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 黒峠は無反応のままコートを着込んだ。まさかこのまま踏み倒すつもりなのだろうか。たかられたのでは、と不安になる。金に困ってるという話は聞かないので、それくらい払ってくれればいいのに。
 黒峠は乱暴に髪を崩して、息をつく。
「宮川君の意図は不明だ。変わった人だね」
 こんな変人に変わった人呼ばわりされる宮川も気の毒だ。どこかへ歩き出す黒峠を亜沙子は呼び止めた。
「ちょっと先生! どこ行くんですか! 宮川君、何て言ってたんですか?」
「よくわかんないけど、大丈夫だと思うよ。君に危害を加えようという気はないみたいだから。私は疲れたから帰る」
「円さんに迎えに来てもらうんですか?」
 黒峠は足を止めた。
「いや……今日もいないんだ」
「ところで先生、食事代……」
 亜沙子のとっさの請求は黒峠のくしゃみによってかき消された。
 大丈夫だと思うよ、程度の言葉では、とてもではないが安心できない。だが黒峠はそれ以上の質問を受け付けようともせず、帰って行ってしまった。彼の携帯電話にかけてみるが、それ以降は繋がらなかった。
 何となく腑に落ちなかったが、亜沙子も自分の家へ帰るしかなかった。

 * * * *

 翌日。昨夜は何一つ問題が片づいていないという気がして、よく眠れなかった。
 今日は試験前最後の授業となる。補講期間を一週間挟み、次の週の頭から試験が始まるのだ。この一週間は亜沙子にとって勝負だった。課題提出遅れの常習犯のため、教師の心証は最悪だ。試験でベストを尽くして少しでも挽回しなくてはならない。
 宮川という男の謎は未だ解決していないが、そればかりに気をとられている暇はない。今は勉強に専念するべきだ。
 苦手な外国語は、普段の単元テストの成績もよくないことから気を抜けない。外国語の履修は必須で、つまりは宿命なのだ。中学生の頃躓いて以来、英語には苦しめられ続けている。
 朝、学校へ向かうために家を出た。英会話の勉強をするため、イヤホンを耳に入れる。イヤホンからは女性と男性の声が途切れることなく聞こえてきた。楽しそうな会話。
 この会話が試験に出るわけではない。私は余念なく英語を学ぼうとしている、というただのスタイルである。
 底抜けに明るい外国人の会話が頭に注がれる。



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