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 わざと大声を出してやったのだが、宮川は怯まなかった。
「柊さん、聞いておきたいんですけど、あなたは『この件』について何も知らないんですよね?」
「この件って……どの件よ」
 そんな曖昧な言い方をされたって、テスト用に大事なことを詰め込んで余裕のない頭では、ろくに考えも巡らせることができない。
 亜沙子は宮川の手を振りほどいた。
「もう一つ。あなたは黒峠有紀をどこまで知っていますか」
「黒峠先生……?」
 爽やかな朝に耳にしたい名前ではない。あの男のことを考えると不可解なことと不愉快なことが多すぎて、脳が疲弊するので、なるべく思い出したくない。
 しかし改めて考えてみると、黒峠のことはほとんど何も知らないことに気がついた。
「知らないわよ。私、あの人と仲良しでもなんでもないんだから」
 別に知りたくもないし、と吐き捨てる。「この件」だの「黒峠有紀」だの、朝っぱらから何故そんなわけのわからないことを言われなければならないのか。それでなくても苛立っていて、憂鬱でもあるのに。
「そうですか。それならいいんです。安心しました。これで僕があなたの前に現れることはもうないでしょう」
 あっさりと言うと、宮川はその場から去ろうとした。今度は亜沙子が宮川の腕を引っ張る番だった。
「待ってよ」
「何ですか」
「昨日から引っかかるんだけど、あなた私に何の用があったのよ。ことあるごとに黒峠先生の名前を出して、近づくなとかどこまで知ってるんだとか……聞くだけ聞いて、自分は黙ってるつもり? そんなのフェアじゃないわ。黒峠先生が何だっていうのよ」
 宮川は中指で眼鏡をあげる。
「だって柊さん、黒峠有紀のことは何も知らないし仲良しでもなんでもないんでしょう。そんなに気になりますか」
「あなたが気にするように仕向けてるんじゃない」
 宮川はいつだって余裕で、狼狽したり慌てふためいたりしない。相手の方が一枚上手で、それがまた気に食わなかった。
「詳しいことは言えません。知らないことがあなたのためだからです。黒峠有紀には近づかない方がいい。僕が言えるのはそれだけなんです」
「いみわかんない」
 亜沙子はふてくされた。どれだけ食い下がっても期待したものが得られそうもないと悟ると、拗ねるしかないのだ。



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