28


 亜沙子と宮崎の睨み合いが続いた。こんな時だというのに黒峠はまだしつこくくしゃみをしている。誰かがコショウでもぶちまけたのではないかと思うくらいの激しさだ。ついでに鼻をかむ音。マナーを知らない奴だ。
 あの人、風邪ひいたって言ってたっけ。亜沙子は頭の片隅で黒峠とのやりとりを思い出した。
「黒峠有紀に、そう言われましたか」
 宮崎は静かに言った。
 その男の名前が出てくると、ろくなことがない。驚きはしたものの、なるべく表情に出ないようにつとめ、目もそらさなかった。そらした方が負けだ。宮崎の目は強い意志が宿っていて、うっかり目をそらせたくなってしまう。
「どうしてここに黒峠先生の名前が出てくるのよ」
「さっきからくしゃみばかりしてるじゃないですか」
 変装は無駄だったようだ。
 黒峠に助けを求めたいところだったが、亜沙子は金縛りにでもあったみたいに動けなくなっていた。もうくしゃみは聞こえてこない。
 先生、気づいて。
 念じてみたものの、通じるという期待はなかった。普段から心がバラバラなのに、そう都合よく通じるはずがない。
「柊さん、あなたは優しい人のようだから、忠告してあげますよ。いや、警告かな。黒峠有紀には近づかない方がいい。何も知らないまま、彼から遠ざかるのがあなたのためだ。そばにいても良いことは一つもない。そうでしょう?」
 危うく頷くところだった。
「そんなのあなたに関係ないじゃない。私が誰と会って何をしたって、それは私の勝手よ」
「黒峠有紀はあなたを不幸にします」
 やけに心に響く言葉だったが、認めるわけにはいかない。こんな得体の知れない人間に同調してはならないのだ。否定するほどでもないが。
「あなたは誰なの。どうして私のあとをつけたの。黒峠先生とはどういう関係なの」
「僕の本当の名前は宮川達也。それ以外は知らない方がいい」
 到底納得して引き下がれるような話ではない。睨み合いは更に続いた。睨み合いといっても、敵意をむき出しにしているのは亜沙子だけで、宮崎――宮川は、にこやかと言ってもいいほどの表情で見つめ返している。
 お洒落な店で、同年代の男性と食事をして、見つめ合っているというシチュエーションで、これほどロマンチックではない状態がどこか悲しかった。全てのロマンスは自分の元から全速力で逃げていく仕組みにでもなっているのだろうか。
 突然、何か引きずる音と、女性の悲鳴じみた声が聞こえてきた。
「お客様!」



[*前] | [次#]
- 28/157 -
しおりを挟む

[戻る]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -