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 女性はどうやら店員だ。
 慣れない整髪料をつけて髪型をキメた男が、椅子を引きずりながら接近してくる。亜沙子を含め、ほぼ店内にいる全員が、唖然としてその光景を見ていた。唯一宮川と名乗る男だけは、冷ややかな視線を黒峠に投げている。黒峠はそういう視線を受けるのには慣れていて、全く気にしていないようだった。
「あ、大丈夫です。私はこの二人の知り合いです」
 慌てる女性店員に黒峠はそう説明するが、関係性よりも、椅子を引きずるという行為が問題視されているということに考えは及ばないらしい。
 椅子を追加して無理矢理席に割り込んできた黒峠は、至近距離であるにもかかわらず、亜沙子に手を振った。殴られたいのかもしれない。
「さて、君の名前な何て言うのかな」
「宮川です」
 ふうん、と黒峠は鼻から抜けるような声を出す。
「それで、そっちの君の名前は?」
 尋ねられた亜沙子は、宮川に向けたのより鋭く、苛立ちをこめて黒峠を睨んだ。
「冗談だよ柊君。何か揉めているようだから来てあげたのさ。遠くからでも柊君の般若のごとき形相は目についたよ。それで、何で揉めてるんだい? 別れ話かな? ああ、わかった。柊君はお金にせこいから、食事代をどうするかって話だろう。柊君、割り勘じゃ不満なのかい」
 水の入ったグラスをつかんだ亜沙子を見て、黒峠は宮川の方へ向き直った。
「宮川君と言ったね。君はこんなことをして、何が目的なんだ。彼女は君のせいで、大変怯えているんだぞ」
 本当に調子のいい男だ。
 宮川は黒峠のふざけた態度にも動じず、冷たい表情を崩さなかった。
「黒峠有紀」
「年上には『さん』をつけたまえ」
 どうでもいいことにはよくこだわる。そんな黒峠にもペースを乱されず、宮川は続けた。
「あなたも逃げてばかりではいられない。そろそろ痛い目に遭うでしょう」
「失敬だな。私は今までの人生の中で、一度だって逃げたことはない」
 亜沙子は黒峠が逃げているところを何度も目撃している。立ち向かうより回避するのに全力を尽くす傾向のある男だと思うのだが、自覚はないのか、はたまたジョークのつもりなのか。
「とにかく、警察には連絡させてもらうよ。君がストーカーだという証拠はあるんだからね」
 黒峠が携帯電話を取り出した瞬間、宮川はいきなり席を立って走り出した。黒峠もコートをつかんであとを追いかける。



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