃げてるって聞いたんですけど、何から逃げてるんですか」
「私が聞きたいよ」
 投げやりに言うと、黒峠はティッシュで鼻をかんだ。いよいよ具合が悪そうだった。熱があるとまではいかないが、相当たちの悪い風邪というのは確かなようだ。



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