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 宮川、宮川ね。心の中で繰り返す。この青年が「宮川」という名前かどうかも定かではない。一度嘘をついた者は、何度でも嘘をつくのだ。
「話を聞いていると、どうも君が用があるのは私の方みたいじゃないか。どうして柊君をつけまわしたりしたんだ」
「あなたに説明する義理はありませんね。ただ柊さんはあなたのそばにいる限り、面倒ごとに巻き込まれる羽目になる。あの人のことを想うなら、離れてあげた方がいいですよ」
 それを聞いて黒峠は笑った。
「私はモテるんだよ。柊君はいくら突き放しても寄ってくるんじゃないかな。私を心底信頼しているから」
 この場にいれば、確実に柊亜沙子の平手が飛んでくるような冗談を言う。
「とにかく、もう逃げるのはやめることですね」
 宮川が走り出そうとするので、黒峠も足を踏み出した。路地裏に入るなり、宮川は停めてあった自転車を数台倒して去って行く。勢いがついて止まりきれなかった黒峠は、自転車につまずいて倒れてしまった。ペダルでわき腹をしたたかに打ち、痛みと理不尽さに顔を歪める。
 惨めな体勢からどうにか体を起こして周囲を見回すと、宮川の姿はもうなかった。
「何なんだ、一体」
 意味がわからず、黒峠はふてくされてそのまま自転車の隣に横たわった。誰かが起こしてくれるのを待ってる駄々っ子のような気分だった。
 冷たいアスファルトと夜風が体温を奪っていき、派手なくしゃみが出た。
 これじゃあ、風邪が悪くなるな。
 そう思いつつ、倒れたままでいた。宮川が言った言葉の意味。彼の目的。
 先ほどから自分の携帯電話の着信音が聞こえているのに、今気がついた。誰からだろう、と思っていると、空から声が降ってきた。

「先生、そんなところで何してるんですか。携帯鳴らしたのに、どうして出てくれないんです?」
 亜沙子は携帯電話を手にして、妙なところで寝ころんでいる黒峠を見下ろしていた。黒峠は乱れた髪をおさえて起きあがる。具合が悪くて気を失っていたわけではなさそうだった。
「宮川君、取り逃がしたよ。誰かさんが余計なこと言って変な格好させるから。いつも通りなら絶対追いついたのに」
 誰かさんとは亜沙子のことで、余計なこととは変装のことだろう。むっとしながら亜沙子は倒れた自転車を立て直した。
「先生の食事代、立て替えておきましたからね。後でちゃんと返して下さい」
 宮川の分はいつの間にか支払い済みだった。そんな暇はなかったはずだが、事前に店に説明でもして先払いしたのかもしれない。



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