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「待て、宮川君!」
 こんな時に律儀に「君」をつけなくてもいいのではないか。「さん」をつけてもらえなかったことに対するあてつけか。
 亜沙子も立ち上がって黒峠を呼んだ。
「先生!」
「あ、柊君、お勘定よろしくね!」
 非常に迷惑な捨て台詞を残し、黒峠は店から出て行った。
 亜沙子に残されたのは、三人分の食事の伝票と、店中から集まる視線だけだった。

 * * * *

「待て、待ちなさい!」
 人混みの中、黒峠はひたすら宮川を追いかけた。
 道行く人々は、人の間をすり抜けて走る二人を、迷惑半分、好奇心半分、といった様子で眺めている。
 宮川は速かった。脚力に自信があるのだろう、本気の走りでないのが背中から伝わってくる。その気になれば簡単に引き離せるのだという、余裕が見られた。
 一方の黒峠は必死だった。走るのは得意ではないし好きでもない。走ったところで間に合わないことは人生の中で多々あって、だからなるべく走らなくても済むような行動を心がけて生活してきたのだ。
 まるでからかわれているみたいな追いかけっこは苦痛だった。さっさとまくなり止まるなりしてくれればいいのだが。
 ひと気のない通りに出た。街灯が少なくて、闇が濃い。先に道を曲がったはずの宮川の姿は消えていた。
 乱れた前髪が目に入った。慣れない格好で走るものではないな、と黒峠は額ににじんだ汗を拭った。
「普段とは違う格好なんですね、黒峠『さん』」
 電柱のかげからぬっと出てきた宮川は、息を乱していなかった。
「柊君にお願いされたのさ。意味なんてないと思ったけど、彼女しつこいから。それで、私のことは誰から聞いたんだ?」
「あなたの知る人からですよ」
 そんな答えでは、いくら黒峠の交友関係が一般に比べて狭いといっても、絞れるものではない。
 自分の知人で宮川と繋がっていそうな人間はいるだろうか。予想もつかないしこの時点での予想は無意味だ。



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